4 『ぎゅっ』の悲劇

 その日僕は疲れ切って帰ってきた。


 仕事上のトラブルで工事期間が大幅に遅れることになったのだ。方々にその説明をし、業者と上からのお小言を貰い、僕は心身ともに疲れていた。


 そして、その日の朝に僕が彼女にやったことをすっかり忘れてしまっていた。


 まさかあの悪戯心が彼女を貶める事になるなんて……誰が想像するだろう……






「お帰り……」


 彼女の声が、今日はやけに憂に満ちて聞こえてきて、一瞬僕は身構えた。何かがあったのだろうか?


「あの……どうかした?」


 彼女はそれはそれは暗い顔で、テーブルに座っていた。ご飯の準備もされてはおらず、風呂も沸いてはいない。これは絶対に何かがあったんだ。


「どうしたの? 具合悪いの? 病院に行く? 付き添うよ」


 彼女はチラリと僕を見て、悲しそうな瞳で見つめている。おいおい、どうしたんだよ? 何かがあったのは間違いない。話してくれるのを待つか、それとも無理に聞き出すか……。


「……ちょっと色々と考えてた。私このままでいいのかなって」

「え? どういう事? このままでって、仕事したいの?」


 彼女は再度僕をチラリと見ると、あからさまに大きく溜息を吐く。


「そういう事じゃないの。結果的にそうしなきゃならないかもしれないけど……」

「結果的にってどういうこと?」

「……私達、離婚してもいいのかもしれない」


 その一言に僕は思わず鞄を落とした。


「えぇえええ!!! あの、何で?! どうして?! 何があったの?!」


 なぜ急に彼女はそんな事を言い出したのか。僕は恐怖に慄いた。嫌だ! やっと一緒になれたのに、離婚なんか絶対に嫌だ! 何でそんな事になるんだ? いったい僕が仕事に行っている間に何があったんだ!


 彼女は黙ったまま僕を見つめている。


「どうしたんだよ。何があったんだよ。話してみろよ」


 僕はできるだけ優しい声を出した。彼女が何かを抱えているのなら、それを払拭したい。それは夫としても当然だと思ったし、離婚なんて言い出す彼女が心配だし、何よりいつも元気な彼女が暗い顔をしているのが辛い。


 僕は向かい側の席に座りじっくりと話を聞く体制をとった。


「私ね、今朝はとっても幸せだったの……」

「うん」

「だって、いつも愛情表現をしないあなたが……サラッと行ってきますって出ていくあなたが、今日は出る前に、こう『ぎゅっ』としてくれたでしょう? あぁ幸せだなぁと思って、午前中の掃除も、洗濯も、嬉しくてどんどんはかどって……」


 そこまで聞いた時に、僕の額に汗が吹き出した。まさか……まさかとは思うけど……。


「それでね。午前中のうちに必要なことは全部終えてしまって、今日は時間ができたから、歯医者さんにも連絡して、たまたま午後の早い時間が空いていたから行ってきたの」

「……うん」


 じわじわと嫌な汗が出てくるのを気にしないようにしつつ、僕は彼女の目を見れなくなってきていた。


「歯医者さんが終わって、今日の夕食は奮発しちゃおうと思って、スーパーへ寄って、この前すき焼きが〜って言ってたあなたを思い出して今日こそはすき焼きをしようと思って、いつもよりお高い美味しい肉を買ってきて……。野菜の準備を終えて、仕事から帰ると疲れているだろうから、ビールも用意して、コップも冷やして……お風呂の準備も終えてから、少しお茶をしようと思って、コーヒーを入れていたらブザーが鳴ったの。見て見ると宅配の人で……」


 僕はもう彼女を見ることもできず、下を向いた。


「あなたの実家からお義母さんが色々と送ってくださってて……本当に幸せだなぁと思ってたの。印鑑を取ろうと思って後ろを向いたら、宅配の人が言ったの。『奥さん、どうしたんですか? 背中にガムテープがついてますよ』って……え? って思って手で触ってみたら、肩の下から斜めに腰の所まで、一本のガムテープがついていたの。しっかりと……何度も押さえたように……」


 もう僕は顔を上げられなかった。


「ちょうど朝にあなたが『ぎゅっ』としてくれた部分、そこにガムテープがついていたのよ。私はそのまま歯医者に行き、スーパーに行き、今日は郵便局でお金もおろしてきたの……ねぇ、私、今日は結構歩き回ったのよ」


 僕はその言葉を聞き瞬間的に椅子を降り、そのまま土下座をした。


「申し訳ありませんでした!!! ちょっとこの前の毛糸の帽子のことがあったから、悪戯心を起こしてしまいました! 本当に申し訳ありません!!!」

「この私の気持ちがわかる? 嬉しい気持ちが一気に冷めて、ご飯も作りたくなくなったの」

「申し訳ありません! すぐに気がつくと思ったんです! 本当です! だって普通何もしない僕が『ぎゅっ』なんてするわけないと思うだろうって! 舐めてました! 僕は鬼畜です! でも離婚だけは勘弁してください! やっと好きな人と一緒になれたのに、それだけは! あなたの事が大好きなのです! 許してください!!!」


 僕はひたすら謝った。だってそうだろう? すぐに気づくと思うじゃないか!


「でももう、今日のご飯はないので、めざしとご飯でお願いします」

「いいえ! 今日は外へ行きましょう! 美味しいものを食べに行きましょう! 初めてデートした時のように!」


 床に額を擦り付け、土下座をする僕に彼女は少し怒りの解けた声を出した。


「……そこまで言うなら、美味しいのを食べに行ってもいいですけれど。今月のお小遣いは一万円引きますから……」

「え?……」

「別にいいんですよ。今日はめざしとご飯でも……」

「いいえ! 僕に奢らせてください!!!」





 その日、僕らはフランス料理を食べた。そう、いわゆるフルコースというものだ。

 その代わり、その日から三日間の弁当はめざしとご飯だった……。






 妻を怒らせてはいけないという事を身にしみた話……



 

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