第十六章 小康期
統計的平和
ACU2310 6月12日 神聖ゲルマニア帝国 ルーア大公国
「報告します。我が方の損害は、21名戦死、41名負傷。戦果は敵8名を殺害です」
「……了解した」
ヴェロニカは淡々と、数分前の小競り合いの結果を報告した。
それは本当に小規模のもので、ヴェステンラント軍の偵察部隊と第88師団が偶然にも衝突したものであった。全面的に戦うことはなく、少しの撃ち合いをした後にヴェステンラント軍が逃げ帰っていったというだけものだった。
それは戦況に何の影響も与えないだろう。実際、参謀本部はそんなことを気に掛けてもいない。
だが確実に戦闘はそこかしこで発生していた。その度に確実に死者は出て、また前線にいる者の精神を少しずつすり減らしていた。
「きっと歴史の教科書には、まやかし戦争の時期とでも書かれるんだろうな……」
シグルズはぼやく。
「何だそれは?」
シグルズにとってはただの独り言だったのだが、オーレンドルフ幕僚長は興味を持ったようだった。歴戦の彼女からしても、「まやかし戦争」なる言葉は聞いたことがなかった。まあこの世界にはまだ存在しない言葉なのだから当然だが。
「まあ、何と言うか、外交的には戦争をしているけど実際には戦闘が起こっていないみたいな、そういう状況を指す言葉だ。僕の適当な造語だよ」
実際のところは、第二次世界大戦の序盤、イギリス・フランスがドイツに宣戦を布告した癖に動こうとせず、突然宣戦布告されたドイツも当然動けず、結果として戦争状態にあるのにドイツとフランスの国境が平和そのものだったという事象を指している。
因みに、この状態に油断していたフランスは、ドイツの反撃によって1ヶ月で降伏するという醜態を晒した。
「その、戦闘が起こっていなくはないのではないか? さっきまで殺し合いをしていたのだぞ」
「確かにそれはそうだ。戦闘は起こっていない」
「では、どういうことだ?」
オーレンドルフ幕僚長から見ると、シグルズは存在しない状況に大して言葉を造るというよく分からないことをしているように見えた。
「そうだな……さっきの発言は訂正する。大局に影響を与える戦闘が起こっていない状況を、まやかし戦争と言うこととする」
「なるほど。確かに、歴史の教科書に私たちのこの戦いが載る筈もないか」
教科書というのは恣意的だ。歴史をありのままに記述するのではなく、常に歴史に意味を求める。意味のない事件は教科書から外され、意味のあるものだけが残される。もっとも、本来は純粋に学問的である筈のここに、必ずといっていいほど政治的な意図が絡んできてしまうのだが。
このような歴史の選別を経れば、今ここで繰り広げられている殺し合いはなかったものとされるだろう。何故ならそれは歴史を動かしていない、意味のないことだからだ。
「まったく、我々の涙ぐましい努力が後世に伝えられもしないとは、悲しいものだな」
「それはそうだな。だが、戦略的に考えれば何も起こっていないというのも事実だ」
「――否定は出来ないな。ゲルマニアには、恐らくヴェステンラントにも、大規模な行動を行う余力はない」
ゲルマニアは技術力こそ地球でいうところの19世紀から20世紀辺りの水準をしているが、それに社会の構造や経済が追い付いているとは言い難い。第一次世界大戦のように前線に莫大な武器弾薬を送り続けるようなことは出来ないのだ。
その事情は未だに中世の色が色濃く残るヴェステンラント軍でも当然に同じことで、両軍とも、大規模な作戦は数ヶ月おきにしか出来ない。その小康状態の間に物資を蓄え、攻勢に備えるのだ。
従って、この期間は比較的平和となる。戦略的に見れば両軍が一切動いていない状況だ。だがそれでもどこかで誰かが死んでいる。
「しかし、次はどうするつもりなのだろうな」
「と言うと?」
「今回の攻勢、ゲルマニア軍が総力を上げた攻勢は失敗した。しかも僅かの差ではなく大敗だ。これではこれ以上戦線を進められるとは思えない」
オーレンドルフ幕僚長は戦争の行く末を案じていた。彼女にはゲルマニア軍が勝利を迎える姿が思い描けなかったのである。
「確かに、今のままではそうだ。だが、第一造兵廠で開発してもらっているあれがあれば、戦況は好転するだろう。多分」
「戦車というものか。本当に役に立つのか?」
「僕の発明が役に立たなかったことがある?」
「いや、ないが……」
「だったら信じてくれ。もうじき戦車の開発に全力を注げるようになるから」
「そうか。ハーケンブルク師団の前線勤務も、残り1週間ほどだったな」
そもそもハーケンブルク師団、第88師団はあらゆる意味で予備戦力として扱われている。こうして前線を支えていること自体が異例なのだ。
「兵士の不足とは言え、師団長殿を前線に留まらせるのは感心しないが……」
その理由は兵力の不足だ。先の攻勢で帝国は10万以上の兵士を失い、その穴は未だに埋められていない。そのせいで第88師団が前線に駆り出されているという訳だ。そうでもしなければ前線を維持出来ないほどに、ゲルマニア軍は疲弊していた。
「参謀本部に向かってそれを言えるか?」
「いいや、止めておく」
「それが賢明な判断だ」
参謀本部とてこれは不本意な筈だ。こうせざるを得ないというのは少し考えれば分かること。誰も悪くはないのだ。
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