喪失

 舞台はオブラン・オシュの大火の翌日、総統官邸に戻る。


「火は収まっているのだよな?」


 ヒンケル総統はザイス=インクヴァルト司令官に尋ねた。


「私は東部の担当ではありませんが、豪雪のお陰で大方は収まったとのことです」

「まだ完全に消えてはいないのか……」

「大局的に見れば消えたも同然です、総統」

「そう、か。ならいいんだ」


 ほんの僅かの燃え残りが燻っているだけ。この大火事自体は既に収束している。


「それで、被害状況はどうか」

「ああ、それについては私から」


 変わり者ばかりのゲルマニアでは普通である方が寧ろ個性的である。そんな男、エーミール・レオンハルト・フォン・フリック南部方面軍総司令官は応える。


 南部方面軍はガラティアに備えた予備軍団であるが、実際のところは暇である。


 その為、軍事に限らず、人手が必要な雑用の大抵が南部方面軍に押し付けられていた。幸いにして、英雄などに興味のないフリック司令官と仕事の相性はよい。


 そんな仕事の1つが、戦闘の度の被害状況の集計である。


「聞かせてくれ」

「ええ、まず、オブラン・オシュは、市街地の75パーセントほどを焼失しました。死者は現在分かっているだけで、民間人に5,300人、我が軍に42人となっております」

「死者は最小限に抑えられたか……取り敢えず、現場の指揮官には勲章を用意しておけ」

「はい、我が総統」


 市街地がとんでもなく燃えた割には、死者は少なく済んだ。これは現地の部隊が全力を尽くした結果だろう。


 他国の民の為に命をなげうつ彼らは、総統から直々の賞賛に値する。


「だが……物的損害は酷いな」

「はい。残念ながら……」


 東部方面軍が仕事を怠慢した訳ではないのは確かだ。では何故にここまでの大火事になってしまったのか。


「全てが燃えてしまった為に証拠を示すのは困難ですが……どうやら市内の多数の場所で同時に火が放たれたようです」


 火事というのは普通、一箇所から始まって、周りに燃え広がるものだ。故に十分な物量を用意すれば、封じ込めることが出来る。


 だが今度のように意図的に複数箇所で火災を起こされれば、5万の統率の取れた兵士を以てしても、都市を守ることは叶わない。


「やはり、そうか。ピョートル大公にはそれほどの覚悟が……」

「誇り高い男と見るべきか、卑怯な男と見るべきか……」


 戦争に勝利する為に国内第三の都市を焼き払うなど、ヒンケル総統には出来ない。ピョートル大公の覚悟は、間違いなくこの世界の指導者の中で一番だろう。


「そして……これにより、兵士を収容する建物が致命的に不足することになりました。それどころか、市民に十分な住居を与えることすら不可能となっています」

「それは避けられないか……」


 残った建物に人を詰め込んでも、オブラン・オシュの市民の半分を住まわせることしか出来ない。ゲルマニア人が全員野営したとしてもである。


 そして暖を取らずにダキアの大自然の中で寝ていては、自然に還ることとなる。


「市民を全員街から追い出すのなら、我が軍を維持することは可能ですが……」

「それは、ないな。あり得ない」

「――ただの戯れです」


 外交的に考えて論外であるし、ヒンケル総統には人の心がある。民主主義国家とは違うのだ。


「では、どうされますか?」

「まったく、選択肢のない問いかけをするものではないぞ」

「これは失礼を」


 どうするか、答えは決まり切っている。直ちにオブラン・オシュから撤退し、メレンで体勢を立て直すのだ。


 他の選択肢など存在しないし、議論の余地は一切ない。結論はこれだ。


 だが、だからと言ってその決断を即座に下せるほど豪胆な心を持った者は、ゲルマニアにもそうそういない。


「しかし、戦車や装甲車は動かず、装甲列車の積載量は限られています」

「そうなんだよな……」


 戦車、装甲車は寒さの為に自走出来ない。よって持ち帰ることは不可能であるし、重火器などについても、兵士を乗せるだけで装甲列車が満杯になってしまう。


 故に、これはゲルマニアの兵器を、敵中のど真ん中に放棄して逃げ帰ることになるのだ。


「問題は、これで我々の技術が漏洩するか、だな」


 技術が全てであるゲルマニアにとってこれは死活問題である。はっきり言って、周辺国がゲルマニアと同等の技術力を持っていたら、この戦争はとうの昔に負けている。


「その……漏洩はするでしょう、間違いなく」

「――それもそうか。だったら、あれだ、奴らが我々の技術を再現出来るかが問題だな」

「その点については、私から一言いいですか?」


 白衣を着た凛々しい女性、帝国第二造兵廠のクリスティーナ所長は言う。


「ああ」

「はい。現状、ガラティアを除いた我々以外の国は、初歩的な蒸気機関すら保有していません。ルシタニアも蒸気機関車の整備が出来るだけで、製造は無理です。よって、蒸気機関より更に高度なガソリンエンジンを搭載する戦車を模倣することは、ダキアには不可能です」

「信じていいのだな?」

「断言します」

「よかろう。……では、東部方面軍は撤退させることとしよう」


 ローゼンベルク司令官の面子を立てる為に、総統から撤退の命令を出すこととした。この銃火を交えない戦いは、ダキアの勝利に終わったのであった。

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