大天使とやら
少年はどこまでも果てない草原に寝っ転がっていた。少年は18才の日本人である。
少年には自分が死んだと思われる記憶があった。そしてこんな場所は地球にはない。つまりここは天国か地獄、或いは煉獄か何からしい。いや、洗礼を受けていないのだから辺獄だろうか。
「目覚めたかい? 人の子よ」
「? 誰だ……?」
起き上がって振り返ると、古代人のような質素な格好をした非常に整った顔の好青年が立っていた。
「僕は大天使。名乗る程の名はない。君と同じく、我が主に創られたものさ」
大天使という割にはやけに親しげである。そして初っ端から大変な情報を投げつけてきた。
「…………ええと、つまり、ああ、この世界には神が実在したと?」
「うん、その通り。主は確かにあらせられる。人の子でその真なる御姿を知る者は、もういないけどね」
「ああ……まあ、それはそうでしょうね」
かつて神が直接語らった預言者たち。仮に神が実在したとて、その教えはとうに失われ、その名を借りた俗悪な怪物が蔓延っている。
少年の記憶を辿れば、そんな例はごまんと出てくる。現代に残るは、後付けの妄想ばかりの残骸のみなのである。
「それで、ですけど、僕はどういう了見でここに?」
死んでよく分からない場所で目覚めたと思ったら目の前に天使が立っている。この状況を分析するに、最後の審判でも下されるのだろうか。
「そうだ。その話をしに来たんだ。一言で言えば、君には、今とは異なる世界に転生してもらわなければいけない」
予想外の回答であった。
「ええと、それはまたどういう理由で?」
「これを見てくれ」
大天使は腕を上げ、いつの間にか持っている一枚の丸められた紙を差し出した。開くとそれは地図であった。
その地形は少年の元いた世界――地球と全く同じ。しかし、そこに描かれた国境線は、少年には全く見覚えのないものであった。
「これが、君に転生してもらう世界だ」
「そう……ですか。で、その理由は?」
少年は先程の質問の答えを求めた。しかし大天使は順を追った説明にあくまでこだわる。
「焦るんじゃない。いいかい、この世界にはまず、魔法が存在している。この世界で人類が知性を獲得した頃、我が主が、この世界に魔法をもたらされたんだ」
「ほう」
余りにもとんでもないことの連続で、少年は最早その程度では驚かなかった。まあ異世界なのだしそのくらい普通では、と。
「しかし、この魔法は、君たちが考えるような魔法とはその性質が幾分異なっている。この世界の人の子は魔力を持っていない。ただ、
「エスペラニウム……」
奇跡を安定して起こせる資源。少年はすぐに、そんな世界で起こるであろうことに思い至った。
「つまり、それをめぐって戦争でも起きたと」
「その通り。しかし、ことはそれ以上に深刻なんだ。地図を見てみてくれ」
見ると、地図に無数の光点が浮かんでいた。
それは世界中に散らばっているが、ヨーロッパにだけ殆どない。ヨーロッパを中心とし、中東やアフリカを巻き込んだ広い範囲が、光点の空白地帯なのである。
「その光る点は、エスペラニウムの産地を示している。見て分かるように、君たちがヨーロッパと呼ぶ領域は、エスペラニウムを著しく欠いているよね」
「ということは……ヨーロッパ人は、それを使い果たしたのですか?」
戦争大好きなヨーロッパ人である。実際、元の世界でもヨーロッパの資源は真っ先に掘り尽くされていた。
「そうじゃない。元より、この地はエスペラニウムを欠いているんだ」
「それは何故ですか?」
「我が主がここにエスペラニウムを置くのを忘れたから、だね」
心なしか呆れているように。
「は、はあ……」
――随分と残念な神様もいたものだ。
肩透かしを食らった思いであった。
「話はまだ続くよ。そこで主は、この地に文明の光、具体的には蒸気機関を授けられた」
「それで公平になると?」
「そう。そのように思われていた」
『思われていた』ということは、つまり上手くいかなかったということだ。
「だがこの世界の者は、文明を持っても、その扱いを知らなかった。まあ当たり前かもしれないけど、その力を全く引き出せてはいないんだ」
「それで、僕を飛ばそうということですか?」
つまりは蒸気機関に連なる発明品を伝授してこいということであろう。
「そう。この世界では、戦争の火種が燻っている。エスペラニウムを豊富に持つヴェステンラントと、機械文明の中心であるゲルマニアは、いつ戦争を始めるかも分からない。しかし、今のままではゲルマニアに勝機はないんだ」
地図を見る限りだと、ヴェステンラントは南北アメリカ大陸に跨る広大な国家、ゲルマニアは大ゲルマン帝国を実現させたナチス・ドイツみたいな大国であるようだ。
「なるほど。それで、ゲルマニアに入れ知恵をして勝たせろということですか」
文明の発展に寄与するというよりは戦争限定な感じであった。
確かに少年は古今東西の戦争について広範な知識を持っている。それを異世界に持っていけというのも理解は出来る。
しかし、とは言えそれも本職の職業軍人に及びはしないというのは、少年も自覚するところ。
――であれば、何故に僕を選んだ?
「しかし、何故に僕なのです? もっと相応しい人材はいるでしょうに」
「最近死んで、ちょうどいい者だったからさ」
「……あ、そ、そうですか」
少年は真面目に考えていたのが馬鹿らしくなった。
人間は神に似せて創られたという言葉がその脳裏に浮かんだ。人間の愚かしさはどうやら神に由来するらしい。
「それで、この話、乗ってくれるかい?」
「乗らなければ?」
「まあ、記憶をなくして普通に転生かな」
それでは普通に生まれ変わるだけだ。それは面白くなかった。
反対に今回の条件での転生を選べば、戦争が出来る。
――それは、とても面白そうだ。
ならば答えは決まっていた。
「乗りましょう、その話」
「ありがとう。よく言ってくれたね。そうそう、君には少し褒美を与えると、我が主は仰っている」
「褒美……ですか?」
「君には、エスペラニウムに頼らずとも使える魔力、それもこの世界においては天下無双の力を与えよう。その力で以て速やかに栄達を図り、戦争を始めてくれ」
意外と現実的なことを言うのだなと驚いかされた。確かにそれなら――英雄なりにでもなれば、ゲルマニア人とやらも話を聞いてくれるだろう。
無論、それを断る理由などない。
「お願いします」
「では、そこに眠ってくれ。次に目覚める時は、君はゲルマニアの地にいるだろう。明けの明星が輝く空に、主の恩寵があらんことを」
「主、ね……」
少年は横になり目を閉じた。意識はたちまち遠のいていった。
それが少年――シグルズの始まりであった。
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