第4章 不動行光
年明けて天正六年
乱法師が安土で過ごす初めての正月を迎えた。
金山で家族や家臣達と過ごす正月とは異なる華やかさと慌ただしさだった。
織田家の有力家臣達は勿論、正月は各地の小名、豪族等も安土に出仕し、年始の挨拶の為多く訪れる。
武将達の対応に追われる小姓達。
百名近くもいる小姓の名も顔も乱法師は把握しているが、本日は全員が駆り出されていた。
兄の長可と会うのは久しぶりだ。
年始の朝は、選ばれた十二人の武将達との茶会から始まった。
道具立ては素晴らしく、松島や三日月の茶壺、万歳大海の茶入れ、水差しは帰り花等。
どれも自慢の茶器である。
茶頭を松井夕庵が務め茶会が終わると、諸将達の出仕となった。
武将達の中には兄の姿もあった。
筆まめな兄に対して、乱法師は三度の文に対して一度くらいしか返していない。
特に書く事もないし、書いても無駄だからという理由もある。
お互い要求がある時か弱気になった時にしか文を出さない処は兄弟揃ってそっくりなのだが、本人達に自覚はない。
浅小井での夜の後、また迷いが生じて兄に文を
『私は何度も申しますが小姓には向いていないようでございます。上様のご気性では今すぐにでも手討ちになるやも知れず、森家の皆、兄上にまでご迷惑をかけてしまうのではと悩み眠れぬ夜を過ごしております。弟の世迷い言とお捨て置きにならず、どうか兄上から私を金山にお戻し下さるように申し上げて下さいませ』
弟からの文を受け取った長可は眉をしかめ鼻息を荒くした。
「兄が心配して文を出せば、忙しいからと傅役や小姓に代筆させる癖に、たまに本人から寄越したかと思えば女々しい弱音ばかり!上様のご寵愛比類無しと聞いていたからこそ安堵していたものを、我儘なあやつは此度は何を思い悩むのか」
側に控えていた家老の各務兵庫は、はてと首を傾げた。
ご寵愛と申せば確かに光栄には違いはないが、猛々しい信長の事、『閨でも……』と、口に出しにくい事を思い巡らす。
「上様は、やはりその、その──ご気性が荒く、昼も夜も乱法師様を……えーその──くぅ……」
酷く歯切れ悪かったが、長可は何かを察し、各務が言い淀んでいる事をはっきりと言い切った。
「武家の男子たるもの尻を掘られたぐらいでいちいち泣き言を申すなと伝えよ」
『何と!歯に衣着せぬ言い様か』
己が言えなかった事を躊躇無く口にする主の気性に今更ながら感心しつつも、乱法師には相当曲げて伝えねばなるまいと思案した。
結果、『己の尻は己で拭け』という主旨で本人には伝わった。
「鬼のように厳しい兄じゃ……もう頼まぬ」
と、がっくりと肩を落とした。
年始の挨拶の後、長可は安土に数日間滞在した。
似ていないようで似ている兄弟である。
文だと話が噛み合わないが、面と向かって酒が入ると、お互い細かい事はどうでもよくなる性分なのだ。
「これを見ろ」
兄が唐突に渡す紙を広げると、幼子の物と分かる小さな手形が押されていた。
「可愛いいだろう。男子を望んだが、産まれてみると女子でも可愛いくて仕方がない」
昨年暮れに産まれた長可の赤子は女子で『おこう』と名付けられた。
長可の正室は信長の乳兄弟池田恒興の娘である。
手形だけ見せられてもと、曖昧に「はぁ、まぁ」と答えた。
「もっと凄いものを見せよう」
もう一枚渡してきた紙を広げた途端、顔から血の気がさっと引き一気に酔いが醒めた。
「──これは──!物の──」
「良く取れておるであろう。おこうの顔じゃ」
乱法師は物の怪と最後まで言わずに済んだ事に心底安堵した。
「顔に墨を塗って紙を押し当てたのじゃ。皆は止めたが、どうしても戦場に持って行きたかったからのぅ。おこうは泣き喚いて大変じゃった」
真剣に見入る弟に得意気に語る。
幼い姪が哀れで、叔父として一言何か言ってやろうと思ったが、「これからも、おこうが大きくなる度に顔を写し取っていきたいものじゃ」と、いう兄の嬉しそうな顔を見て無駄と諦め直ぐに話題を変えた。
「母上や弟達は変わらず元気に過ごしておりましょうか? 」
「何じゃ。母上にも文を書いていないのか」
実は母には頻繁に文を書いていた。
「忙しくしておりますので中々書けずにおりまする。金山に戻られましたら、乱は元気にしておりますとお伝え下さいませ」
兄が臍を曲げるのではと思い咄嗟に嘘を吐いた。
「そちも随分気弱な文ばかり寄越すから、内心では心配していたが元気そうで何よりじゃ。ともかく父上の武名に恥じぬように身を慎め」
殊勝な弟の言葉に優しさを覗かせ、そう念押しして長可は安土を発った。
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