「上様、お願いがございます」


 乱法師は頭を下げ手を付いた。

 信長は唇の片側を微かに上げ、顎髭を撫でながら考えた。

 表情だけで言わんとする事を察してしまうのは、肌を重ねてからだっただろうか。


 四月に入り、毛利方に寝返った三木城攻略に当たっていた羽柴秀吉から援軍要請があった。

 毛利、宇喜多直家の中国の軍勢、村上水軍も含め、十万もの大軍が播磨に進攻し、織田方の上月城を包囲したのだ。


「兄の陣に加わる事を──」


 信長の嫡男信忠を総大将とした援軍には兄の長可もいる。


「まだ早い」


 最後まで言う前に一蹴されて悔しさが込み上げた。


「どうか──」


 少し怒った顔付きは幼く、誰かに似ていると、ふと思った。

 

「蘭、鉄砲の玉は何で出来ておる? 」


 その誰かの顔が頭に浮かびそうになるのを、己の声で遮った。

 

「鉛でございます」


「鉛は何処から運ばれてくるか存じておるか? 」


「シャム(タイ)でございます」


「ではシャムは何処にある? 」


「明よりも遠いとしか──申し訳ございませぬ」


「良し、あれを見せよう」


 直角に交差する木製の輪が嵌まった球体は、水平の輪に取り付けられた縦棒三本と、中心を斜めに貫く軸とで巧みに支えられていた。

 信長は乱法師の反応を楽しみながら、球体を回転させた。


「上様、これは如何なる物でこざいますか? 」


「地球儀と申してな──」


 信長は切支丹の宣教師から贈られた品である事、我等が立つ大地は球体なのだと話して聞かせた。


「これが我が国じゃ。地球儀の上には海を越えた先にある様々な国が記されておる。此方が明じゃ」


 山程の問いで頭が膨れたが、信長の指し示す先を黙って見詰めた。

 いきなり球体の上で暮らしていると言われても戸惑うばかりだが、海の先の先はこのように続いているのかと興奮で溜め息を洩らす。


「シャムを探してみよ」


 目を凝らして地球儀を回しても見付けられない。

 信長は背後から彼の手を取ると、人差し指を握ってシャムの上に置いた。


「世界は広く大きい。こうした国と交易を行えば、また莫大な銭が手に入る。銭は力じゃ。桑名を見てきたんだったな。儂が次に欲しいのは何処か分かるか? 」


「摂津石山本願寺──では?ですが戦も有り得るのでしょうか?これ等の国々と」


「聡いな。今までしてきた事と変わらぬ。敵の敵と手を結び戦に和睦じゃ。結局は銭じゃ。銭があれば武器も買えるし強い船も作れる」


 大きな事を考えれば小さな事はどうでも良くなる。

 初陣は小さな事なのだろうか。

 自分にとっては大きな事だ。


「この地球儀を見ていると、小さな事は気にならなくなる。そう、思わぬか? 」


 信長の右手は彼の指を握った儘、左腕は腰に回され、項に唇が触れた。


「万見を手伝え」


 耳元で信長が囁いた。


───


 四月の半ば過ぎ、越後の上杉謙信が没した。 

 播磨の上月城へ大軍が押し寄せる中、織田軍にとっては思いがけない朗報だった。

  

「私を御信頼下さり諸事をお任せ下さるのは本望なれど、一人では手が回りませぬ」


 万見重元は、信長が信頼する奉行衆の一人だが、余りの忙しさに珍しく弱音を漏らした。

 

「蘭に手伝わせる」

 

 乱法師を政務に携わらせようと考えていた矢先だった為、好都合だった。

 小姓部屋に置いておくよりも呼び寄せ易いという、やや私的な理由もある。

 信長は何事も一石二鳥を好んだ。


 しかし万見の胸中は波立った。

 乱法師の事は利発で礼儀正しく、憎めない少年だと思っている。

 

 信長の寵愛振りは、やや行き過ぎの感はあるが、謀叛が頻発する時代にあって寵臣を側に置きたがる事は人として理解出来る話で、周りもある程度は黙認していた。


 そうした類いの寵臣達は歴史の結果を見れば両刃の剣であり、良い例としては最も信頼出来る腹心として主の最期まで付き従うか、或いは剛勇の士として活躍し主を支える武将として育つかである。


 悪い例も数多く、寵臣が増長し、他の家臣の妬みを買い主家を滅ぼす事態に発展する事もあった。 

 信長の弟の信勝が謀殺される直接の原因となったのは、津々木蔵人なる男色相手を重用し、柴田勝家の反感を買ったからと云う。

 乱法師がいずれであるかより、この上なく有能な家臣となるよう育てれば問題はないのだが──

 人手が欲しい事もあり妥協したが、兄の長可が討ち死にし、乱法師が森家の家督を継ぎ金山に戻る事があれば正直嬉しいというのが本音である。

 天下平定を目前にした織田家中に思わぬ波紋を広げかねない面倒な存在となり得るからだ。


 天正四年から始められた安土山への築城は困難を極め、多くの人が駆り出され、時には僧侶まで動員される始末だったが、完成まで後一歩というところまで来ている。

 城の外郭はほぼ完成し、後は内装に絵師として狩野永徳が筆を取り、金や銀をふんだんに使った極彩飾の濃絵を襖、壁等に描かせているという事で、いよいよ年が変われば完成も間近と思われた。


 内側は未だ想像がつかぬが、安土城の天守は地下も含めれば七層にもなり、それぞれの階の色も、果ては形まで異なっていた。


 最上階は金色に、四、五層目は八角形で朱塗り、三層目は青く、一層目から二層目までは白壁で塗られ、美しい漆黒の窓が目を惹く。

 瓦は美しい瑠璃色で、巨大さも色彩の鮮やかさも、まるで夢幻の城の如くであった。


「蘭、そなたにも、そろそろ邸が必要じゃ。場所はここが良い」


「はっ──邸、でございますか?私の? 」


「そうじゃ。此処からなら天守はすぐじゃ」


 此処とは、天守閣に至る黒金門から程近い場所、しかも驚くべきは信長の甥、津田信澄のすぐ隣りという立地である。

 万見の下に置かれたとはいえ、乱法師は未だ只の小姓であり、武功も吏僚としての実績もない。


 乱法師は悩んだが、その場の歴々の奉行衆が口を閉ざしているのに固辞するのも妙だと思い慎んで受けるしかなかった。


 太田牛一が、覚え書きとして書き留めている大まかな安土城の縄張り図に乱法師の名を書き込む。

 何げなく信長はそちらを見遣り、目が紙の上で止まった。


「牛一、蘭の字が違うておる」

 

「は……? 」

 

「蘭の字が乱れるという字になっておろうが」


「恐れながら、お乱殿の初出仕の際に御名の字を確認致しましたところ、乱れるという字と仰せでございました」


「蘭、真か? 」


「はっ!乱れるという字で間違いございませぬ。中々申し上げる機会もなく申し訳ございませぬ」


 牛一以外の者全てが蘭だと一年も思い込んでいたので、実は乱だと知り、牛一のこうした抜かりなさに改めて一同感心した。


「機会がなかったじゃと?確か鷹狩りの時に湯殿でそなたに──」

 

 言いかけて、乱法師が更に俯き顏を赤らめているのを見て悟り薄く笑う。


「まあ良い。呼び方には変わりないからのぅ。乱か、悪くない」



 

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