乱法師は隣人となる信澄の在宅を伺い、手土産を持参して挨拶に出向いた。

 信澄は信長のすぐ下の弟、信勝の息子である。

 極めて美男で、年は兄の長可と同じ頃。 

 彼が産まれた年に父の信勝は信長の手で殺された。

 家督争いを兄弟で繰り広げた結果、謀殺されたのだ。

 

 赤子の彼を信長は殺さなかった。


 その後続く冷酷果断な処置、処刑の数々からは想像出来ない程、弟の遺児を大事に育て、彼の能力を高く評価し重く用いている。


 父を伯父信長が殺した事は信澄も無論知っている。

 出生は悲劇的でありながら、信長の優しさと信澄が伯父を敬う心が伝わり、胸が熱くなった。


「乱と呼べば良いか?まだ若年なのに随分気が利く事じゃ。儂に気遣いは無用故、早々に普請致せ」


 帰る途中で伊集院藤兵衛が口を開いた。


「七兵衛様(信澄)と若は似ておられた。面立ちも佇まいも話し方も。御兄弟のようで正直驚きましたぞ」

 

「これ、無礼であろう」

 

 嗜めながらも心の片隅で、ちらりと感じてはいた。


「亡きお屋形様が御存命の折、勘十郎様(信勝)を拝見した事があるのですが、七兵衛様(信澄)は真に良う似ておられる。上様に謀叛企てられた故、あまり大きな声では申せませぬが、折り目正しく涼しげな男振りでおられた」


 藤兵衛は内心考えた。


『つまり若は勘十郎様(信勝)にも似ておられる。邸を隣に建てよという仰せは偶然なのか? 若が亡きお屋形様の御子でいらっしゃるのは間違いないが……』


 どんなに頭を捻ろうとも、面立ちが似ているからと邸を隣に建てさせる意図を考え付く筈もなく、偶々であるという結論に落ち着いた。


 乱法師にとって邸を賜った事は心の底から有り難かったが、歴々の奉行衆並の立地に普請を許された以上、金山に戻りづらくなると複雑な心境になった。


 安土は今や日の本の中心である。

 信長の側にいるだけで様々な知識を高められた。

 諸国の情勢は無論の事。

 物や銭の動きを肌で感じ、信長自身による軍談から得られる戦略戦術も然り。

 多くの身分の者達と接し、教養を深め海の向こうにまで視野が広がっていく。

 其れ等は正しく彼が金山から安土に来た意味の中核を成していた。

 安土に来て良かった。

 そう思いながらも浮かぶ迷いは金山の方角へと流れて行く。

 此処で学んだ事を美濃の発展に生かし、兄と馬を並べて共に戦う。

 それが己の成すべき事──


「蘭……」


 低い囁きが彼の心に細波を起こした。

 はっきりと信長を慕っている。

 だが彼は、その情熱を主に対する敬愛と捉えていた。

 恋を知らず、性愛を淫らな事と考える気持ちが強く働き、信長を初めての愛の対象とするなど考えも及ばない。


 信長はその気持ちを察しながら、己の肉欲に躊躇無く従う事で、彼の未熟さを慈しみ楽しんでいた。

 蠱惑的な色香と涼やかな気品に鋭い知性、それらに反して、どこか鷹揚とした素直さが可愛くて仕方がない。

  

 彼の心の内には弱々しい砦が未だある事は承知している。 

 身体は何度も開き、己を受け入れるよう慣れさせてきたが、心の砦は力でねじ伏せる事は出来ぬもの。 

 自ずから開くように優しく攻めなければならない。


 そっと舌で愛撫するように──

 

「──何と愛らしいのじゃ、そなたは」

 

 無論、彼を金山に帰すつもりはなかった。


────

 その日は、乱法師が不動行光の腰刀を預り厠の外で控えていた。

 信長は用を足すのに邪魔な腰刀は常に小姓に預けている。

 刀を預けるくらいだから、小姓であるという時点で信頼がおける者という事になるだろう。

 

 信長は名刀と呼ぶに相応しい刀を、およそ五百本程所有していたとも云われている。

 腰刀とは一尺以上二尺未満の鍔のない刀の事だ。

 戦場では槍が主であり、首を掻く時、槍が折れた時などに使用する。

 室内では太刀よりも長さがない分使い易い。

 数多くの名刀の中でも『不動行光』を格別に愛し、酒に酔うと自作の小唄を良く口ずさんでいたと云う。

 

『不動行光つくも髪、人には五郎左、御座候う』


 つくも髪とは松永久秀から差し出された名物茶器の九十九髪茄子、五郎左とは古参の重臣丹羽長秀の事で、信長にとって無くてはならない大事な家臣という意味が込められている。

 

「いつ見ても豪華な拵えじゃ」


 華美な拵えに、うっとりと眺めずにはいられない。

 鞘は朱漆塗りに斜め下半分に金着せ、柄巻きは金茶で下地は黒の鮫皮、下緒は金糸と白糸の唐組、鞘には何分か分からないが刻みが施されている。

 刀身に不動三尊が彫られている事から不動行光と称されているのだ。 

 彼は刻みに目を止めた。

 

『そういえば何分刻みなのだろう。二分か三分か?刀身を一尺と八寸程とするなら──数えてみるか』


 厠から信長が中々出てこないのを良い事に、新たな探究につい夢中になってしまう。

 

 信長は用を足し終え、ふと厠の窓に目を遣り乱法師が鞘の刻みを一生懸命数えているのを見て首を傾げた。

 何が面白くて、と思いはしたが、愛しい者の無防備な姿を眺めるのは良いもので、他の者なら叱責していたであろうところ、数え終わるまで待っていてやった。


 数え終わったところで、いかにもすっきりしたという態度で出ていくと、冷静な小姓の顔に戻り腰刀を返す。


 信長はある事を思い付き、翌日それを実行した。

 小姓達を広間に集め、こう言った。 


「これなる不動行光の鞘の刻み目の数を当てた者に、この刀をやろう」

 

 皆が一斉ににどよめいた。

 興奮し歓喜に湧く。


 その場にいた近習、堀秀政や長谷川秀一は各々訝しんだ。

 信長が肌身離さず所持する名刀は、武功を立てた者に褒美とするに相応しく価値あるものだ。 

 主の愛刀ならば尚更下賜された者は主の愛と信頼に感激するだろう。


『不動行光をこんな座興じみた数当てで、武功もない小姓共に与えるじゃと? 』


 長谷川秀一は小姓達の顔を見回した。


 皆が瞳を輝かせる中に、一人だけ俯いて少し落ち着かない様子の者がいるのに気付いた。

 皆が順番に数を言い、俯いていた小姓が最後となった。

 信長は中々答えようとしない小姓に訊ねた。

 

「蘭、何故そなたは答えぬ」


 乱法師は数当てをすると聞いた時から酷く動揺していた。

 まず何故いきなりこんな事を言い出したのか。

 こっそり数えていた事を知っているのなら試されているのか。


 勿論名刀は欲しい。

 

 偶然言い出したにせよ、既に数を知っているのに答えてしまったら、後でばれた時が恐ろしい。

 悩んだ末、彼は普通の少年らしく普通に考え普通の結論に辿り着いた。


「既に数えて存じておりますので、答える訳には参りませぬ」


 彼に与える為の座興というのに、予想外の答えが返ってきたので一瞬場をどう納めるべきかと悩み、機転をきかせた。


「そなたは何と正直者なのじゃ。黙っていれば良いのに、よくぞ申した。不動行光は、そなたに遣わそう」


 まさか貰えると思っていなかったので呆然としながらも、膝間付くと名刀を受け取った。

 素直に嬉しさを噛みしめながら小姓達が控える部屋に戻ると、皆の様子に違和感を覚えた。

 彼は育ちの良さからか常に鷹揚として、人の悪意や妬みの感情に対してはかなり鈍い。


「お蘭殿、刻みを数えたのはいつの事じゃ? 」


 小姓達の視線が突き刺さり、さすがに察した。


「うーん。随分前の事ゆえ。確か、まだ安土に来て日が浅い頃だったであろうか」


 曖昧に誤魔化し何とかその場を切り抜けた──


 不動行光を手にした事が嬉しくて、邸に戻ると直ぐに傅役の伊集院藤兵衛と小姓の武藤三郎に伝えた。


「上様は、それにしても豪気な御方じゃ。このような名刀を儂のような若輩者に下さるとは……」


「上様は余程、若を大事に思われているのでしょう」

 

 二人は感じる儘に答えた。

 

「儂でなくとも数を当てた者がおれば、その者に下されたであろう。おらなんだ故、儂に下されたのじゃ」


 乱法師は二人の答えに不服そうに反論した。

 この一件を知る殆どの者は、信長が彼を愛するが故に惜し気もなく与えたのだと察している。 

 理屈ではない情愛は周囲にも伝わり、当の本人以外には、信長が如何に彼を慈しんでいるかは明白だった。


 そういう点で乱法師は大変奥手であり、心の動きがゆったりとしているのだ。 

 信長が愛して止まない彼が醸し出す春のような麗らかな風情は、そんなところから来ているのかもしれなかった。


─────

 

 長谷川秀一は数当ての件を万見重元に早速漏らした。 

 万見は嫌な予感を覚え、一瞬顔色を変えた。 

 長谷川は茶番に気付き憤り、あくまでも己の地位が乱法師に脅かされる事を危惧し、過度な寵愛に妬みを感じているに過ぎない。


 万見は今だ嘗て見た事もない信長の一面を知り不安を覚えた。


 人の子なれば好き嫌いも多少の依怙贔屓も仕方がないが、彼の知る主は己にも他者にも厳しく、賞罰に対して公平であろうと努めてきた。

 今回の事は小さな手柄に対する過剰な報償という依怙贔屓ですらなく、ありもしない手柄を無理矢理作ったのだ。

 

 彼自身も信長に見出だされ才を現し、近習としての地位を確立してきた。

 だが乱法師に対する寵は、それを遥かに越えている。

 正しい数を言っても間違えても、既に数えていたと言っても、刀は乱法師のものになっていた筈だ。 

 付き合わされた小姓達は憐れだが、最初から彼に与える為に行った茶番なのだから。


 盲愛──溺愛──そんな言葉が頭に浮かぶ。


 回りくどい方法を取ったのは、理由もなく名刀を与えれば乱法師が他の家臣から妬まれると考えたからだろう。


 彼が感じた不安とは、どことなく生に執着しない信長の危うさに対してなのか、それとも、己自身に訪れようとしている間近に迫る死の予感だったのか──




 

 

 


 

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