翌日、本丸の物見櫓に上ると、馬を連ね城に向かってくる兄の長可の姿が遠目にも分かった。

 信長の嫡男で岐阜城主信忠の麾下の武将としての目覚ましい活躍振りで、信長親子の寵と信頼は篤い。

 同年代故、良き相談相手として付けられ、腹心とも言える立場にあった。

 正確な初陣は十六歳になるが、十七歳の時、長島一向一揆勢との戦いで、単身舟で敵陣に乗り込み二十七もの首級を上げるという小兵ながら鬼神のような戦い振りをしてみせた。 

 返り血で朱に染まった主を見て家臣たちは言葉を失い、以降彼を侮る者はいなくなった。

 

 彼は実は利口な人間である。

 手っ取り早く家臣を従わせるには理屈よりも力だという事を承知していた為、それを示してやっただけの事だ。 

 必要とあれば形振り構わず鬼と化すのに躊躇ためらいなど無い。

 そんな長可だが、木曽川を下り伊勢から運ばれてくる海魚や塩などの専売権を、昨年から城下の領地の商人達に与え利益に税を課していた。

 塩は生活に欠かせない物、海の魚は内陸である美濃では入手しづらく良く売れた。 

 専売権を与える事で税収を得るという、猛将とは違った施政者の顔も持ち、民の評判も中々のものだった。


 

 天正三年に信長は、信忠に家督と岐阜城を譲り渡し安土に居を移している。 

 天正四年から、空前絶後、絢爛豪華な安土城の築城を始め、今は筆頭家老の佐久間信盛の邸を仮の住まいとしていた。


 乱法師は岐阜から戻った兄を門で出迎えた後、大広間に呼ばれた。

 

「乱、そちに良い話を持ってきてやったぞ」

 

 頗る上機嫌で、部屋に入るなりそう告げた。

 側には森家の家老である各務兵庫や重臣も数名控えており、乱法師の傅役の伊集院藤兵衛の姿もあった。

 

「上様が、そちを小姓として召し抱えると仰せ下された。お目通りは五月に入ってからになるであろうが、もう三月も下旬ゆえ、所持万端整えて四月中頃には此方を出立出来るようにしておかねばなるまい」

 

 そこにいる誰もが次の言葉を予想していなかった。


「嫌でございます」

 

 涼しい顔で乱法師は言い放った。

 

「何故にございますか? 」


 誰もが呆然とする中、長可の怒りが爆発する前に慌てて各務兵庫が問い質す。

 長可は太い眉をしかめ、大きな目を見開き満面朱をそそぎ、今にも沸騰しそうであ

った。

 背丈は七歳年下の乱法師と同じ程で身幅も無く、決して恵まれた体躯とは言えぬが鋭い眼光と覇気がそれを補う。

 淡々と、水のように静かに端座する弟とは似ても似つかない。


「つまらなそうだからじゃ。儂は早く戦に出たい。上様のお身の回りの御世話をする事が武士として何の役に立つのか? 」


 恐ろしく各務の心遣いを無視した返答であった。

 打てば響く利発さと鋭さがありながら、良家の若様という風情で常に鷹揚とした雰囲気を漂わせ、悪びれないのが良いところでもあり悪いところでもあり。

 家臣一同蒼白となり、しんと静まり返ってしまった。

 長可は極めて血の気が多く怒れば手が付けられないが、乱法師には激しい急流と緩やかに流れる気の両方が心の内にあり、水のように炎を鎮める力を持っていた。

 如何に腹が立とうとも、さすがに弟を叩っ斬る訳にはいかない。


「上様の有難いお心が分からぬのか?父のいない儂らを常に案じられ、御側に置いて下されようというのじゃ。御側におれば学ぶ事は数限り無くあろう」

 

 語気を強めながら、首を傾げた。

 京や堺にも近く、巨大な城を建築中とあれば、十三歳の少年の血が騒がぬ筈がない。


「上様の御側ではなく、兄上の御側にいたいのです。早く共に戦いたいのです。戦に出られる年になるのを待っていたのです。お役に立ちたい。その思いで今まで鍛練してきたのに」

 

 弟の激しく健気な思いは溢れ急流となり、兄の怒りの炎をあっさりと鎮火した。

 場はいきなりしんみりとなり、中には涙ぐむ家臣までいた。

 

「相分かった。なれど上様のお気持ちを無下にする訳にはいかぬ。気持ちは嬉しいが、十三歳での初陣は些か早かろう。御側にお仕えすると申しても一生ではなく、数年の間小姓として様々な事を学べると思えば良いではないか」


 乱法師はそれでも不満気に俯いた儘だ。

 鎮火した炎が再燃しては大変とばかりに家老の各務が後を引き継ごうと腰を浮かせる。

 

「お屋形様、必ずや某が説得致しますれば、ここは一先ず」


 乱法師を慌てて部屋に下がらせ、三日くらいかけて寄ってたかって説得した。 

 安土の賑わい、南蛮人の風貌、京や堺の面白さ。

 南蛮菓子がいつでも食べられる等々。

 望めば十五歳になったら元服させ金山に戻す許しを得て初陣をさせる事。

 特に効果があったのが、信長公は大変恐ろしい方なので仰せを断れば、長可や森家がただでは済まないかもしれないという脅しだった。


 日々の鍛練に加え、信長の気性、好み、謁見の際の心得、織田軍の組織、属する武将の名前、身分性格、特徴などについて叩き込まれた。

 その間を縫って、暫く戻れなくなるであろう生まれ育った金山の地を名残惜しみ、鳴鳥ないと狩りをすると、早朝見事な雉が捕れた。

 鳴鳥狩りとは宵のうちに雉が鳴いたその場所で、早朝狩りを行うという狩方だが、鷹狩で捕った雉は「鷹の鳥」と呼ばれ、最高の美味、馳走であり、縁起が良い物とされていた。


「乱法師様、安土に参られる前に鷹の鳥とは縁起が良い。日頃の行いがご立派故、神仏がお味方下される事でしょう」


 家臣達が大袈裟に誉め称える。

 雉を捕ったのは幸先良しとはいえ、家臣達が前々から乱法師にだけ随分甘いと感じていたのは気のせいではないと長可は確信した。

 

 乱法師との七歳の年の差の間に妹、乱法師の下には、坊丸、力丸、妹、仙千代と男子が下にばかり詰まっている。

 上と下が逆転すれば、もう少し楽が出来たのにと両親の子作りの有り様を恨んだ事もあった。

 父の死の知らせを聞いた時を思い出す。  

 力丸は周囲が泣いているのを見て、つられて泣きながら粗相をしてしまう程幼なかった。 

 漸く乱法師が小姓として出仕を許される年になったかと、父親のような気持ちで感慨に耽った。


「乱、其所に座れ。授けたい物がある」


 兄の顔は厳めしく、背筋を真っ直ぐ伸ばし神妙な顔付きで待った。


「そちに与える」


「これは──父上の御刀」


 長可が右手で握り締め、乱法師の目前に突き出してきたのは、可成が遺した腰刀であった。

 乱法師の胸にぐっと熱いものが込み上げる。


「泣くな!父上が笑おうぞ」


「はっ──!」


 涙を堪え両手を差し出し刀を受け取る。

 ずしりと、その重みを噛み締めた。

 

「父上の武名に恥じぬように。それ以上申さずとも聡いそちには分かっておろう」


 兄に褒められた記憶は無い。

 聡い、今、褒められたのだろうか。

 

「はい! 」


 乱法師は力強く頷いた。


 出立の日、父の菩提寺の可成寺で手を合わせ、次に木曽川での船旅の安全を祈願する為水の神を奉る貴船神社にも立ち寄った。

 共をする者は傅役の伊集院藤兵衛、小姓役として森家家臣、武藤兼友の伜三郎、甲賀忍びの伴家の縁者、伴与左衛門の三名。

 

 伴家と森家は可成の代より親好篤く、忍びは当時独立した集団として大名に雇われ諜報活動を行うのが常だったが、立場を越えてさまざまな場面で力を貸してくれていた。

 此度も安土までの護衛と道案内をしてくれる事になり、全く頼もしい限りだった。

 

 家族や家臣達の見守る中、舟に乗り込む。

 

「では、行って参ります」


 舟は木曽川を安土に向かい進み始めた。 

 四月も半ばを過ぎた頃の事であった。


 川沿いを新緑が鮮やかに彩り、初夏の風に艶やかな髪を吹かれ、生まれて初めてで一番の遠出に不安よりも楽しい気持ちが勝り、叫び出したい程爽快だった。

 

 筏に積まれた木材がいくつも運ばれて行く。

 

「あの木材は、安土に運ばれるのであろうな? 」

 

「はい、恐らく安土の御城に使うための木材かと」

 

 藤兵衛が答える。

 水運を利用しての移動は陸路よりも早く、大型の荷を運ぶのに適している。

 途中の湊で宿を取り、墨俣からは陸路で安土まで進む。

 下旬には安土城下の森邸に到着した。


 まだ築城途中とはいえ穴太衆によって積まれた大きな石垣、熱田大工の岡部又右衛門により組まれた城の骨組みの様子から、とてつもなく巨大な城が頭に浮かんだ。

 

 既に安土の城下町の賑わい、通りの広さは金山とは比べようもない。 

 城の普請の為に駆り出された職人達が忙しく立ち働き、熱気と人の多さに圧倒される。

 謁見の日取りが決まるまで、琵琶湖を渡り京にも足を伸ばして美と食を堪能した。

 謁見はいよいよ五月の二日と決まった。



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