第四章 Aの決断
第17話 帰還
「……なさい。…にしなさい」
かなり近くで声が聞こえる。視界はかなりぼんやりしていて、身体は少しだけ、いや割と大きく揺れている。
「しっかりしなさい!」
やっぱりだ。やっぱり、母の声。何と言うか、ガラスを割ったような声だ。あの人は、怒っているときよくこんな声になる。私はこの声が昔から大嫌いで、いつもは耳障りに感じる。だが今は、この声を心の底から愛おしいと思っていた。待ち望んでいたと言ってもいい。
私は大急ぎで、自分の五感を元に戻した。
すると、視覚は薄暗い私の部屋を、嗅覚はエアコン産の空気のにおいを、聴覚はその空気が流れる音を、触覚は足元にある薄いベッドを、味覚は腐った唾の味を、それぞれ私に知らせた。しかし、母の存在や痕跡が知らされることはなかった。母は幻影だった。
この幻影は、一体どこから来たのか。十六年経った今でも私にかすかに残る、母への甘えからか。それとも、「歴史は繰り返す」という、私の楽観的世界観からか。もうどちらでもいい。
とにかく、母は私の傍にはいなかった。でも、いてほしかった。そのうえで出来ることなら、母に私の胸倉をつかんでもらって、私の頬を一発か二発張ってほしかった。
私は、私にまとわりついていた徒労感から逃げるように、そのまま足元のベッドに身を委ねた。皮肉なことに、ベッドは思ったよりも柔らかく、優しく私を包み込んだ。
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