9
駆けに駆けたら直ぐに妙覚寺に着いた。
息を切らし血相を変え猛烈に廊下を走る彼を、怪訝そうに皆が振り返る。
日頃の彼では考えられない程荒々しく、いきなり襖を開けた。
先ず目に飛び込んできたのは、突く事も斬る事も可能な数多の人の血を吸ってきた鎌十字の槍『人間無骨』。
「兄上ぇぇーー」
「何用じゃ!騒々しいのぅ。途中からそちの姿が見えなかったようじゃが何をしておったのじゃ? 」
兄の質問には答えず逆に問い掛けた。
「兄上は楠田与兵衛という男を御存じですか? 」
「楠田、与兵衛? 」
長可は顎を手で撫でながら暫し考えた後、言った。
「ああ、あの小悪党か。馬を盗んで森家を出奔しおった愚か者よ。運良く今日の馬揃えで見つけたから成敗してくれたわ」
当然の事をしたまでとほくそ笑む。
「馬を盗んだ?ですと? 」
「そうじゃ。そちが金山を発ってからな。馬を盗んで出奔しよった。中々の名馬であったから売って金にしたのではないのか? 」
乱法師の身体がわなわなと震える。
「なぜ──なぜ──いきなり他家の家臣を斬り捨てたりするのですか?河内守殿に事情を話して後、しかるべき御裁決を上様に──」
「そんな、まどろっこしい事がやっておられるか!大体、馬を盗んだ奴が悪い。罪人を成敗してやったのじゃ。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いなどないわ! 」
「帝がおわす場を血で汚すなど……上様の御威光に傷が付いたら兄上のせいです!せめて時と場所をお選び頂く事は出来なかったのですか? 」
「出来ねぇなぁ。何年儂の弟をやっておるのじゃ!罪人を見つけたから斬った!それだけじゃ!!それとも何か?罪人を見逃せと申すのか? 」
長可の大きな目玉が狂暴な光を帯び、ギョロリと動く。
兄弟は暫しの間睨み合った。
大きく溜め息を吐き、乱法師は諦めたように言った。
「例え兄上とて……上様に事の次第を申し上げます」
「ああ、儂は逃げも隠れもせぬ。上様にでも地獄の閻魔にでも申すがいい」
不毛な覚悟に呆れ、踵を返し部屋を出て行こうとすると、森家の家老各務兵庫が袴に取りすがってきた。
「どうかどうかぁぁ上様には御内密にぃぃ。森家の事を大事と思われるのであればどうかぁ……」
「くっっ!出来るかあーー」
容赦無く振り払い部屋を出て行く。
遅れて着いた平八と信基が部屋の前に立っていた。
憐れみの目で乱法師を見つめている。
「っまぁ、考えてみりゃあ最初からここに来れば良かった訳じゃな。こんな大それた事するのは、そちの兄ぐらいしかおらぬものなぁ」
「乱、何と申せば良いか。そちの兄の悪名は都でも名高い。関所破りや瀬田の唐橋の件でのぅ。麿も早う気付くべきであった……さすれば走り回らずに済んだのにのぅ。兄の命乞いには麿も力を貸そう」
がっくりと脱力しそうになるのを堪え、力を振り絞り本能寺に向かってまた馬を駆った。
馬を駆っている最中に、兄をどう庇おうかと考えを巡らす。
あんな兄でも兄は兄。
弟として兄に対して限りない負い目と弱味がある。
あんな兄──
兄弟にしか分からない絆と思い出があった。
父と長兄の討ち死にの報せが届いた日の事。
兄が十三歳で家督を継いだ日の事。
不安そうな幼い弟達に向かい『案ずるな。必ず生きて戻って来る。』と言い置き、初めて出陣した日の事。
兄を理解出来るのは、血を分けた自分達兄弟しかいない──
本能寺に着くと急いで信長の元へと向かう。
早くしなければと思うのは、誰よりも先に耳に入れ慈悲を乞う為。
襖の前で声を掛け、答
顔から血の気が引き虚ろな目に入ってきたのは、同じように蒼ざめた坊丸と力丸の顔だった。
「これはこれは、かの御方の弟君のお出ましじゃ。貴殿の兄の処罰について今皆で話し合うているところじゃ。無論、何を仕出かしたか存じておりましょうなぁ」
長谷川秀一の嫌味には慣れているが、己よりも年も格も上の重臣達の難しい顔と視線が突き刺さるようで辛い。
つい助けを求め信長の方に視線が泳ぐ。
信長は顎髭を何度も触っていた。
眉間に皺寄せ、苦し気な面持ちだ。
此度はさすがに無理かもしれない。
そう思った時、信長が重々しく口を開いた。
「武蔵守の一件は聞いた。処遇については追って沙汰する故、一同下がれ! 」
その言葉を聞いた面々は簡単に引き下がってはいけないと本能的に感じた。
毛利河内守と長谷川秀一が乱法師を睨み付ける。
「今ここにおられる方々の前で処分を決めて頂く訳にはいかないのでしょうか?此度の振る舞い到底赦し難く、帝の御前で華麗な馬揃えを行おうとも、ただ一つの悪事により汚されたのでございます。ここで放置しておけば、また上様のお顔に泥を塗るような真似をするに違いありませぬ。どうか、ここは心を鬼にして真の鬼を御成敗下さいませ」
河内守が必死に食い下がる。
今、引き下がったら処分が軽くなってしまうに違いない、と。
森兄弟に対する異常なまでの偏愛。
乱法師に対する寵愛も異常だが、長可にも常に寛容を通り越し甘かったからだ。
「追って沙汰すると申した筈じゃ。儂は疲れておる。一同下がれ! 」
信長は断固とした態度で命じた。
主が疲れているというのに、尚も詰め寄る訳にもいかず全員渋々と退出する。
「上様……申し訳……」
皆がいなくなった途端、肩を震わせる信長に謝ろうとすると──
「──くはあ──あはっははああはっはっはあーっはははああーー」
信長は腹を抱えて笑い出した。
「──ああ、もう──ふっふ、笑いを堪えるのに必死でな──苦しくて、苦しくて、はぁ……」
呆然とする三兄弟に尚も言った。
「ったくしょーがねぇなあ。また、やらかしやがった──何であやつは毎回懲りないんじゃ?全く! 」
「上様、兄は帝の御前を血で──」
笑い事ではないだろうと眉を潜める。
「ふふふ、将軍の関所破りに瀬田の唐橋、今度は帝がいようとお構い無しとは、やるのう 」
「兄のした事は決して誉められる事ではなく、処罰無しでは皆が納得しないのではありませぬか? 」
兄を庇う筈が調子が狂ってしまい、却って処罰を望む発言になってしまう。
「仕方ないもんは仕方がなかろう。また、どうせやるだろうしな!次は何をやらかす事か、ふっふ」
悪童じみた顔をして、どこか楽しげな信長の様子に困惑しながら、兄の事を受け入れ理解を示してくれる人間が、目の前にも一人いるのだと感じた。
相性というのは理屈ではない。
共にいて居心地が良いと感じるのは、相手が有能だからでもない。
同じような視点で物を考え、良い事も悪い事も共感し合える。
世間では非常識でも、己と同じような悪さをする人間は憎めない。
それに長可は信長を徒に恐れたりしない。
取り繕ったり、良く思われようという感覚が欠如しているからだ。
良く言えば五歳の幼児よりも純粋で正直。
信長の笑顔に乱法師の心が震えた。
父───父上──
身も心も愛し、母や兄や弟達、家族全ての懊悩や悪事まで丸ごと受け入れ、全てを許してくれる大きな存在。
父とは、父とは──
───
毛利河内守の嫌な予感は的中した。
「何の御咎めも無しじゃと? 」
傍らの家臣に鬱憤をぶちまける。
「はっ!どのみち罪を犯して出奔した馬丁であれば、いずれこちらで始末する事になったでしょう。そう考えれば所詮は馬丁一人の命。始末する手間が省けたと思えば……」
家臣の冷静な意見に毛利河内守は余計に苛立った。
「そんな事は分かっておる。以後、気を付けよで終いじゃ。蟄居も無し。何故、あんな獣を可愛がられるのか?まさか、まさか、武蔵守も閨で? 」
想像したくもない疑問が湧き上がる。
「まさか!いくらなんでも、あんな野獣のような男。閨で睦み合う相手に選ぶとは……さすがに、それは……」
「世の中には脛毛濃く胸板厚い男を好む者もいると聞く。趣向が変わられたのやもしれぬぞ」
河内守は閨で睦み合う信長と武蔵守の姿を想像してしまい、嫌悪で顔を歪ませた。
「上様の御好みは、お乱殿のような細面の繊細で賢そうな御顔立ち。武蔵守は真逆。いくら何でも。それに武蔵守は上様の小姓としては侍らず、家督を継いで金山におりました。今も金山か岐阜か戦場を行き来する身で上様の閨に侍る暇など。そのような噂を聞いた事もございませぬ」
河内守は漸く絵的にも物理的にも無理だと納得し安堵した。
「それなら何故、野獣を野放しにされるのか?お乱か?やはり皆が退出した後に甘い声で上様に縋り付いたとしか思えぬ。森兄弟め! 」
───
毛利河内守が怒りに身を震わせていたのと同じ頃、裁決に納得いかぬ者が此処にも一人。
「だから私は奴等が嫌いなのです。常軌を逸しているとしか申しようがありませぬ。御馬揃えは無事に終わったから良かったようなものの。親父殿の御苦心が、最後の最後で!そう思うと悔しうてなりませぬ」
「与一郎、もう良い。無事終わったのじゃ。帝も感激されておられた故、良いではないか。言い方は悪いが河内守は運が悪かった。あの武蔵守を怒らせた馬丁を雇い入れてしまったのじゃから」
明智光秀は義理の息子の忠興を宥めた。
「親父殿は御心が広い。此度はやり過ぎでございましょう。それを御咎め無しとは!細川家の家臣が斬られたのであれば私は黙ってはおりませぬ」
「無論じゃ。儂とて明智の家臣が害されたのであれば黙っておらぬ。だが、そうではなかったのじゃ。それに、決して森家とは事を構えるな」
忠興は、義父の最後の言葉に含まれる重い意味を悟った。
だが若い彼は意味を悟っても、受け入れ難いと抗いたくなる。
先を思えば心は更に重くなる。
忠興は森兄弟と年が近い。
『黙っておられぬ』と息巻いた所で、万が一森兄弟との間に紛争が起これば、向こうにどんな非があろうとも処罰が下される事はないだろう。
この先、兄弟に遠慮し媚びへつらい、非道な行いにも見て見ぬ振りをする己の姿など想像したくもなかった。
忠義、武功は兄弟にひけをとらない。
それなのに信長と意思を通じるという一事に関して、他の家臣と同様に円の外側にいると感じるのだ。
内側にいる者達の取り次ぎがなければ対面すら許されぬ寂しさと悔しさ。
光秀は忠興の心を察し、優しく諭した。
「与一郎、媚びろと申しておるのではない。君子危うきに近寄らずとな。武蔵守には近寄るなと言う事じゃ」
「頼まれても近寄りたくはありませぬ。ですが、お乱は厄介です」
『厄介』という言葉が乱法師の存在を的確に表していた。
「厄介?寧ろ他の近習のように染まっていない。真面目で礼儀正しい若者じゃ。上様の寵がやや深過ぎるというだけ。使いようじゃ。兼和がお乱をうまく使っておる」
───いつしか夜は更け、春の月が長閑に浮かんでいた。
二十五日の下弦の月を拝めるという事は、もう真夜中を過ぎた頃だろう。
光秀は満足だった。
漸く終わった──
大役を果たし終えて疲れた身体を褥に横たえると、あっという間に眠りに落ちた。
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