はつこい

サイトウ純蒼

はつこい

――夢を見た。


それは初恋の夢。

子供の頃に通った小学校。放課後の教室。

静かな部屋に僕とその女の子が椅子に座っている。女の子は遠く離れた席。後ろ姿しか見えない。


だけど知っていた。

これは初恋なのだと。

会話すらない空間。夕焼けが優しく窓から差す。

その後ははっきりと覚えていないのだけど、少し寂しい思いがした。




江藤シンイチ。

大学1年の19歳。今年入ったばかりの大学で毎日つまらない講義を受けている。

彼女いない歴イコール年齢。高校時代から共学で女子はいるものの、ほとんどそれとは縁がない生活を送っていた。要はモテないってことだ。



「では、講義を始めます」


今日もつまらない講義を聞く。

大学に無理やり買わされた分厚い参考書。意味の分からぬ言葉が羅列されている。

でも大学の講義は嫌いではなかった。教授の話し声以外しない静かな空間。特有の雰囲気。春なので時折眠くはなるが、ただぼうっとするには最適の空間であった。



そんな空間が今日少し破られた。


「では、そこのあなた……についてどう思うか教えてください」


教授に指名されたのは自分、じゃなくて隣に偶然座った女の学生。眼鏡におさげといかにも勉強が好き、ってオーラを出している。


「は、はい……」


女学生は返事をして立ち上がったが、下を向いたまま顔が青くなっている。よく見ると今日の講義に使う教科書がない。


(さては忘れたのか)


シンイチは指定されたページを開いたまま、教科書をその女学生のところまでスライドさせた。長机は有難い。

突如現れた教科書に驚いた女学生はシンイチを一瞥した後、教科書を読み教授の質問に答えた。


(ありがとうございます……)


椅子に座った女学生は小声でシンイチに言った。


(いいよ、どうせ見ていないし)


シンイチが答える。

眼鏡におさげ。服も地味で本当に勉強が好きなタイプって感じだ。


この女学生がシンイチの大学生活をほんの一瞬、変えて行く。




翌日、大講堂で講義の開始を待っていると、ひとつ離れた隣に誰かが座った。


(あっ)


ふと見ると昨日の眼鏡の子である。彼女はシンイチに気付くと苦笑いをして軽く会釈をした。シンイチも会釈で返す。

その翌日は食堂で昼食を食べていると、テーブルの端にまた眼鏡の女の子がやって来て一人座った。お互い特に挨拶もせず黙々と食事をする。


その後も何度か眼鏡の女の子に会うようになった。



「お前に気があるんじゃねえ?」


シンイチは週に一度だけ活動するサークルに入っていた。

特に何もするわけではないのだが、先輩や友人らが集まって来てつまらない話をする。女はいない。男だけの臭いサークルだ。


大学に入ってからの上辺だけの付き合いの友人にそう言われたのは、眼鏡の女の子に会ってから1週間が過ぎた頃だった。


「そう、なのかな……」


女性経験どころか、交際経験もないシンイチにはあまり実感として感じられなかった。


「だって、しょっちゅう現れるんだろ?」


「ああ」


「だったらそうだよ、きっと。羨ましいな」


同じく彼女がいないその友人が言う。

嬉しい? 嬉しくない?


シンイチには微妙な感覚が自分の中にあるに気付いた。




その日もやはり眼鏡の女の子はシンイチの少し離れた場所に座っていた。

相変わらずつまらない講義。その声も右の耳から左の耳へと流れて行く。抑揚のない声で話す教授。教えているというよりは何か念仏でも唱えているようにすら思える。


シンイチはふと眼鏡の女の子が手にしている本を見た。


――はつこい


彼女が手にしていたのはひらがなでそう書かれた一冊のハードカバーの本であった。


(初恋?)


彼女は教授の講義を受けながら、時折その本を眺めては頬を赤らめた。


(初恋? 誰かが好きなのか? まさか、……俺?)


シンイチの体が少し熱くなる。心臓がドクドクなる音が聞こえるようだ。


(まさか大学1年で初恋、なのか? 男には縁のない雰囲気だけど、まさかね……)


この日よりシンイチの心境に少し変化が現れ始める。





(あれ、いない?)


眼鏡の女の子は大講堂に入るといつも座っている場所にその男の子がいないことに気付いた。それでも彼女はいつもと同じ場所に座る。


「では講義を始めます」


シンイチはこれまでとは違った小さな教室で講義を受けていた。

意識したと言ったら嘘になるが、わざと部屋を替えた。あれ以来不思議と近くに来られるのを避けるようになった。


「385円になります」


食事も大学の食堂ではなく、校外にあるコンビニで済ませるようになった。


「何で俺が……」


コンビニの駐車場で座ってパンを食べるシンイチは、自らの良く分からない行動に自分自身不思議がった。


大講堂で講義を受ける時は故意に遅れて教室に入った。

眼鏡の女の子を見つけて、そして離れた席に座る。彼女はいつもと変わらぬ様子ではあったが、何となく寂しく見える気もした。




そんなある日、講堂の一番後ろで講義を受ける準備をするシンイチの肩を誰かが叩いた。


「あっ」


振り返ってみるとそこには眼鏡の女の子が立って微笑んでいる。シンイチが声を出そうとしたが、先にメガネの女の子が言った。


「やっと分かったよ、江藤君。はいこれ」


突如、自分の名字で呼ばれたことに戸惑ったシンイチだが、彼女が差し出したそれを見て頭の思考回路がとろけて行く感覚に陥った。


それは古い下敷き。

そこにはマジックで「えとうしんいち」と半分消えかかった文字で書かれている。



「私よ、水瀬。水瀬マキ。覚えてる?」


そう言うと彼女は眼鏡を外し、結んでいたおさげのリボンを解いた。ふわっと風になびく綺麗な髪。その顔を見てシンイチの思考回路はひとつの言葉を脳に伝えた。


――はつこい


小学生の頃一緒のクラスだった女の子。

話すこともできずただただ教室の片隅から眺めていただけの女の子。

成長はしたが眼鏡を外したその姿には当時の面影がはっきりと残っていた。


「ずっと借りたまま返したかった。私引越ししちゃったでしょ。大学ここで会えたのは良かった」


シンイチは呆然としたまま下敷きを受け取る。


「あ、あっ……」


声にならない声が出る。


「それじゃ」


彼女はそう言うと体を翻してその場を後にした。



はつこい……


シンイチは数十年ぶりに戻った古い自分の下敷きを見てひとりつぶやいた。

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