5
商人達が多く行き交う道だからであろうか。
幅は凡そ二間、松が植えられ柳が風にそよぎ、夜更けても荷を背負った人馬の姿が絶えない。
信長の顔がちらりと浮かんだ。
宿屋、酒場、まだ灯りが所々に残っていた。
道行く男達の袖を引く妖しげな女達。
宿は取らずに馬を休ませ、木に凭れ鳥の声を聞いた。
夏の夜空に煌めく星が彼を癒してくれた。
八風峠越えは少々疲れたが、姿を覗かせた太陽に活力が湧き、先を急いだ。
気持ちが逸り、馬を駆る。
途中、宿で休憩して再び馬を進めた。
陽が空の中央に留まる頃、目的地が視界に広がった。
これが潮の匂いか──
銀色に煌めく海面が眩しい。
伊勢の国、桑名の湊。
美濃の金山を流れる木曽川の執着地点。
流れ行く水は伊勢湾へと広がる。
幼き日、父に訊ねた。
「ちちうえ、木曽川のずっとずっと先には何があるのですか? 」
「伊勢の桑名まで続いて、その先は海になる。湊があるのじゃ。大きいぞ。金山湊よりずっとな」
「では、あの舟は伊勢まで行くのですか? 」
「此処から運ばれた荷は桑名の湊で下ろされる。桑名からは魚が運ばれる。そちが朝に口にしたのは伊勢の海で獲れたものじゃ」
「乱も行ってみとうございます」
「何れ大きうなったらな。目にすれば分かる。大きな流れが──」
記憶は其処で途切れていた。
「大きな流れ」
三つの河の水を呑み込む大きな海を見渡せる湊。
伊勢湾には、数え切れぬ程の船が浮かんでいた。
風で膨らむ白い帆を張った廻船、釣り船。
金山湊とは規模が違う。
初めて見る海。
心地好い潮風に海鳥の鳴き声。
「凄い船の数じゃ。津料は如何程になるのか」
ざっと目算してみる。
この湊には海、陸、河を通じて物も人も集まる。
人が集まれば宿屋も繁盛する。
寺も潤い、物の取り引きが盛んになれば役銭が沢山取れる。
技術者が集まり工業も発展する。
物だけでなく情報も集まる。
大きな流れが、大きな利を生み出している。
港からの税収は関銭、津料、帆別銭、港町から地子銭、棟別銭、役銭などがある。
但し、状況や訴えに応じて其れ等を免除して既存の権力との軋轢を避けたり発展を促したり、別の形で銭を取り立てるなどしていた。
税は年貢米、労働で支払われる夫役などもある。
或いは、矢銭(軍資金)を徴収される場合もある。
嘗て此処は十楽の津と呼ばれ、自由な交易都市であったが今は信長の支配下に置かれていた。
信長が嘗て存った尾張の熱田とは海路を経て通じ、木曽川を下れば美濃に至る。
桑名を抑える事は軍事上、重要な意味を持つ。
制海権を得て敵の補給路を絶つと同時に自軍への物資を円滑に運ぶ。
戦にはともかく銭が必要だ。
莫大な利益を生み出す各地の湊が織田家を躍進させてきた。
「それにしても広いな」
広さは五、六町、家や寺が数千軒も軒を連ね、数千艘の船が停泊していたと伝わる桑名の湊。
領内の関所を撤廃し、楽市楽座で人を集めるというのは良く知られる信長の政策だ。
都市の経済の発展を促すという狙いがある。
楽市楽座とは楽市と楽座。
楽市は市場税や営業税の免除。
楽座は組合による商売の独占の撤廃。
関銭にしてもそうだが、こうした政策には柔軟性も見られ、楽市と楽座が必ずしも同時に領内全てで施行された訳ではない。
要は柔軟な対応をしていたという事だ。
夢中で歩き回り、商人達から諸国の情勢を聞き出したり、肉厚の蛤を食べたり値段の交渉をして楽しんだ。
此処に来たそもそもの発端である信長との事は、既に忘却の彼方にあった。
しかし、取り引きされる品の中に美濃紙や美濃の焼き物を見付け、彼は思い出してしまった。
我に返れば、随分と大それた事を仕出かしたものだ。
突き動かされる儘に無断で小姓としての勤めを放り出して来てしまった。
今頃、家臣達は青褪めているであろう。
悔やんでも時既に遅し。
この事態を丸く収める方法を瞬時に捻り出せる訳もない。
「戻らねばならぬ」
分かっていても覚悟が定まらない。
戻った後の事は一切頭に無かった。
殆んど一睡もせずに夜通し駆けた疲労に襲われ、目眩がした。
「一先ず宿で休もう」
宿で息を吐き、ごろりと横になる。
湊の熱中から覚めれば、頭に浮かぶのは信長の顔だ。
彼は信長の行為の意味が理解出来なかった。
抱かれている間は只恐ろしく、酷い事をされたと考えていた。
腰に手をやり刀の柄を握り締める。
「ん? 」
形見の刀を邸に置いてきてしまった事に思い至り焦った。
「戻らねば──何としても戻らねば──」
彼にとっては命よりも大事な刀である。
お陰で頭の中の信長像は消え失せた。
握り飯を四個も頬張り、気合いを入れて安土へと急いだ。
どう言い訳するかは後回しで、父の刀の事で頭は占められていた。
疲労困憊で安土に辿り着き、邸の門を潜ると家臣達が駆け寄ってきた。
「若様!! 」
そして取り押さえられた。
「具合が悪いと……そう伝えてあると……」
当に今、極めて具合が悪い乱法師は呟いた。
何処に行っていたかについては既に問い質されている。
話しは、乱法師が出仕しないのを信長にどう言い訳したかに移っていた。
「上様は何と? 」
上様と口にするだけで泣きたくなった。
「良く休むようにと。御近習の青山虎殿をわざわざ遣わされ、若様の事を大変案じておられるとか──」
途端に罪の意識に苛まれた。
「案じておられる。儂が邸におらなんだ事は御存知ないのか」
もう四日は出仕していないというのに。
奇妙な胸の高鳴りに動じ、父の刀の柄に触れる。
家臣達は、此度の出奔が信長の寵を受けた事に関連しているのではと察しが付いていた。
実のところは早くも痴話喧嘩かと、憶測を心に秘める者もいた。
「左様でございます。もう具合は良くなりましたと、明日出仕なされませ。さすれば何事もなく済みましょうぞ」
家臣達の瞳には一様に懇願の色が浮かんでいた。
此処で嫌だとごねても、寄ってたかって説得されるだけだし、下手をすれば幽閉だ。
それに、本当の事を知られたら森家全体に咎が及ぶかもしれない。
覚悟と言うより諦念に達しかけた時──
「大変でございます。上様御近習の青山虎殿が参られました」
近習の来訪を告げられ、室内に緊張が走る。
慌てて病人の体を取り繕い対応した。
目の下に浮く隈が功を奏したのか、仮病を疑われる事なく、青山虎の巧みな説得に折れ、翌日出仕する事を渋々承知した。
────翌日
覚悟の無さを物語る足取りで仮御殿に向かい、小姓部屋に入ると直ぐに信長に呼び出された。
嘘を吐いた経験が余りない彼の心臓ははち切れそうだった。
声を掛けて襖を開けると信長が一人で待っていた。
身体が汗ばむ。
「蘭、近う。もっと近う参れ」
信長の声を久しぶりに聞いた気がした。
こんなに優しい声音であったろうか。
「大事ないか? 」
「はい、もうすっかり良くなりましてございます」
「それは良かった」
真に身を案じてくれていたのが伝わり、やや心苦しくなったが、今回の件は信長のせいでもある。
軽く息を吐いたところで信長が問いを発した。
「何処まで行ってきた? 」
はっと顔を上げ、信長の目を見て、さっと青褪める。
唇を噛み締め俯き、血が逆流して今度は耳まで赤くなった。
「金山か?家族には会えたか? 」
口調は穏やかで怒っている様子はない。
何故知り得たのか、という疑問がぐるぐると頭を巡る。
身体が震えて顔を上げる事が出来ない。
信長はそんな様子を見て、鳩尾の辺りにむず痒さを覚えた。
その儘眺めていたいような抱き締めたいような心持ちである。
嫌われた訳でもなさそうだと思いつつ、一度も謝罪が無いな、とも感じた。
とはいえ、彼に罪があるかというとそうとも言えない。
愛しさが高まり強引に彼を褥に押し倒した事から端を発していると承知していた。
つまり彼と己との間で解決すれば良い私的な問題である。
目の前の彼は、か弱い存在であり怯えている。
普通ならば、絶対的強者の己に頭を下げ、縋り付きたくなる心境であろうに。
悪いと思っていないのか。
家臣達の中には信長を前にすれば言い分を抑え込み、直ぐに謝って逃げを謀る者もいる。
「金山ではなく……桑名の湊に行って参りました」
乱法師は何処までも正直だった。
と、いうより誤魔化せないと悟り、観念したというのが正しい。
指先が、腰に差した父の刀に触れた。
「桑名?その刀、何処かで──三左のか」
「は……仰せの通り父の遺した刀にございます」
唇を震わせ顔を上げて答える。
やはり、謝罪はない。
信長の鳩尾に温かな痒みが広がり、掻き毟りたくなった。
「何故、桑名に? 」
乱法師は父の言葉を伝え、湊を散策して感じた儘を正直に語った。
「八風越えか。千種(千種街道)を選んだら狙撃された事があったな。あの湊は今も楽座の儘じゃ」
淡々と話しが進んでいく。
信長は何処か楽しげであった。
どのような形で収益を得て、どれくらいの
利を上げているかまで話し始めたのには驚いた。
彼が問うと分かり易く説明してくれた。
話しは長島の一向一揆での戦術にまで及び、いつの間にか時を忘れ熱心に耳を傾けていた。
桑名の湊を見て信長の話しを聞き、此処で己の欲するものは得られると確信した。
何故、桑名に行ったかは打ち明けたが、どうして黙って邸を抜け出したかは聞かれていない。
聞かれても責められても困る。
責めるならば、あのような真似に及んだ訳を教えて欲しい。
だが今、二人きりで、あの夜の事に話しが移るのは恐ろしい。
互いの事情で、初夜の生々しい話しは回避された。
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