5 素肌感覚の逆襲
季節は過ぎ暑い季節になった。
僕らは相変わらず仲がいいと思う。
「思う」と言うのは、あの冬の悲劇的なガムテープ事件からここの所、喧嘩らしい喧嘩はしていないからだ。
だけどまた最近忙しくなってきている。
休みの日は美味しい店探しをしていたけれど、ここの所はそれもできてはいない。彼女との時間をたくさん取りたいのに、それができていないのはどうしてもストレスになってしまう。
彼女の嬉しそうな顔を見るのも僕は好きなのだ。
僕のストレス解消は彼女と過ごす時間が大いに関係していると思う。
そして彼女はきっと暇を持て余している。それを何とかしたい気がするのだが、僕は何をして良いのかがわからないでいた。
それでも結局、僕は仕事に振り回されっぱなしなのだ。
仕事から帰ってご飯を食べ、風呂に入る。ゆったりと風呂に浸かった時の至福感はどう表現していいのかわからないほどだ。
「達己くん、ここに着替え置いとくよ〜」
湯船で寛いでいると彼女の声がした。
「あぁ、ありがとう」
僕は返事をしながら天井を見る。今日は良い香りの入浴剤が入っている。この香りとふやふやと揺蕩う湯気は、現実の仕事内容を忘れるのに一役買っていた。
彼女と温泉にも行きたいなぁ……。そんな事を思いながらふと気付く。彼女は着替えを置いておくと言っていたけど、僕は自分で用意したぞ。
「ねぇ! 美香子〜! 何で着替えを変えるの?」
大きな声で呼んでみると、彼女は近くに居たのか直ぐに返事が来た。
「昨日ペインズの三枚一二九〇円の肌着がわりのTシャツを買ったんだよ。一度洗濯して乾いたから〜。今着てるのはもう首回りがよれてるでしょう? 裾の方も擦れて来てるし、掃除に使わせてもらいたいの」
あぁ、成る程。確かに僕は肌着がわりにTシャツを着る。下に着るからと寄れようが汚くなろうが気にしてなかったのだが、確かに彼女は妻としてそれが許せないのだと言っていた。僕にはきちんとしていて欲しいのだそうだ。
彼女がそんな風に思ってくれているなんて、ちょっと夫としては嬉しい。彼女の確かな愛情を感じるのだ。
「了解〜」
ちょっと嬉しくなりながら僕は返事をした。
彼女は本当に気が利く。僕のことをちゃんと見てくれている。それはとてもささやかなことだけど、僕は十分に幸せだと思った。
ゆっくりと風呂に入って、今日の汚れを落としきり、僕は風呂から出た。
タオルで頭を簡単に拭き、身体を拭き、パンツを履く。それから彼女が準備してくれた真新しい白いTシャツを着ると濡れたタオルを洗濯機にかけた。
これは彼女のこだわりで、濡れたまま中に入れてしまうと、嫌な匂いがするのだそうだ。だからある程度乾かして洗濯するらしい。
そしてそれを終えて脱衣所を出ようとした僕は何か違和感を感じた。何だか脇の辺りがモサモサするのだ。ふと見ると、脇に黒い何かがついている。
ん? これは? と引っ張ろうとしたが、それはしっかりと脇にくっついていて、Tシャツの脇ごと引っ張られる。ついているのは黒い毛糸の束だった。
これは一体なんぞや? 不思議に思って鏡を見ると、Tシャツの両脇に同じものがついている。
「……美香子〜なんかこのTシャツ……脇についているんだけど〜」
僕が声をあげると、彼女が後ろから嬉しそうにやってきた。
「気がついてくれましたか? 旦那様!」
「いや……気がつくよこれは……」
「ふっふっふ! 実はこれちゃんと胸もあるのです」
彼女の言葉に「?」と思いながら自分の胸の部分を見ると赤い小さなポッチがついている。どうもこれはフェルトのようだ。
「え〜っと……つまりこの黒い毛糸は脇毛で、この赤いポッチは乳首だと?」
「旦那様! お目が高い! その通りでございます!」
彼女はとても嬉しそうだ。
うん、僕は彼女の嬉しそうな顔を見るのが好きだ。しかしこれは……。
「名付けて! 『素肌感覚』と申しまして、素晴らしいでしょう? 着ていても素肌のように見えるのです!」
「いや見えないよ。Tシャツは白いし脇がゴワゴワするし、赤いポッチって……」
僕はそう言うなり赤いフェルトを取ろうと引っ張った。
「あぁ、だめだって。赤いポッチは木工用ボンドでつけてるからね。破れちゃうよ。そうなったら、本物が見えるでしょう。本当の素肌感覚になるから!」
本当も偽物もないだろうに……
「さぁさぁ旦那様、こちらにお座りくださいませ。冷たいビールをご用意しております」
僕はそのまま居間に通された。
もうこうなると彼女の好きにしてあげよう。彼女は暇なのだ。それを放置しているのは僕なのだ。少しの罪悪感は確かにある。
そして彼女はカンカンに冷えたビールをコップに注ぐ。諦めて『素肌感覚』のままビールを飲もうとするとストップがかかった。
「旦那様、ノンノン! ここは一つ腰に手をやりこうグイッとですね〜」
あれだ、よく銭湯の脱衣所に置いてある、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳を飲む時にやるあれだ。僕は小さくため息をつきながらも腰に手を当てた。
「いやいや、立ってくださいませ!」
仕方ない……僕は立ち上がって腰に手をやりビールを仰ぐように飲む。
「良いですね〜! それでは一枚!」
飲み終える前にスマホのシャッターを押す音がした。
「あらやだ。ポッチが見えない……違う角度でもう一度撮るからそのままでいてね」
あぁ、僕のこの姿はきっと妹に送られるのだろう。そして妹から大爆笑の電話かメールが来るに違いない。二、三度シャッターを切る音を聞きながら僕は遠くを見つめた。
でも良いのだ。彼女が楽しそうなら僕は満足なのである。
妻を暇にさせると何かが起こるという話……
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