第4話 離れ離れ
日が落ちてから、しばらく。夜も更けた頃。
ザラ軍の駐留地から少し離れた木のそばで、エルシャは一人、大剣を抱いて座り込んでいた。
返り血が固まり、肌や服がパリパリと音を立てる。サファイアのようだった蒼い髪も、今はすっかり血で染まり、月光の下でくすんで見えた。
「師匠」
ぽつりと呟く。
エルシャが師と仰いだ男は、そう簡単にくたばる存在ではない。
わたしの師匠は、世界一強い。事あるごとに口にするその言葉に、嘘偽りはない。エルシャには、あの男の強さを、誰よりも知っているという自負がある。手練れの戦士たちを一人で斬り伏せるのを見てきたし、月に一度、戦いを挑むたびに強さの底がより深く感じられた。
師匠は強い。だから、こんなところで死ぬはずがない。そう確信している。
「クガナ」
耳障りな名前を呟く。
エルシャの家族、両親の仇。
抵抗する父を斬り、逃げようとする母を刺した、残虐な殺人者。あの日、あの時、両親を殺したあの男が、今ものうのうと、この空の下で生きている。そう思うと、全身に締め付けられるような感覚が溢れる。
沸き立つようなエルシャの憎悪は、いつもあの男が死ぬことを願っている。
どうか死んでいてくれ。クガナという名の、悪しき殺人鬼。
「わたしは、どうしたら……」
エルシャは返り血で固まった服を掴み、より強く大剣を抱きしめた。
「——あの」
そこで不意に、背後から声をかけられた。とっさに剣を構える。
「ひいっ! ごごごめんなさい! 驚かせるつもりは……」
話しかけてきた女性は、分厚いエプロンを着けていた。どうやら、軍の炊事か何かを担当している人物のようだった。少し落ち着いてみれば、全くの素人であることがよく分かる。
こんな相手の気配すら感じられないとは。師匠がそばにいたら、思い切り蹴り飛ばされているところだ。
「……こちらこそごめんなさい。わたし、少し気分が落ち着かなくて……」
エルシャが謝ると、女性も謝る。お互い何度か謝り倒して、それからエルシャたちは顔を合わせて小さく微笑み合った。
「ええと、それでどうしたんですか? あ。そういえばわたし、食事まだかも……」
「それもありますけど、ちょっと頼まれたことがありまして……あなたは、エルシュ……じゃない、エルシャ? さん、ですよね? あなたの、ええと……旦那さ——」
「——師匠のことですね。クガナ師匠」
「そうそう。そのクガナさん。その人に頼まれたことがあって。あの、言いにくいんですけど……その人って、今日の戦場で亡くなられました……よね?」
師匠は死んでない! と、強く抗議したい衝動にかられたものの、耐えきり。エルシャは平静を装った言葉を返す。
「……死んだかは分かりませんが、現在は行方不明です」
「あ、行方不明なんですか。じゃあ、どうなんだろう……」
うーん……と女性はしばらく悩み。それからええいままよ! とばかり、一つの包みをエルシャに押しつけて寄越した。
「……なんですか、これ?」
「中身は聞いていないのですが、そのクガナさんに頼まれたんです。もし自分が死んで、女性の方だけが生き残った時に渡してほしいと」
後方の非戦闘員にもしもの時のことを任せていた。ということか。今回のあの謎の影——とは、おそらく関係ない。
これまでの戦場でも、ずっとこうして、毎回誰かに頼んでいたのだろう。
師匠はそういう人だ。と、エルシャには強い確信があった。
女性に感謝を伝え、手間賃代わりに銀貨を数枚渡す。恐縮しきりの女性が立ち去ったところで、エルシャは息を整えた。
そしてゆっくりと、包みを開いた。
「…………? なんだろう、これ……」
包みの中には、見事な細工の飾りが一つと、地図が入っていた。
細工はよく出来ているものの、宝石のようなものは使われていない。装飾品というよりは、どこか堅苦しい……実用品のようにも見える。
地図の方は多少古くはあるものの、時間が経っていたとしても、せいぜい数年そこらだろうか。地図に書かれた地名もあまり昔のものではない。ユーベルク、ドート……よく見ればノエンやザラの名前もあり……
「……ここ、チェックが入ってる……?」
地図上で唯一、書き込みのされている地点。そこには一つの国があった。
国名はアルディシア。祝福の地と呼ばれる恵まれた土地をその領土とする、三神国の一つ。外領のノエンやザラとは違い、全てに祝福をもたらす土地神を奉ずる、本物の『国』。
「祝福の地……かあ。外民は侵略でもしないと入れないはずだけど……」
そこでふと。
祝福。という言葉が、エルシャの意識に留まった。
つい最近。ほんの数刻前に、師匠とこの言葉をやりとりしたじゃないか。と。
「ザラとノエン——から、一番近い祝福の地も、このアルディシアだ……! ノエンの背後にあるのも、おそらく祝福の地。たぶん師匠がこれを残したのは、今回の件とは関係ない。けど……」
立ち上がり、声を上げる。
「行ってみる価値はある! どうせ駄目で元々。ここで途方に暮れてるより、よっぽどいい! ……はず!」
エルシャはそう結論すると、すぐに駆け出した。
顔と髪を洗い、返り血まみれの服を着替える。旅の荷物をかき集め、軍の偉いさんに挨拶を済ませた。そして、もし師匠が戻ってきた時の伝言を、先の給仕の女性に頼むと、夜が明ける前に戦場から出立した。
「いざ行かん、祝福の地アルディシア!」
◇
無数の刃が黒い影を斬り刻んだ。そしてクガナは静かに、黒い何かに降り立つ。
と、再び。今度は黒い帯のようなものがクガナに巻き付き——また細やかに斬り裂かれ、舞い散りながら消失していく。
続けて巨大な魔獣の口がクガナを丸呑みにする。その腹から刃が生えるようにして、ぐるんと一周すると、魔獣の肉体は上下に両断された。そして再び、クガナが顔を見せる。
今度は球体がクガナを包み込むが、真っ二つにされて球体は霧散した。
「……まるで埒が明かないな」
その一部始終を見下ろしていた一人の男が、手にする本をぱたんと閉じた。
「エルシュナーゼ様を捕らえるはずが、とんだ怪物を食ってしまったものだ。しかし、君のような輩が護衛についていたのなら、これまでの追っ手が揃って返り討ちにあってきたのもうなずける」
「あいつが勝手に付いてきてるだけだ。護衛になったつもりはない」
「下手な嘘をつくものだ。私の影から命がけでエルシュナーゼ様を守っておいて、知らぬ存ぜぬは通らないよ」
「命がけ……ねえ」
男の言葉に、クガナは皮肉めいた笑みを浮かべた。そして足元から生えてきた魔獣の口を、いとも容易く斬り捌く。
この無駄な争いを続けて、どれほど経っただろう。
黒い影に取り込まれた先。この場所が一体どこなのか、クガナには見当もついていない。上下左右全てに壁があり、下手な城塞の全体よりも広い。おそらくは空間魔法によるものだ。
頭上から降ってきた黒い影を、十字に斬り裂く。破裂した影が飛び散った。
「ところで、いつまでも俺なんぞに構ってていいのか? 本来の目的はあいつだろ」
「……君に言われずとも、エルシュナーゼ様はすぐ捕らえにいくさ」
「嘘だな」
飛びかかってきた魔獣を軽くいなして、クガナが断言する。
「この空間に使われてる魔法、お前のものじゃないだろう」
「——!」
男の顔色が変わった。
「これだけ時間が経っても、空間を変化させる様子がない。お前の本来の役割は、ここの警備ってところか。誰かの魔法によって作られたこの空間は、おそらくノエンと……どこか祝福の地の国家を繋いでいる。籠城しているノエンに潤沢な糧食や武具が提供されていたのは、この空間のおかげだろう」
「……それで? だとしたらどうだというんだ。元の世界から隔絶されたこの異空間で、一介の武芸者でしかない君に何ができる」
男はかすかに後退りながら、強い口調でクガナを否定する。が、クガナの方は男の言葉をまるで意に介さず、続ける。
「魔法は理の奴隷だ。世界の性質に逆らうことはない。全くの無から何かを作り出すこともない。この空間も、あくまでこの世に存在するものを変化させているに過ぎない」
「……貴様、一体……」
「だから、空間魔法の破り方は単純だ。この場全体を——」
「やめろッ!」
男から無数の影がクガナに飛びかかった。その全てを一つ一つ、クガナは躱しながら斬り捨てていく。
「お前、そろそろ魔力が切れるんだろ? その影魔法、限界が見えてきてるぞ」
「うるさいッ! 王家の残党ごときが、今更俺達に逆らうな!」
「だから護衛じゃないって言ってんだろうに——っと!」
生み出された巨大な影。——を、両断し。
一瞬で距離を詰めたクガナは、男の首に刃を突きつけた。
「……エルシュナーゼが、そんなに大事か」
「お前ら、大きな勘違いをしてるぞ。あいつに国を取り戻そうなんてつもりはまるでない。放っておけば今の体制は揺るがない。変につつく方がよっぽど下策だよ」
「……だとしても、私は命令に従うだけだ。王女を見つけ次第捕らえろと。あの方は私にそう命じられた」
「『捕らえろ』? 『殺せ』じゃなくか?」
「そうだ。ただし護衛の生死については、何も指定されてはいない」言って、男は魔法陣を宙に生成する。
「ち——」
「貴様は消えろ、エルシュナーゼの護衛! あの方の障害となる者は、私が取り除く!」
男の魔法陣が発動すると、空間が急速に縮んでいく。その縮退に吞まれ、男の身体がひしゃげていく。
クガナは咄嗟に飛び退き、わずかに残された空間で、大きく剣を振るった。
小さな球体となった、空間。
その空間に、一筋の刃が走り——
ぱあん。という音と共に、クガナは空中に放り出された。
「うおっ!?」
放り出されたのは、暗い夜空の、上。地上までかなりの距離だ。いざという時の崩壊魔法に、元空間の配置まで、実に用意周到。見事なものだ。
などと考えている暇はない。このまま行けば地面に叩きつけられてしまう。こんな時に都合のいい技も——無い。ならば。
「片腕くれてやるか」
落下する全身の体重を、左手のみで受ける。骨が砕け、肉が潰れていく。ぐちゃぐちゃになった左腕を緩衝材にしながら、クガナはどうにか地上へと倒れ込む。
そしてごろんと転がって。
しかし、すぐに立ち上がった。まるで左腕の痛みなど無いかのように。
「……ふう。危ない危ない、と」
もはや原型を留めていない左腕を確認し、きつく縛ってまず出血だけを止める。
「さて、どうしたもんかな。というか、ここどこだ? まずはノエンに戻ってあいつと合流したいところだが——」
「貴様! そこで何をしている!」
「あ?」
声に振り向くと、一人の兵士が槍をこちらに向けていた。見たところ大した実力ではない。しかし、その槍、その鎧、その肉体。全てに活力がみなぎっていた。
「じゃあここは祝福の地か。まあ、そのくらいは想定通りだけど」
言いながら、クガナは自身の左腕の骨をひとまず位置だけ整えていく。ぬちゃぐちゃばきと、骨と肉の動く音がする。
「な、何をしている! ええい、侵入者め!」
「おっと」
突き出された槍。軽く躱して様子を見る。クガナの動きに驚きつつも、兵士は次々と槍を繰り出してくる。
「くっ、当たれっ、逃げるな!」
「なあ、ここって具体的にはどの国のどのあたりなんだ? 見逃してやるから、せめて場所くらい教えてくれよ」
連続した槍の突きを躱しながら訊ねる。と。
「何者だ! 何が起きている!」
どうやら増援らしい。こちらも大した実力ではなさそう——
「何だ何だ」
「侵入者と聞こえたぞ」
「誰が入り込んだんだ」
「敵襲か」
「武器を持ってこい」
待て待て。ちょっと待て。あまりにも数が、数が多い。囲まれている。というよりも。
改めてクガナは周囲を見回す。そしてようやく気付いた。
「ここは、兵士の訓練場か何かか」
木剣を打ち込むための丸太に、魔法や弓のための標的。訓練用とおぼしき砂袋や武具などがそこら中に転がっている。そして何より、集まってくる多数の若い兵士たち。
空間魔法を生成した魔法使いは、どうやらずいぶんと趣味が悪いらしい。これならば確かに、空間が壊された場合も確実に上層部まで伝わることだろう。もちろん、新兵たちの犠牲を前提として、だが。
向こうから差し出してくれた命。クガナとしては、ここで新兵たちを斬り殺して回っても、構わないといえば構わない。のだが……
「……とりあえず、逃げるか」
ぐちゃ。と、左手小指の位置を戻したところで、クガナは驚異的な速度で兵士に向かって走り出した。一瞬フェイントをかけて隙を作り、素早く兵士たちの間をすり抜ける。
「な——その男を捕らえろ! 我らアルディシア騎士団の誇りにかけて、侵入者を逃すな!」
やはりアルディシアか。
エルシャの生まれ故郷。
そして、数年前クガナが王族の大半を殺して回った国。
「厄介なことになりそうだな」
ぼそりと呟きながら、クガナは正門を斬り刻んで訓練場を飛び出した。
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