第二十八章 嵐の前の静けさ

レモラ教皇庁

 ACU2312 1/2 ガラティア帝国 レモラ王国 王都レモラ レモラ教皇庁


 レモラ王国はガラティア帝国の領土ではあるが、その市街地の様子はエウロパの諸都市そのものである。


 帝国政府の統制が強いレモラ王国でもそれは同様であり、ガラティア帝国に占領される前の街並みをほぼそのまま残していた。


 古代遺跡の立ち並ぶ王都レモラのその中央、一際高く聳え立つ白亜の大聖堂。それこそが、遥か二千年の昔から連綿と受け継がれてきたレモラ教皇庁、その大聖堂である。


 白い法衣に身を包んだ集団が闊歩する異様な聖堂に、眼鏡をかけた男が馬車を走らせていた。


「急ぎの用だ。枢機卿猊下にお目通り願いたい」


 聖堂に辿り着くと、眼鏡の男はゆっくりと、しかし確かに響く声で言った。


「猊下は今忙しいのです。また後にされよ」


 男は聖堂の扉の前で衛兵に制止された。だが男は引き下がろうとしない。


「通せ。今すぐにお伝えせねばならんのだ」

「いくら大司教台下にあらせられましても、事前に何の通告もなしに枢機卿猊下に会われるというのは……」


 衛兵も本意ではないのだ。だが規則は規則。大司教とて従わねばならない。


「……よかろう。では枢機卿猊下にお伝えを――」

「待て。衛兵、ヒムラー大司教を通せ」

「はっ、こ、これは枢機卿猊下! 失礼を致しました。どうぞお入りください」


 衛兵はたちまちヒムラー大司教に道を開けた。大司教は聖堂の中に佇む老境に差し掛かった男を見据える。


「リシュリュー枢機卿猊下、多分なご配慮、感謝のしようもありません」

「よいのだ。お前がそこまで焦るのならば、よほどのことが起こったのだろう」

「はい」


 とてもこんな場所で話せる話題ではない。枢機卿の執務室に向かう。


「して、何があった?」

「はい。先日、グンテルブルクに保管されていたイズーナの心臓が、何者かに奪われました」

「イズーナの心臓、か。奪われたというが、まさか正面から我が衛兵を突破した訳ではあるまいな?」

「……そのまさかです、枢機卿猊下。心臓を守護していたはずの僧兵が、全て殺されておりました……」


 ヒムラー大司教は未だに信じられないという感じであった。彼らの僧兵、その中でもとびきりの精鋭に教皇庁の誇る最高の魔導兵器を与えた者どもが心臓を警備していた筈なのだ。


 それがゲルマニアに察知されることなく――つまり一瞬のうちに、皆殺しの憂き目にあったのである。


「ふむ。そうか」

「驚かれないのですか?」

「何を驚くことがあると言うのだ」


 リシュリュー枢機卿は手元の書類を片手間に整理しながら、驚く素振りも見せない。


「……取り乱しました。いずれにせよ、イズーナの心臓の一片が奪われました。これでヴェステンラントは心臓の半分を保有することとなります」

「それは困ったな。残るは大八洲とルシタニアだけか」


 と、特に困ってもいなさそうな口調で言う。


「はい。こうなればルシタニアの欠片も安心は出来ません。大八洲は大丈夫でしょうが……」

「いくらあの不敗の将軍がいたとしても、大八洲が戦略的に劣勢であることに変わりはない。安心は出来ぬよ」

「それは……」


 この大戦争を以てヴェステンラントがイズーナの心臓を回収しきる可能性が、現実味を帯びたものとなってきた。


 教皇庁としては、いや、全ての人類の為に、その事態だけは避けねばならない。


「大八洲は我々の介入を拒絶しています。我々に打てる手は、ルシタニアの欠片が奪われないようにすることだけです」

「そうだな。ではヒムラー大司教はどうしたいのだ?」

「私は……心臓の欠片をここ教皇庁にて保管すべきかと。ルシタニアのこの話をすればすぐに応じるでしょう」

「ならぬ。教皇庁は異教徒の土地にあり、その軍事力は極めて弱体。万が一にもガラティアにイズーナの力が渡れば、世界に厄災をもたらすことは明らかだ」


 結局のところ教皇庁はガラティア帝国の配慮で生き残っているに過ぎない。スルタンが一度決意すれば、あっという間にこの大聖堂も焼き尽くされるだろう。


「で、ではどうすれば……」

「この際は、ブルグンテンに隠すとしよう」

「つい先日心臓を盗まれた場所に、ですか?」

「そうだ。まさかヴェステンラントも、同じ場所に二度も心臓を隠すとは思うまい。それにゲルマニアが敵の侵入を許したのは内戦で国内が混乱していたからであろう」

「なるほど……それがよろしいかと」

「うむ。教皇猊下にお伝えし、この是非を問う。その後のことはお前に頼むぞ」

「はい。お任せ下さい」


 〇


 そして2日後。


「――教皇猊下、私めはこのように愚考致しますが、いかが思し召しますか?」


 世俗君主のように一際高い玉座に座った、一際温厚そうな笑顔を見せる男。彼こそが教皇である。


 例に漏れず真っ白な服を着ているが、手だけは白い篭手をはめているという奇妙な格好をしている。


「よいでしょう。イズーナの心臓を、ゲルマニア大司教区に移管しなさい」

「ははっ」

「ただし、このことはゲルマニアに伝えてはなりません」

「ゲルマニアに伝えず……はっ。猊下の思し召しのままに」


 教皇の言葉に意見するなど許されない。ゲルマニアにもルシタニアにも何も告げずに心臓を移動させることが決定された。


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