鶴翼の陣
「用意はいいな?」
「はっ。いつでも突撃出来ます」
董將軍は全軍の魚鱗の陣を敷くように命じた。その名の通り全軍を小さな鱗のような部隊に分け、三角形に配置した陣形である。横陣を基本としている為に真正面の敵との戦闘には強いが、側面、背後からの攻撃にはめっぽう弱い。
信晴を討取ることだけに全てを賭ける、乾坤一擲の陣形であった。もしもしくじれば脆弱な側面を包囲され、彼らは完全に殲滅されるだろう。
「一応はいつでも逃げられるよう備えておきますが……」
「守勢に回って兵が混乱している中で素早く逃げ出すなど、無理な話だ。最初の攻撃で攻め落とせなければ、我らの負けは決まったと言ってもいいだろうな」
「その時は、せめて董將軍だけでもお逃げください。北平城にこもり、何としてでも生き残るのです」
「兵を捨てて逃げることなど――」
「いいえ、將軍。あなたは我らにとっての希望。あなたは生きねばなりません」
唐人の武将の中では唯一自主的に動ける董將軍。彼は唐人にとって、大八州人に一矢報いる為の矢じりなのである。
「大八州に帰順した私が、唐人の希望とはな」
「今や、そのようなことを気にする者はおりませぬ」
実のところそういう過激派は大八州人に滅ぼされただけだが。
「……分かった。その時は、何としてでも生き残ろう」
「お願い申し上げます」
「では、行くぞ。狙うは信晴の首ただ一つ。皆の者、突っ込め!!」
「「「おう!!!」」」
一丸となった董將軍の軍勢は、鶴翼の中心に向かってがむしゃらな突撃を開始した。
○
「やはり魚鱗を選んだか」
「はい。御屋形様のお言葉の通りです」
信晴第一の家臣、赤備えの騎馬隊を率いる山形次郞三郞信景は言った。ここまでの展開は全て、信晴の予想した通りに推移している。
「しかし、ここで儂が討取られるようなことがあれば、武田末代までの恥となろう」
「万が一にもそのようなことはございません。御屋形様の御身は、この信景にお任せあれ」
「うむ。奢るでないぞ」
「はっ」
信晴を直接守る兵は僅かに二千ばかり。兵力では当然董將軍の軍勢に劣っており、生半可な部隊を配置しては彼の狙い通りに信晴は討取られてしまうだろう。そこで彼を守護するのが、武田でも最精鋭の山形隊なのである。
「さて、来たな」
「はい。御屋形様は全軍の指揮にご集中ください」
「ああ。頼む」
信晴の目前の部隊は信景が指揮を執る。信晴はそれを信じ、全軍の指揮を執るのである。
「皆の者、こちらから打って出るぞ! 赤備え、押し出せっ!!」
「「おう!!」」
まあ武田家の武士は全員赤備えなのだが、その中でも信景の騎馬隊は別格とされており、見た目の上でも特に美しい赤で染められている。
その軍勢は本陣に立て籠もって守りを固めるのではなく、こちらから倍の敵に向かって突撃するという大胆な策を取った。信晴ならば取らない策だが、特に咎めることはない。
○
「董將軍! 敵が、敵が向こうから突っ込んで来ます!!」
「何!? 数は!?」
「およそ二千! しかし、音に聞く山形隊であるかと!」
「なんという大胆な男だ……」
董將軍は敵が守る陣地を攻撃するつもりでいた。だが敵の方から突撃を仕掛けて来たのである。これには将兵も大いに動揺してしまう。
「怯むな! 敵は小勢! しかも陣は乱れている! これを押し返せば、先に残るは信晴ぞ!!」
「「「おう!!!」」」
幸いにして魚鱗の陣は正面からの攻撃には強い。強力な武田の騎馬隊を相手にも決して遅れを取ることはない筈だ。
「まもなくぶつかります!」
「皆、くれぐれも功を焦るな! 持ち場を動かねばそれでよい!」
「はっ!」
これは好機でもある。敵は勝手に突っ込んできてくれるのだ。こちらは逆に守りを固め、敵が勢いを失うまで耐え抜けばいい。そして策を練る間もなく、山形隊と董將軍の部隊は激突した。
倍の兵力を誇る董將軍に負ける道理はないが――
「と、董將軍! 一の備え、破られました!」
「二の備えにも損害が! 何とか食い止めてはおりますが……」
「クッ……」
ぶつかった最前線の部隊は、たちまち蹂躙され突破された。魚鱗の陣を構成する鱗が次々と破壊され、敵はほとんど速度を緩めることなく董將軍の許へと接近していた。
「……怯むな! まだまだ我らの兵は残っている! 敵の勢いをすり潰せ!」
最前線が破られたとて、その後ろにはまだまだ兵がいる。敵は確実に勢いを失っていき、いずれ限界に達する筈だ。
「それと、崩れて来た兵士は後方の備えに組み込め」
「なるほど。敵の勢いを完全に削げます」
当然、崩れた部隊が完全に皆殺しにされた訳ではない。寧ろ兵士の大半は生き残っている。そこで咄嗟の判断だが、董將軍はそれらの兵士を次々と後方に再編し、防衛線をどこまでも後退させていくことを命じた。
つまるところは、勢いで董將軍の部隊を総崩れにさせようとする山形隊に対し、持久戦に持ち込もうというのである。
もしもこの戦場に董將軍の軍勢と山形隊しかなければ、これは最も優れた判断だと言えただろう。だが武田勢はそれを許さないのであった。
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