暁光はいつもなら爽快に感じるのに、今朝は己の弱く情けない姿が曝されるようで辛かった。

 昨夜の行為に打ちのめされていても、何とか身繕いを済ませ、礼儀正しく寝所から退出する。

 折り目正しい日頃の姿には遠く、自身で整えた髪は乱れ、瞼は腫れ上がっていた。

 宿直の後の非番は有り難く、屋敷に戻ると水を浴び、すぐに着替えた。 


 膳が運ばれても箸は進まず、普段は育ち盛りなので飯は何杯もお代わりするのに、汁物と香の物しか喉を通らなかった。

 憔悴しきった彼の姿を見て、家臣達は初めての宿直なので疲れているのだと納得したようだ。


 一人になると衾を被り、さめざめと泣いた。

 何もかもが受け入れ難く、この先どのように奉公をして良いか分からなくなり、泣き疲れて寝入ってしまった。


──


「乱法師様、お目覚めでございますか? 」

 

 襖の外の声で目覚めた。 

 金山から小姓役として付いて来た武藤三郎である。

 

「何じゃ」

 

「御屋形様から文が届いておりまする」


 金山を出立する前は、あれ程殊勝に側を離れたくない役に立ちたいと可愛い気を見せたのに、すっかり存在を忘れていた兄の事だと気付く。

 忘れていたとはいえ、今の乱法師にとっては頼もしい存在には違いなかった。

 文に早速目を通した。


『何故そちらから文をよこさないのか、もう小姓勤めは慣れたのか、くれぐれも上様のご不興を買う事がないよう気を引き締めよ、儂の役に立つ話しを耳にしたら、すぐに文を寄越せ』


 丸めて屑籠に投げ入れたくなったが、三郎の前なので思い留まる。

 むかむかと腹が立ち、床から起き上がると望み通り文を認め始めた。


 長可は弟からの文を受け取ると激怒した。


『文を書く暇などなかった 、小姓勤めは楽しいと聞いていたのに話が違う、兄上に役立つ話は全く耳に入ってこない、今のところ御不興は買っていないが、それも時間の問題だから金山に帰れるよう兄上から上様に申し上げて欲しい』と、いった内容だったからだ。


「我が儘で女々しい弟じゃ!まだ一月しか経っていないというのに、もう戻りたいと抜かしよる」


『そちは上様の御側で十年でも二十年でもお仕えし、性根を叩き直して貰え 』と、書いて送り返した。


 傅役の藤兵衛が兄弟の擦れ違いを察し、信長の寵を受けた事を匂わせる文を送った。


『上様の御寵愛ひとかたならず』


 森家の重臣達は喜んだ。

 男色が蔓延っていた時代、主の閨の相手に選ばれる事は決して悪い話しではなかった。

 無論相手にもよるが、今や日の本一の権力者である信長に特別に目を掛けて貰えるからである。

 長可は、「何じゃと?信じられぬ」と、顔をしかめて考え込んだ。

 鼻を垂らし小便を漏らしていた幼い頃の印象が強く、どうしても信長の寵愛を受けるなど信じられなかったからだ。


「あやつのどこがそんなにお気に召したのか? 」


 しきりに首を傾げ不思議がった。


 季節柄、陽はしぶとく空にあったが、やがて傾き月に座を譲った。


 兄に文を認めて後、乱法師は一心不乱に槍を振るい武芸に打ち込んだ。

 武家の少年として特に武術の鍛練には重きを置いている。

 小姓として仕える以上、信長の出陣が彼の初陣となる筈だ。

 乱法師の鬼気迫る突き込みは家臣達の目にも異様に映った。

 声を掛ける隙がない。

 突如、乱法師の動きが止まり、柄が手から離れた。

 汗だくでへたり込んだ彼の瞳を、斜陽が眩しい程に照らした。


 槍は壁に、太刀は枕元の刀架に常に備えてある。

 若い肉体は彼の狙いに反して、湯浴み後に大方の活力を取り戻していた。

 よって寝付けない。

 仄かな灯りが映す影が形を変える。

 それは彼の心そのものである。

 胸中を占めているのは無論信長の事だ。

 明日、どのような顔をして会えば良いのか。

 分かり易い不安を無理矢理脇に押し退けようとすると父の顔が浮かび、兄の言葉を発してくる。


「武名に恥じぬように」


 初陣も済ませていない彼に武功を立てよという意味ではないのだ。

 流石、あの三左衛門可成の倅じゃと信長に認めて貰えるような振る舞いを心掛ける。

 そういう事なのだと気を引き締めて勤めていたつもりだった。


 彼に触れてきた信長の肌の熱さ。

 耳元で聞いた荒い息遣い。

 薄暗がりの中、己に注がれる鋭い眼差し。


 乱法師は身を起こし、父の形見の打ち刀を仕舞ってある漆箱を開けた。


「父上、父上──」


 細い声音で呟きながら、刀を抱き締め頬を擦り寄せる。

 若年とはいえ、家臣達には見せられぬ姿とは承知していた。

 数えで六歳の時に逝った可成は、頭を撫でたり肩車をしてくれる優しい父として彼の中に留まっていた。

 動揺が鎮まり箱に刀を戻す。

 観念して再び身を横たえ瞼を閉じた。

 途端に信長の顔が目の前に迫ってきた。


 飛び起き、灯火を暫く見詰めた。

 立ち上がると慌ただしく小袖袴を身に付け、枕元の太刀を腰に差した。

 銭を入れた錦の袋を懐に押し込む。

 襖を静かに開け、不寝番の家臣達の目を掻い潜り厩まで走り、馬を宥め裏口から忍び出た。


「警護が甘いな」


 肩の力が抜けた。

 馬を駆り、夜道を進む。

 琵琶湖沿いの下街道に出て迷いが生じた。

 右か左か。

 左に馬首を向け、月を見上げた。

 故郷に続く道。

 母の顔と弟達の顔が浮かび、兄の顔を振り払う。 

 後ろ髪を引かれつつ右に馬首を返した。


「父上──」


 父との数少ない思い出。

 近江八幡から南方へ走る八風街道を進んだ。

 





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