第4話 心の欠片『出汁巻き卵』
……涙が止まらない。
泣いたのだなんていつ以来だろうか。けれど、嗚咽も出ることがなく、ただただ涙をこぼしているだけ。
「いけませんよ? こちらでゆっくり目に当ててください。腫れるのも多少は抑えてくれます」
と言って渡してくれたのは、温かいおしぼりだった。メイクもついてしまうのに、構わないと
沁みる温かさが心地よく、流れていた涙も徐々に落ち着いていく。もう何度かぽんぽんと叩いていくうちに、涙は完全に落ち着き、離したらおしぼりがメイクで汚れてしまった。
「……すみません。汚してしまって」
「いいんですよ。落ち着いて何よりです」
「……俺っち、何か悪いことしたのか?」
「……いえ。今の仕事が……本当に目指していたものと違い過ぎて」
「? お嬢さん、そんなにいい夢持っているのにか?」
「夢……だったんです。今の会社に就職することが。でも」
でも、現実は違い過ぎた。
雑務と言う研修ばかりで、何も広告デザインに関係出来る仕事ではない。もう二ヶ月くらい経つのに、一向にやりたい仕事に関われていないのだ。
人間じゃない相手に何を言っているのかわからなくなってきたが、美兎の口は止まらなかった。
「「…………」」
「だから、こんな事続きならやめちゃおうかなって。そんな、馬鹿な事考えちゃうくらい……今日は自棄酒してたんです」
「……なるほど。夢と現実の違いに、身体と心がついていけなくなったのか?」
今度は、宝来が美兎の腕をぽんぽんと撫でてくれた。頭だと身長差で届かないからだろう。
「心と……からだ?」
「ギャップにちょいと疲れただけさ? 人間もだが、あやかしも関係ないさ? いきなりの新人にわからない仕事をほいほい任せる方が馬鹿だぜい?」
「……わからない、仕事?」
「どの職種でも、修行の段階が必要という事ですよ? お嬢さんの仕事はまだ始まったばかりです。理想を抱くことはもちろん大切ですが、段階を踏み外した方がもっと大変ですよ? 足元が見えなくなってしまいます」
この心の欠片で見えたあの缶バッジのように。
その緑色の卵を見て、美兎は会社を目指したきっかけを思い出した。
今の会社が、動物園の勧誘のために作った大きなポスター。
大きなゾウが、嬉しそうに鼻を上げて笑顔になっていたポップ調のイラストだったのだ。その広告をベースにしていたグッズの缶バッジを、美兎は幼い頃夢中になって服やバックにつけていたりした。
いつだったかなくしてしまい、大人になるにつれて記憶の彼方に置いて行ってしまったのだ。
けれど、夢だけは忘れずに。
「……大事な、夢でした」
「まだ過去形にしちゃあいけないぜ? お嬢さんの抱いている夢はいい
「? 会社を……辞めないことですか?」
「それもだが。お嬢さんが成し遂げたいことを、きちんとすることさ」
とりあえず、瓶ビール。と、宝来は火坑に注文すると、火坑は持ったままの卵をまな板の上に置く。
「では、せっかくなのでこちらの卵で『出汁巻き』でも作りましょうか? お嬢さん……えと」
「あ、
「では、湖沼さんもいかがですか?」
「いいんですか?」
「はい。心の欠片はいただいた持ち主が食べても問題はないんです」
少々お待ちを、の前に火坑は素早く宝来に瓶ビールとグラスを。美兎には煎茶の湯呑みを出してくれた。
「かー! うんまい!」
子供サイズのゾウなのに、酒が飲めるのは不思議だったが。あれだけ酒をかっくらった美兎なのに、宝来が飲んでいる様子を見るとまた飲みたくなってきたが、今日はもうやめておこう。
それよりも、聞きたいことがあった。
「あの……きちむってさっきから言ってますけど。私にそんな素質があるんですか?」
恐る恐る聞くと、宝来はグラスに入れていた半分のビールを勢いよく煽った。
「おう。願望の強い夢……己の叶えたい夢でも、己のためでなく他人を笑顔にしたい夢さ。そう言う夢でも、己の力で叶えようとしてる人間の夢は、まさしく吉夢だ」
「他人を笑顔にしたい……?」
「ちょいと、お嬢さんの過去を覗き見たのさ? 俺っちが夢喰いだから出来る技だ」
「え」
「安心しな。見たい部分しか見てないよ」
「はあ……」
「それだけ、湖沼さんの吉夢は凄いと言うことです。お待たせしました、出汁巻きですよ?」
火坑の声で、一瞬にして考えが移った。
殻は緑色だったのに、黄身は濃い黄色で綺麗な出汁巻き卵が皿に盛り付けられていた。
ふんわりとした湯気に、表面は艶やかで食べるのがもったいないくらいに。けれど、せっかくのご厚意には甘えたい。
添えられた大根おろしに、カウンターに置かれていた醤油差しからちょんとおろしに醤油をかけて……ほんの少し出汁巻きに載せた。ゆっくりと切れ目から持ち上げれば、断面の層に白身の部分が見えていない見事な黄色一色の層の美しさに唾があふれてきてしまう。
「…………いただき、ます」
まずは、出汁巻きだけをひと口。出来立てなのに、そこまで熱くなく舌がやけどすることはなかった。
スッポンの
次のひと口で、おろしと醤油の部分を。少し濃いめに感じてた出汁の旨味が中和されて、おろしと醤油の辛味で何故かマイルドになる感じがした。
雑炊でお腹が満たされたと思っていたのに、箸が止まらない。止められない。
宝来もバクついていたが、美兎も止まらなかった。
「ふふ、喜んでいただけて何よりです」
火坑はただただ、にこにこ微笑んでいるだけだった。
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