第5話 祝福の地


 ほえー、と大口を開けて、エルシャは遙か高くまで続く防壁を見上げた。


 防壁は高度な魔法によって組み上げられた石壁で出来ていて、祝福の地の一つアルディシアと、それ以外の周辺外領を分断している。

 この壁は単に物理的な境界というだけでなく、土地神に守られた神国の神民と、加護なき外領の外民を区分する、象徴的な存在でもある。


「祝福の地……土地神の棲まう場所、かあ」


 この世界には、大きく分けて二種類の土地がある。

 一つは祝福の地。もう一つがそれ以外の外地だ。


 土地神と呼ばれる神を奉じ、その恩恵を受ける祝福の地。祝福の地は肥沃な土壌を抱え、産出される鉱石も品質が良い。災害は少なく、水は清らかで、疫病が広がることはまず無い。家畜も非常によく成長し、その性質は大人しい。


 対して、土地神の祝福なき外地はその逆だ。土壌は痩せ、鉱石は不純物まみれ。災害や疫病が頻繁に発生し、獣たちは凶暴で頻繁に人を襲う。


 祝福の地に暮らす神民たちの神国。

 外地に暮らす外民たちの外領。


 この世界は神に選ばれたものと、そうでないものという、二つに完全に分かたれていた。


「問題は、外民のわたしがどうやって神国に入り込むか、ですよねー……」


 祝福の地を手に入れるのは、外領の者にとっての悲願だ。そのための戦争が繰り返され、そのたびに祝福の地の守りは堅くなっていった。


 エルシャの目の前に立ち塞がる高い防壁は、まさにその争いがもたらしたものといえるだろう。


「どうしたらいいんだろう。そもそも、この防壁に門とかあるんですかね。師匠はなんて言ってたっけなあ……」


 言いながら防壁に手を当て、エルシャは特に意味もなく歩き出した。


「この剣なら斬れるかなー。でも斬ってどうしよう。たしか穴を開けると分かるようになってるとか聞いたような……」


 ああでもないこうでもないと思案にふけりながら、エルシャは防壁沿いに歩いていく。

 組まれた石材の一つ一つに、わずかな魔力を感じられる。これがおそらくは防壁を強固にし、同時に襲撃の警報代わりにもなっているのだろう。本当に堅く作られた壁だ。


 ——と、なんとなしに眺めていたところで。ふと気付く。


「防壁に描かれてるあの模様、いや、紋章かな? どこかで見たことあるような……」


 とても古い記憶にも思えるし、つい最近のことのようにも思える。

 紋章……精緻で、どこか堅苦しい……


「あっ!」


 そこでようやく思い出した。

 クガナから渡された包み。その中に地図と共にあった装飾品。エルシャは慌てて懐から取り出し、見比べる。


「同じだ……」


 防壁の紋章と同じ形が、今エルシャの手の中にあった。

 だが、この事実の意味するところが分からない。


「師匠は、わたしに一体何をさせたかったんだろう……?」


 装飾品を手にして、じっと見つめる。そして不意にとん、と装飾が防壁に当たった。


 途端。

 目の前の壁が、唸り始めた。


「な、なになになに!?」


 唸る壁は紋章の装飾品が触れた場所を中心に、花弁のような螺旋状に形を変えて動いていく。少しずつ凹み、閉じ、その動きが止まった時には。


 エルシャの目の前に、円形の通り道が造り出されていた。


「…………ほわー……」


 最初に防壁を見上げた時よりも、一段と間の抜けた顔で。エルシャは防壁に空いたその穴をぽかんと見つめていた。


 と、ぼーっとしているうちに、今度は逆向きに防壁が形を変え始める。


「……ああっ、まずいまずい!」


 ぽかんと開いた口のまま、慌ててエルシャはその穴に飛び込む。そして着地。一回転。からの跳躍! と、無駄な演舞を披露したところで。


 エルシャの目の前に、雄大な緑が広がった。


 地面の全てを包むような草原。点在する木々には様々な実がなり、鹿や牛のような獣がゆったりとそこらを歩いている。少し遠くには河原があり、透明な水の色がこの距離からでもはっきりと分かった。


「これが、神に祝福された土地……」


 これは確かに、外領の民たちが命をかけてでも手に入れたくなるのも理解できる。まさに天国か桃源郷のような場所だ。


「…………はっ! しまった、また呆気にとられてた! だめだだめだ、本来の目的を思い出さないと!」


 かぶりを振って、頬をはたき。エルシャは改めて、クガナの残した地図に目をやる。


「師匠の付けたこの印、ここアルディシアなのは間違いないんだけど、地図上だとちょっと国土の中央からずれてるんだよね。師匠のことだから、これにもたぶん意味がある」


 木の高さと影、太陽の位置を確認し、続ける。


「アルディシアの、この位置に行けってことだよね、これ。だとすると、ノエンから来て、入ったのはこの辺りだから、えーと……向こう、かな」


 背にした大剣を掴み、構える動きをして、離し。地図と装飾品を懐に仕舞う。


「よし、行こう。街道は一応避けた方がいいよね?」


 返事はない。いつもならクガナが、冷めた口調で何か嫌味を言ってくれるのに。


「……師匠、わたしは絶対に見つけ出してみせますからね……」


 唇をぎゅっと噛みしめて、エルシャはアルディシアに広がる草原を歩き始めた。



 ◇



 草原を越えて、滝に近い沢を抜け、深い森の奥へ。

 その間、エルシャはアルディシアの地で一夜を過ごした。


 空気の澱んだ外地では見ることの出来なかった、清浄な夜空。深い黒の海に宝石のような星々が散りばめられ、世界がいかに美しいか、エルシャに語りかけているかのようだった。


 だが同時に、エルシャの心には一つの疑問が膨らんでいた。


 『やはり』。自分はこの景色を『知っている』。


 祝福の地の。アルディシアの。神が人の子のためにあつらえた理想郷の姿を。


 だとすると。クガナが自分をこの場所へ導いた理由は、おそらく……


「ここ、かな……」


 クガナが残した地図の、印が付けられた地点。そこには深い森があり、一つだけ、ぽつんと小さな教会が建っていた。


 深い森の奥に佇んでいたその古びた教会を、エルシャはまず遠目から窺う。


 人の気配は……ある。教会は古いなりに手入れされている様子だ。割られた薪は真新しく、井戸の周囲は地面が濡れている。


 どうしたものか。

 そう考えた次の瞬間にはもう、エルシャはその古びた教会の扉を叩いていた。


 ここしか手がかりはないのだから、迷うだけ無駄。たとえ自分がどういう存在であろうと、クガナに会うための歩みを止める理由にはならない。


 扉を叩いてから、しばらく。

 ようやくゆっくりと。あるいは恐る恐るに。古びた教会の扉が開かれた。


「はい。どちらさまで……」


 扉を開いたのは、少し老けた見た目の男だった。白髪混じりの髭をたくわえて、身体は肩幅も広くずいぶんと大柄だ。なのに不思議と、今はどこか小さく見えた。

 男はエルシャの顔を見るや、


「そんな、馬鹿な……」


 信じられないものを見たというように、顔を青ざめさせて身体を震わせた。


「あ、あのう……?」

「お逃げ下さい——! 今すぐに!」


 男はエルシャの耳元で、限界まで声を小さくして言う。


「え、逃げ……? なんですか?」

「説明は後で。ですのでどうか今は——」


「お初にお目にかかります。エルシュナーゼ様」


 急に後ろから話しかけられ、エルシャは咄嗟に前——は男がいたので、横へと飛び退いた。


「あら、申し訳ありません。驚かせてしまいましたでしょうか?」

「あ、いえ……こちらこそ」


 いつの間に後ろに? 人の気配など微塵もなかったはずだ。


「では改めてもう一度。お初にお目にかかります。エルシュナーゼ様。わたくし、ヨルメア・シファレスと申します。アルディシア元老院で議長を務めております」

「は、はあ……げんろーいん、ですか」


 エルシュには聞き慣れない役職を名乗ったのは、細身の服を着込んだ女性。短めの金髪で、年齢は二十から三十前後くらいだろうか。色は薄いが艶のある口紅が印象的だ。


「そちらの男性はボラス・ウィオン。かつてこの国の兵士長だった方です。さ、まずは教会の中に入りましょう、エルシュナーゼ様。何を話すにしても、玄関ですることはないでしょう?」

「あ、はい……」


 あっさり会話の主導権を握られて、思わず応じてしまう。

 しかしそこで、「あれ」と気付き、


「わたしまだ名乗ってませんよね」

「ええ、その通りですね。エルシュナーゼ・ヴィズ・アリオンロード様。わたくしはここで貴女をお待ちしていました」


 ヨルメアはエルシャの背にそっと手を当て、小さな教会の中に招き入れる。——というよりは、押し込んでいく、と表現した方が的確だろうか。力はさほど込められていないのに、強い圧力が感じられた。


 どうやら状況が、一つ悪い方へと進行したようだ。


「ボラスさん」


 すっかり血の気が引いている男に、エルシャは話しかけ。

 こくりと一度だけ、大丈夫と頷いてみせた。


 礼拝堂を抜け、暖炉のある部屋に入ったところで、改めて三人は顔を見合わせた。


「教会はいつ来てもいいですね。落ち着きます。……さて、ではまず自己紹介——は、もう済ませていましたね。そうなると、何からお話ししたものでしょうか」

「……あなたの目的を」


 エルシャが鋭い口調で言う。先ほどのような隙は見せない。いつでも背にした大剣を振るう準備は整っていた。


「エルシュナーゼ様はずいぶん気が短いお方のようですね」


 ヨルメアはくすくすと笑い、軽く机に身体を預ける。


「先ほども言いました通り、わたくしがここに来た目的は、貴女に会うことです。エルシュナーゼ様。近いうち、こちらに姿を見せるかと思いまして」

「答えになってないですよ、それ」

「たしかに」


 ヨルメアはまた一つ、小さく笑う。その表情はどこか薄っぺらい……とでも言うべきか。少なくとも、彼女の内面を何一つ表現していないように、エルシャの目には映った。


「では、貴女の望む答えを差し上げましょう。わたくしたち元老院の目的は、貴女の命を奪うことです」

「——っ!?」


 エルシャが思わず息を吞む。そして口を開く——のを、ヨルメアが制した。


「どうして、という顔ですね。では、わたくしからも質問を。貴女はご自身の出自について、あるいは血筋について。正しい認識をお持ちですか?」

「……この国……アルディシアで育った……ような、記憶はあります」エルシャは言葉に迷いながら言う。


「ただ、それだけです。祝福に満ちたこの国のような……とても自然豊かな場所で、両親と三人で暮らしていた、と記憶しています」


「ええ。その記憶は合っていますよ。貴女はこの国の外れで、ご両親と暮らしてらっしゃいました。七年前、行方不明になるまでは」


 行方不明。もちろんその間、エルシャはずっとクガナと共に旅をしていた。最初の二年は、ただ復讐の相手を追いかけて。そこからの五年は、師弟として。


 もちろんその間、故郷を全く思い出さなかったわけではない。炭のように焦げたトカゲを囓りながら、故郷の食事を懐かしむこともあった。


 しかしそれは同時に、鳥を射ってくれた父を、丁寧に料理してくれた母を、思い出すのと同じことでもあった。そしてその二人の仇は、いつもエルシャの目の前にいた。


 だから考えもしなかった。故郷にとって、自分がどういう存在なのか。故郷を今、支配している者たちが、自分をどうしたいと思っているのかなんて。


「……わたしは、この国で今、どういう存在なんですか?」


 察しが良いですね。

 とでも言いたげに、ヨルメアはエルシャに微笑みかける。


「アルディシアの先王ゼナルギウスの第六王子シュオンの娘。と言うと少々遠回りが過ぎますね。アルディシア王族、唯一の生き残り。というのが、一番分かりやすいでしょうか」

「……生き残り?」


「ええ。唯一の。七年前の戦……外領連合軍との戦争のさなか、アルディシア王族はそのほぼ全てが殺害されています。そこで唯一、死体が見つからなかったのが、まだ幼かった一人の姫君、エルシュナーゼ・ヴィズ・アリオンロード。つまり、貴女です」

「わたしが、この国の王族だと?」


「正確には、今は王ですね。女王。現在のアルディシアは、唯一死体の見つかっていない貴女を女王として戴き、その名代として、我々元老院の合議制で国家運営がなされています。貴女は形式上では、すでにこの国の支配者なのです」


 呆気にとられた。というのが正直なところだ。エルシャはヨルメアの手前、間抜け顔こそ晒さなかったものの、自分の置かれた状況をまだ呑み込めないままでいた。


 自分が女王? それも七年前からずっと? 憎しみをもってクガナについて回り、毎日師匠に剣を教わっては蹴り飛ばされていた自分が?


 だが、これでヨルメアが——あるいはヨルメアたちが——自分を殺したい理由は分かった。


「……だとすれば、あなた方元老院にとって、『生きているエルシュナーゼ』は不要だ、というわけですか」


 ヨルメアはどこか含みのある顔で頷いた。


「新たな王を立てるわけにはいかなかったんですか?」

「ええ。不可能です。理由の一つは、神国民の理解が得られないこと。行方不明とはいえ、王族の生き残りが存在する可能性がある以上、その捜索を優先すべきだという意見が消えることはないでしょう」


 エルシャはヨルメアの説明に、小さな疑問が浮かんだ。


「死んだということにしておけばいいんじゃ? とお思いですね」


 その通り。元老院が国家の実質支配を達成しているのならば、その程度の情報操作は容易に行えるはずだ。小娘一人、数字を誤魔化すなり、代わりの死体を用意するなり、方法はいくらでもある。


「本当の問題はもう一つの理由の方でして」微笑を崩さないままヨルメアは言う。「わたくしたちが勝手に王を立てても、土地神様に認められないのです」

「はい?」


 あまりにも予想外の理由に、ついにエルシャの表情が崩れた。


「貴女と共に、行方が分からなくなっていた重要な存在があるのです。それが土地神様より賜りし神の剣。神剣ソラス。貴女が今背負っている、その大剣です」

「えっ!?」


 さらにエルシャの顔が驚きの色に変わる。


「この剣が、神の剣?」

「ええ、そうです。神より賜りし王位の証。神より王権を与えられた証明たる剣。この剣なくば、この剣の使い手たり得なければ、神国アルディシアの王となることはかないません」

「では、あなた方の目的は……」

「エルシュナーゼ様の命と、神剣ソラス、この二つです。どうですか、今度こそご理解いただけましたでしょうか」


 ここまで堂々と目の前で『貴女の命を頂戴する』と宣言されることは、人生においてそうあることではないだろう。


 もちろん、クガナはエルシャに毎月必ず一度、些細な会話で言えば数日に一度ほどの頻度で、同じようなことを言われている。ならばその点にエルシャが驚くのは、自分を棚に上げすぎているというものだ。


 師匠に繰り返していた言葉が自分に返ってくる。これも一つの因果応報というものだろうか。どうにもおかしくて、エルシャはつい笑みを浮かべた。


「……何か?」

「いえ、何でも。……あの、わたしが殺される前に、一つ、お願いがあるんですけど。聞いてもらえますか」


「内容次第ですが、まずはお聞きしましょう」

「わたしには一つだけ、どうしても叶えたいことがあるんです。それを叶えるまで、わたしは死ぬわけにはいかない。あなた方にも全力で抵抗します。この神剣ソラスを振り回して。おそらく、あなたもタダじゃあ済みませんよ」

「それは怖いですね」


 ヨルメアはくすくすと、今回は苦笑に似た笑い方をする。


「それで、その願いというのは?」

「ある男を殺したいんです。わたしの両親を……おそらくは王族たちも、殺害した張本人。凄まじい腕前の剣士で、同時にわたしの剣の師匠でもあります。名前は、クガナ」


 その名を聞いた瞬間、ヨルメアの表情が一変した。瞳を見開き、微笑んでいた顔がこわばっていく。


「……その男は、今どこに?」

「それを知りたいんです。わたしは。師匠は五日前、奇妙な影に飲み込まれて消えました。ノエン城の近く、ザラとノエンの戦争の真っ最中でした」

「なるほど、なるほど……そういうことでしたか……」


 口元を隠すようにしながら、ヨルメアは呟く。

 それからまた、仮面のような微笑みをたたえて、ヨルメアはエルシャに問いかけた。


「エルシュナーゼ様、わたくしと手を組む気はありませんか?」

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