隣に住むたまに見かけるだけの高嶺の花と

かきつばた

きっかけは突然に

 ピンポーン。

 

 突然鳴り響いたインターホンに、思わず身体がびくついた。反射的にスタートボタンを押して、ゲームの進行を止める。

 瞬時に思考を巡らせるが、今日宅配案件はなかったはず。つまりは、歓迎すべきでない来客だろう。


 怯んでいるうちに、二度目の呼び出し音。盛大にため息をつきながら、重い腰を上げた。

 嫌な予感しかないが、居留守を使えるほど肝は据わっていなかった。


 そこでひとつ、妙な事実に気が付いた。インターホンの通話画面は真っ暗なまま。共用のエントランスではなく、来訪者は俺の部屋の真ん前にいる。

 マンション内に友人はいない。となると、相手は管理人さんだろうか。会うたびにインスタントコーヒーをくれる気のいいおっさんだ。


 警戒心を緩めながら、玄関のドアを開ける。だが、次の瞬間には心臓が止まりそうになるくらいの驚きに襲われていた。


「あ、あの突然すみません!」


 そこにいたのは、くたびれた四十過ぎのおっさんではない。それとはおおよそ真逆の生き物。

 清楚極まった格好をした、長い黒髪の女性。おまけに超を付けられるほどの美人。


 何も言葉が出てこない。この時ばかりは、日本語いや言語に関するすべての知能を失った心地。

 半開きにした口を閉じながら、ぐっと眉間に皺を寄せる。状況がただひたすらに飲み込めない。


「わたし、怪しいものではなくてですね……隣に住む高野たかやです!」


 こちらの態度を妙な方向に受け取ったらしい。その女性――高野さんは慌てふためきながら言葉を続けた。


 しかし、この人のどこに怪しさがあろうか。むしろ、それは自分の方で……。

 だらしない部屋着姿とぼさぼさの髪の毛。昨今の情勢から好き放題に伸びた髭面。トドメは、知り合いに人殺しと称される目つきの悪さ。


 ――穴があったら入りたい。

 何度か耳にした表現が、これ以上ないくらいにしっくりくる。

 だが、このままやり過ごすしかない。ドアスコープの確認を怠った自分が愚かだったのだ。

 

「えと、マンションで何度か顔を合わせたことありますよね」

「よかった。覚えてもらえてたぁ」


 安堵したように揺らぐ語尾がかわいら――こほん。ひとまず落ち着いてもらえて何よりだ。


 正直な話、大学でも何度か姿を見かけたことがある。もちろん、いつも話すまでには至らないけど。

 人の目を強く引く容姿だから、とても印象に残っていた。


「それで、用件は何でしょう」

「実はがおかしくなっちゃって……お借りできないかな、と。――きょ、今日締め切りの課題があるんです!」


 確かに、それは一大事だ。向こうの雰囲気からも、切迫感がひしひしと伝わってくる。


 断る理由もなく、勢い任せに答えようとした。だが、寸でのところで思いとどまった。

 脳裏に浮かぶ自分の身なり、それ以上に部屋の惨状。顔見知りなだけの知り合いを招ける状況じゃない。


「……さ、三十分ほどお待ちいただけますか」


 結局、俺の返答はそんな情けない部類のものだった。





 とりあえず、部屋の片づけは終了。家に長くいるからと怠けず、定期的に掃除しよう。そう決意を新たにして、高野さんを呼びに行った。


 現在、彼女は絶賛自分のノーパソで作業中。俺はそれをかなり落ち着かない気持ちで待っていた。


「やっぱり、白坂君。同じ学部だったんだね。同じ授業受けてたっぽいから、そうじゃないかなって思ってた」

「ああ、そうなんだ」


 明るい性格らしく、高野さんはよく話しかけてくる。あるいは、沈黙が気まずいだけかもだが。

 こちらもそれは助かるのだが、悲しいことに俺の会話スキルが全く追いついていない。こうして、毒にも薬にもならない答えを返すので精一杯。


 女子との会話の経験は人並みよりちょっと少ないくらい。しかも、今は相手がかなりの美人で二人きり。及び腰になるな、という方が無理だ。


 こんなことになるのなら、断ればよかったか。これまでにも、掃除という過酷な労働をこなしたわけだし。


 それでも、受け入れたのは困っている人を見過ごせなかったから……というだけじゃない。

 もちろん、下心ではなく。でも、浮かれていなかったといえば首を振らざるを得ない。こんなご時世、少しくらい夢を見たっていいじゃない。


 しかし、身をわきまえる必要はある。おそらく、第一印象から負の方向にぶっちぎっているはず。より言動には慎重になるわけで。


「よし、こっちも終わり! ありがとう、白坂くん。おかげでわたしの単位は救われそうだよー」

「そんな大したことじゃ」

「ううん。白坂くんの邪魔しちゃったし。何か用事あったんだよね?」

「いや、どうせゲームしてただけで」

「げーむ?」


 立ち上がった高野さんは不思議そうに首を傾げた。大きな瞳がぐっと丸みを帯びる。


 意外な反応に、俺はちょっと気圧されていた。彼女はゲームに興味がありそうな感じじゃなさそうだと思ったが。


「何してたの?」

「ん、それだよ」


 俺はテーブルの陰に隠していたゲーム機を取り出した。

 すると、高野さんの顔がより一層輝いた。


「あ、スイッチ! いいなぁ、欲しいんだけどまだ買えてないんだよね」

「そうなんだ……よかったら、なんかやってく?」

「うん! ねぇ、何があるの?」


 不用意な発言だったものの、相手は特に気にも留めていなかったらしい。


 若干顔に熱が帯びるのを感じながら、俺は収納棚の方に向かった。





「あー、また負けたっ! ズルいよ、白坂くん!」

「ズルってな……アイテムもこのゲームの醍醐味だから」

「でもさぁ」


 高野さんが選んだのは対戦レースゲームだった。配管工のおっさんが、なぜかカートを乗り回すやつ。


「ね、もう一回やろうよ」

「……マジでか」

「勝ち逃げするつもり?」

「そうじゃないけど。ずっとやってるし、そろそろ腹も減ってきたというか」


 時刻はもう一時近い。いつもなら、とっくに昼飯を済ませているころだ。

 どうも彼女はかなりの負けず嫌いらしい。何度負けても懲りずに戦いを挑んでくる。もっと大人しいと思っていたのに、人は見かけによらないものだ。


「あ、もうそんな時間か。ごめんね、ちょっと白熱しすぎちゃった」

「いや、楽しかったらいいよ」


 彼女がようやくコントローラーを置いた。それを見て、俺も自分のから手を放してゲームをスリープモードにした。


 これでお開きだろう。そう思ったが、なかなか高野さんは立ち上がらない。じっと口を閉じて、何かを思案している様子。


「……白坂くんはお昼どうするの?」

「まあテキトーにカップ麺でも」

「そうなんだ。もしよかったら、一緒にどうかな? もちろん、食べに行くのは難しいからわたしが作るんだけど」


 予想外の提案に、俺はただ固まるしかなかった。玄関で対峙したときのように、向こうを怪訝そうに眺めるばかり。


 そこへさらに、高野さんは畳みかけてくる。ややしどろもどろになりながら。


「え、ええとね、も貸してもらったしこうしてゲームも。だからそのお礼で、というか」

「礼だなんて、別に。それに高野さんに悪いしさ。だいたい、冷蔵庫にロクな食材が」

「それならウチに来なよ。どうせお隣さんだし、たいした手間ではないよね」


 身を乗り出してくる高野さん。どこか吹っ切れた感じがするのは気のせいか。


「一人分も二人分もそんなに労力は変わらないから。それに、一人で食事も味気ないし」


 そこまで言われれば、断り続ける方が悪い気がする。

 俺は素直に、その厚意に甘えることにした。逸る気持ちを必死に抑え込みながら。





 昼食終わり、今度は高野さんの部屋で一息をついていた。部屋のつくりは同じはずなのに、全く気分は落ち着かない。


「白坂くんもちょっとは自炊した方がいいよ。全部外食だと高くつかない?」

「まあそれは……でも、いろいろと面倒くさくて」

「慣れちゃえばそこまでじゃないよ。わたしも最初は結構しんどかったけど、最近はそんなにでも」


 後片付けは億劫だけどね、と彼女は悪戯っぽくつけ加えた。


「……うっ、なんかすみません」

「へ? なにが――って皮肉ったわけじゃないよ? お礼だって言ってるじゃない」

「でもさ……そうだ、皿洗いくらいはさせてくれ。自信あるんだ、結構」

「そうなの?」


 部屋の主は小さく笑った。とても信じた風ではない。


 ちょっと大げさすぎたか。まあ完全に勢い任せだったわけで。実際には、そんな誇れるほどじゃない。


「でもだいじょうぶ。あとでのんびりするから」

「今日は本当にありがとう。よかった、白坂くんがやっぱりいい人で」

「やっぱりって?」

「うーん、なんだろう。雰囲気が? たまに挨拶するときそんな風に思って」


 高野さんは優しく微笑んだ。


 これはなんだろう。一刻も早く部屋に戻るべきなんだろうか。単なる偶然にこれ以上しがみつくのも――


「ええと、高野さん」

「はいなんでしょう、白坂くん?」

「また一緒にゲームしない?」


 少しだけ、調子に乗った。彼女と過ごしたこの数時間が思いのほか楽しくて、一回きりにしたくなかった。


「えー、どうしよっかなー」


 彼女の声色はからかうかのように弾んでいる。顎に手を当てて、答えを悩んでいるようだった。


 静まり返った部屋の中。たぶん、今日初めての瞬間。

 俺はただ緊張しながら、相手の言葉を待っていた。


「とりあえず、この後リベンジしてから考えよっかな」


 ついに、高野が俺に勝つことはなかった。散々悔しがった挙句、彼女は明日もまた来ると言って部屋に戻っていった。


 なるべく家で過ごさなければならない。そんな状況でなければ、俺が彼女と仲良くなることはなかったのだろう。

 そう考えると、なんだか不思議な気持ちになった。部屋のあちこちに刻まれた無理やりな片づけの跡を見ながら。

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