塹壕奪回Ⅱ
「クロエ様、我が軍はゲルマニア軍の攻勢を迎え撃っておりますが、全体的に劣勢であることは否めません」
マキナは戦況を簡潔に報告する。最前線の指揮官が多く殺害されたことで指揮系統に混乱が生じ、ヴェステンラント軍は組織的な反撃が出来ないでいた。
「そうですか……やってくれますね……」
「クロエ様、今こそ我が親衛隊が打って出て、敵を蹴散らすべきです!」
スカーレット隊長は声を大にして訴えた。クロエは今回も自分に直属する予備隊を用意させており、その指揮官にはスカーレット隊長を任じている。クロエはあくまで後方から全体を統率すべきという何人かの将軍からの意見を容れたからである。
「それはあまりいい手ではないでしょう」
「な、何故ですか!?」
「味方は混乱しきっています。親衛隊も思うようには動き回れないでしょう。無駄に兵を減らすだけです」
「そ、それは……」
簡単に言うと味方が邪魔なのだ。最も合理的な手段は味方を排除することだが、クロエもスカーレット隊長もそこまでは非情になれなかった。
「ですので、今回は失敗です。塹壕は放棄しましょう」
「ほ、本気ですか!?」
「ええ。第一、この塹壕は元々ゲルマニア軍の造ったものです。別に奪われたところで、大して悲しくはありません」
「そ、そういう問題ではなく、せっかく奪った防衛線を奪い返されるのです。もう一度奪う必要があるのですから、それは我が軍にとっての大きな損失ではありませんか?」
当然のことだ。せっかく進めた前線を押し戻されれば、もう一度同じ犠牲を払って戦わねばならない。スカーレット隊長は断固塹壕を守り通す構えであった。
「まあそれは否定しませんが――」
「でしたら――!」
「ですが、まあ色々と私にも考えがあるのです。今は時間がないので従ってください」
「し、しかし、私は……」
「クロエ様が仰っているのです。男爵ごときのあなたが、大公殿下に口答えが出来るとでも?」
マキナは感情のこもっていない、しかし何故だか凍てつくような声でスカーレット隊長を牽制した。
「そ、それは……」
マキナは爵位すら持っていないではないかと言いかけたが、そういう問題ではないとすぐに思い直す。大公殿下にこうして直談判が出来ているだけでも奇跡のようなものなのだ。これ以上を望んではいけない。
「承知しました。これより親衛隊は、友軍の撤退を支援します」
「ええ。お願いします」
「はっ」
クロエの一存で、ヴェステンラント軍はせっかく手に入れた塹壕線を放棄することとなった。
○
それから半日ほどが経った。多大な犠牲を出しながらも、ヴェステンラント軍は防衛線を後退させることに成功した。
「ところでクロエ様、そろそろ防衛線を放棄した理由をお聞かせ下さい」
スカーレット隊長はクロエに問い質した。
「ええ。では説明しましょう」
「はい」
「私は、ゲルマニアの本土に攻め込むことが、現有の戦力では不可能であると判断しました」
「そ、そんなことは!」
「ありますよ、スカーレット。この戦争は決戦で勝敗を決めるようなものではないのです。各々の国がその国力の全てをかけて戦争をする、そんなものなのです」
「……はい」
これまでの戦争は決戦を主体としたものだった。両国が主力の大部分を一か所に集めて野戦を戦い、勝った側が敵の領土を大きく刈り取る。それを何回か繰り返して最終的な勝敗を決める、言わば決闘のようなものであった。
だがこの戦争は違う。一度決戦に勝ってもせいぜい数十キロパッススしか前線は進まない。何千何万もの局地的な戦闘を繰り返しながら少しずつ前進するしか勝ち目はないのだ。
これらは全て、塹壕を使った防衛側の圧倒的な優勢がもたらしたものである。
「そして、我が軍はそういう風には出来ていません。我が軍はどこまでも決戦志向。敵の塹壕線を一気呵成に突破して敵を滅ぼすことが不可能だと分かった今、侵攻に意味はありませんよ」
「それは理解出来ますが……だからと言って獲得したものを捨てる必要はなかったのではありませんか?」
「私たちは取りうる戦略は、敵の塹壕線を完全に突破しきれる戦力を用意し、それを以て一撃で戦争を終わらせることです。残念ながら長期戦に対応出来るように軍を作り変えるというのは無理がありますから。それまでは防御に徹して時間を稼ぎ、ついでにゲルマニアの国力を消耗させるべきでしょう」
長期戦に耐えうる軍隊といのはつまり、中央集権的な軍隊ということだ。それを造るとは即ち、ヴェステンラントの封建性そのものを破壊することである。そんな内戦の火種にもなりかねないことを戦時中にやらかそうとは正気ではない。
「ですから、その……」
「ですので、我が軍はより我が軍に適した防衛線を作り、最小限の労力で効率的に防衛を行う必要があります。ゲルマニアの塹壕線は我が軍に適したものではありませんので」
ゲルマニアの塹壕線はあくまでゲルマニアのやり方に合わせたもの。ヴェステンラントのやり方には合わない。それを保持するのに労力を無駄に使うのは避けるべきだ。
「そう、ですか……分かりました。ありがとうございます」
「いえいえ。本来ならもっと早く説明するべきでした」
「クロエ様はどうしてそのことを諸将に伝えられないのですか?」
「あまり後ろ向きなことを言うと兵の士気に関わりますので」
攻勢でゲルマニアを落とすことは不可能。そんなことを大公殿下が言ってしまえば確かに諸侯の士気は下がるだろう。クロエの判断は妥当なものだ。
とは言え一部の高位貴族にはこの方針は共有されており、ヴェステンラント軍は独自の塹壕線を構築していた。そう、既に準備は整っているのである。
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