第30話 殺人鬼

 Aは、何かを思い出したような様子で、その腰のあたりに恐る恐る手を伸ばした。彼の顔に、じんわりと汗が浮かぶ。だが、動揺しているわけではないようである。何か覚悟を決めたような、そんな顔をしていた。


「俺は、お前を、殺しにきたんだ……。冗談、じゃないからな」


 Aの手には、包丁が握られていた。ごく普通の包丁だが、AとBしか無いこの場所においては、この凶器は、なによりも恐ろしい。Aは、包丁を体の前に持っていき、その切っ先をBの方へ向けた。


 これには、さすがのBも目に見えて動揺していた。汗は顔を伝って流れ、黒目はカクカクと揺れている。人の殺意というのもまた、恐ろしい。たとえBのように、あらかじめそれを察知していたとしても、その現物を目の当たりにすれば、誰でも腰砕けになってしまうのである。


 Bは急に静かになり、彼の笑みはどこかへ行ってしまった。


「君。そんなもの持っていたのか」


「ああ。よく覚えてないけどな。家から出るときだろうな。そん時に持ち出したんだろうぜ。こいつでお前を……」


「待ってくれ」


 あの口達者なBが、ほんのわずかな言葉しか発することが出来ない。しかも、自信のない震えた声である。完全に形勢は逆転した。


「待ってくれ。なんというか、あまりにも、急すぎないかい」


「急……か。お前、俺のことよく見てみろよ。泥だらけだ。血だらけだ。こんなに

までなってな、俺はここまで来たんだよ。全部全部、お前を殺すためだ」


 Aは、「殺人鬼」と化してしまっていた。見た目からしてそうである。泥まみれで、血まみれで、手には包丁を握っている。


 しかも、残念ながらそれは、コスプレにとどまっているわけではない。内側もそうなのだ。彼は、怖いほど冷静に見える。自分の殺意を、その手で、完全にコントロールしているのだろう。


 Bの顔は、後悔一色に染まっていた。こんなところへ来てしまったことを後悔しているのか。それとも、Aにとってそれがストレスフルがと知らずに、あまりに長く話し過ぎてしまったことをだろうか。

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