第18話 ダイ・ハード(2)
くり抜かれた岩の冷たさを感じながら、じわり、じわりと歩みを進める。少し進んだところに、闇の中で岩壁にもたれ、穏やかな呼吸をしている男の気配がある。
立ってはいるが、半分寝ている。武装しているから、明らかにこの坑道を、何らかの理由で警護しているのだろう。盗掘の防止だろうか? その可能性は、もちろんある。だが、明かりもつけないで潜むようにしているだろうか?
――それに。
と俺は付け加える。理由はなんであれ、俺がアリスを救う邪魔になることには間違いがない。俺は足音を殺し、男のすぐ真横、男の熱を帯びた鼻息を感じ取れる位置まで近づくと、額をわしづかみにする。そして、一気に背後の岩に叩きつける。
「……っぐが」
手を持ち替えて、口を塞いで二度、三度。一撃目で恐らく意識は失っていたが、念のため。恐らく、二度と自分の力で意識を持つことはないだろう。音を立てないよう、慎重に岩の床に捨てる。
流れ出た液体を踏まないように用心しながら、遠くの角から見える明かりを目指して進んでいく。見張りは、今の一人だけだろうか。ただ、途中に採掘道具などをしまっておくためのものだろう、広く作られた小部屋が見える。間口から離れて様子をうかがうと、寝袋に3人、横になっている姿が見える。
――手早くやれば大丈夫か。
しかし、一人を始末している間に物音を立てると、他が起きる危険は高い。明らかに警戒しているし、そもそも寝心地が悪そうだ。無理して処理しなくても、無視して進むこともできる。ただ、アリスを連れて出るときに、あるいは、アリスの周りにいる人物を始末するときの物音で起きてくる可能性がある。
――障害は取り除いておくべきだ。
俺は日本にいたときの社畜根性そのままに、判断した。ミスは許されない。一番、間口に近く、頭をこちらにして寝ていた男の頭を持ち上げ、目を醒ます前にひねる。ごりっという確かな手応えがあり、脳からの信号が急に途切れた胴体が、ランダムに跳ねる振動が伝わってくる。だが、それもすぐに収まる。
二人目も、同じように首をひねった。最後の一人は、そこまで気を遣うこともない。握りしめた
逃げるときにアリスが怯えるかな。いや、多分大丈夫だ。明かりを点さずに、静かに通り過ぎようと言えば、寝ているように見えるはず。あの子には、余計なものを見せたくないし……、俺がアリスのために人を殺したと言えば悲しむだろうから。
ここまでは順調だ。砂埃と返り血を拭い、俺は拳鍔を握り直した。入り口までいた大蝙蝠の姿も今はない。仮に、あれが偵察だったとしても、ここでの動きは悟られていないだろう。初めて人を殺したが、
――俺の可愛いアリスに危害を加えようという意味では、何も違いがないのだから、当然か。
「本当に一人で来るとは思えないんですがね」
坑道に反響して、どこかで聞いた記憶のある、粗野な声がする。どこだったか……、思い出す前に、俺は歩みをより慎重なものに変える。
「いや、来る。悪魔は契約だけは重視する」
聞き覚えのない声。
「バルカさんは! 悪魔なんかじゃない!」
たった半日聞いていないだけなのに、懐かしさで安堵するほどの、アリスの声。生きている。金糸雀のような美声が、涙で涸れている。ひどいことを、されていなければいいが。
いや、十分にひどいか。こんなところに閉じ込めて。
「それなら、一人で来ないでお前は殺されるわけだ。まあ、悪魔の花嫁には相応しいな」
再び聞き覚えのある声だ。ただ、その声色は記憶の中のそれと違い、悪意と侮蔑のこもった、人間が出せる中で恐らく一、二を争う醜い声。俺は声の主を思い出そうとする努力を放棄して、暗闇の中に身を沈めることに注力することにした。ゆらゆら揺れる、松明と焚き火の炎。
「バルカさんは、悪魔なんかじゃ……」
言いかけて、アリスの声が途切れ、代わりに痛々しい咳き込む声が聞こえてくる。俺は影から影へ、慎重に歩を進めながら、アリスが閉じ込められている広い空間へと忍び込んだ。
多分、ここに貴重な鉱石かなにかが溜まっていたか、あるいは元々地下にあった空間なのだろう。これまでの坑道とは比較にならないほど広い、地球であれば観光地になりそうな空洞だった。あちこちに掘り残した岩を木で補強した柱が立っていて、身を隠す場所には不便はなかった。一方で、足下には石が転がり、ツルハシやシャベルが放置されていて、ともすると引っかけて物音を立ててしまいそうだ。見られることだけでなく、足下にも十分、用心する必要がある。
その空間の一角、奥まってへこんだところに、木の柵が立てられている。家畜が閉じ込められるような簡素なものだが、よじ登れないように、返しが上についている。そこに、アリスは閉じ込められていた。薄汚れて、ところどころすりむけているが、大きな怪我はしておらず、服も破れてはいるが、ちゃんと着ている。
――いつか、そういうのもいける口と思ったけれど、意外と直面すると駄目なものらしい。
場違いな苦笑いを浮かべた後、俺は安堵と怒りを同時に覚え、処理すべき人間を確認する。アリス以外には4人。全員武装している。しかも、2人は
いくら拳鍔を握っていても、鎖帷子のような鎧を着込んだ相手は不利だ。当たり前のことだが。処理するなら、不意打ちで先ほどまでのように、急所を一気に潰すのがいい。だが、4人もいてしかも全員起きて警戒していては、それもままならない。もしやれたとしても、一人が限度だろう。
「いいや悪魔だ。お前らが二人とも生きているのがその証拠だ!」
革鎧が叫ぶ。空洞内にわんわんと声が反響して、そのやかましさで思い出した。奴は、アホン――アリスの婚約者だった男だ。どういう訳か、俺とアリスが生きていることを嗅ぎ付けてしまったらしい。
――不幸な奴だ。殺すのは最後にしてやろう。
元々はただの村の猟師だ。いつから俺たちが生きていると気付いていたかは分からない。ただ、気付いた後に、俺と同じようになんらかの訓練を受けたとしても、たかが知れている。やはり厄介なのは周囲の鎖帷子とローブだ。
「だから、それは、司教猊下が!」
「うるさい、猊下がお前のような者を生かしておくものか!」
「悪魔の花嫁め!」
「背教者が!」
口々に叫びながら、アホンと鎖帷子二人が、石をアリスに投げつける。大半は柵に弾かれるが、それでも礫がアリスに当たり、柔肌を傷つけ、血が流れる。
俺は心を決め、唯一石も投げず、反応もしなかったローブに忍び寄る。恐らく、こいつが首謀者であり作戦の立案者であり、高位者だろう。一歩引いたところで、部下を見守りながら俺を警戒している。そんな感じだ。
だが、警戒しているのと、俺に気づけるかどうかは、また別の問題。
俺は音もなくローブ姿に忍び寄ると、背後から両手で頭をわしづかみにする。口の両側から両手の人差し指を中指を口に突っ込んで嘔吐かせ、声を出せないようにする。そのまま、後頭部を立てた膝に叩きつける。鈍い音がするが、派手な音ではない。
膝を外し、足下に地面に後頭部を改めて叩きつける。既に意識を失っていて、重みもある頭蓋は、スイカを割るより簡単に裂けて砕ける。闇の中で行われたそれは、正面にいたアリスですら気付かない。
――もう一人、殺れるか。
動かない木偶を投げ捨て、俺は歩みを進める。
――木偶?
「現れたぞ」
仕留めたはずのローブ姿は、ただの木人形だった。聞こえた声に、俺は背後を振り返る。先ほど仕留めたはずのローブ姿が、フードを目深にかぶり、腕を組んで俺が入って来た坑道を塞いでいる。
「ほ、本当に、現れやがった!」
引きつった、笑いのような、悲鳴のようなアホンの声。耳障りだ。やはり最初に殺すべきだろうか?
俺は影に潜むのをやめ、
「バルカさん、逃げて!」
「お前ら、足を止めろ!」
ローブ姿が命令する。さすがにアホンの動きは鈍い。鈍いが、その分、何をするか分からない。鎖帷子とローブの三人は、恐らく俺が狙い。アホンのアホは、利害が一致して……、あるいは利用されてアリスに執着している。
となると、俺もアホンを狙わざるを得ない。それが、相手の狙いなのが分かっていても、だ。
だが、これで後顧の憂いもない。アリスは絶対に俺を裏切らないからだ。
「自殺志願者は俺たちを襲うのが流行なのか? 三人がどうなったか、知らない訳じゃないんだろう?」
地球での俺なら30回くらいキレている、と思う。ただ、口では脅し文句を言いつつ、頭の中は不思議と冷え切っていた。
「やはり、お前が先輩を!」
鎖帷子の左側の方が、激情に任せて
だが、打たれた方はさすがに無事では済まず、勢いで踏鞴を踏んで後退する。半兜相手なら、狙うのはやはり顎か。踏み込んでアッパーを放つが、更に下がられてよけられてしまう。
「悪魔が!」
もう一人の鎖帷子が、こちらは
さらに、その右後ろからアホンが矢を番え、未だに得体のしれないローブ姿が控えている。状況は、とても好転したとは言えない。
「悪魔以外の語彙はないのかい? 語彙力のなさを神に懺悔した方がいいんじゃないか?」
「逃げて……、お願い、バルカさん……。逃げて」
しかし、そう言われて逃げられるだろうか?
――否。
多少の傷なら、頑強の魔法薬でこらえられるはず。死ななければ安いもの、いや、死んでもアリスを助けられれば安いものだ。
――さて、どう動くべきか。
よく言えば相手の予想外に、有り体に言えばやけっぱちで俺は鎚矛に踏み込む。姿勢を低くしてから重心を左に移し、右の拳を出すと見せてもう一度上体を沈める。カウンターを狙った鎚矛が、俺の頭上を掠めて過ぎる。こいつの一撃をもらえば、終わりだ。
重心を戻し、浮き上がる力を利用しながら、改めて右のアッパーを叩き込む。タイミングをずらし、こちらが相手のスイングの勢いを利用して、カウンターを取る。狙いは甲冑の隙、顎だ。
狙いは完璧。拳鍔越しにも顎の骨が砕ける鈍い感触が伝わってくる。しばらく、オートミールのミルク粥を啜るしかできまい。仰向けに倒れ、尖った岩に後頭部を打ち付ける。ミルク粥を食べる必要もなくなったかもしれない。
3対1。まだ行ける。しかし、構えを取り直した俺の右肩を、視界の外からの激痛が襲う。
「へ、へへっ。どうだ悪魔め!」
突き刺さっていたのは、粗末な矢。得意げに震える声で言うのはアホンだ。鎚矛の後ろから、狙っていたのだろう。俺に打ち倒されることを見越して。
「どっちが悪魔だよ」
俺は皮肉に唇を歪ませる。筋がいくつか切れて動きづらいが、まだなんとかなる。打ちかかって来た長剣を、左の手甲で受け流し、右のフックを叩き込む。矢傷が更に開いてしまうが、気にしてはいられない。ただ、やはり兜に阻まれたのと、矢が動きを邪魔して、致命傷にはならない。
そこへ、二の矢が飛来する。今度は、狙い過たず、俺の胴体のど真ん中、心臓を刺し貫く。さすがは、ゴブリンたちを追い散らした猟師たちの一人である。
たまらず、俺は膝をつく。そこに、体勢を立て直した長剣の袈裟懸けの一撃。左肩から右肩へ、一直線に切り裂かれる。更に、矢が左肩へ。
「バル……っ」
アリスは最後まで俺の名を呼べたのかどうか。
力を失って、俺はうつ伏せに倒れる。霞む目に、近づいてくる長剣の足が見える。見上げなくても、俺の頭上に、その剣が掲げられているのが分かる。
――ここまでか。
せめて、アリスだけは逃がしたかった。悔し涙のひとつも流してみたいが、そんなものは……。
「そんなのは、もうないはずだよ。情けないったら、
聞こえてきたのは、心底呆れたというような、少女の声と、蝙蝠の羽音。続いて、プシュッとビールの缶でも開けたような音が聞こえ、ごとりと俺の目の前に、長剣持ちの頭が落ちてくる。続いて、生温かい、血の雨。
辛うじて頭を上げると、目に入ってきたのは、真っ黒と濃いピンクで構成された、ゴシック調のドレスをまとった少女。年の頃は、11, 2だろうか。幼さが多分に残る肉体を、洞窟の奥底に似つかわしくない上等な仕立ての衣装をまとい、仁王立ちしている。
そうして俺を恥ずかしいものを見るように、見下してくる。赤い目で、金髪の巻き毛を左右で高く結っている。神の彫刻のように整った顔立ちだが、そこに高貴さはあれども、神聖さは感じられない。
「立ちなよ。粋がった餌の5人や10人、キミ一人でどうにかなるんだから。あんまり腑抜けてると、僕が
「お前……は……」
むちゃくちゃを言われているが、しかし、心臓を貫かれているはずなのに、俺はいつまでも死なない。震える四肢に力を込めて、言われるがままに、本能のままに立ち上がろうとする。
生まれたばかりの草食獣の子どもが、そうするように。
「お前は……まさか、そんな。司教猊下が……、枢機卿猊下が……!」
一方で、入り口を塞いでいたローブ姿が、信じられないとばかりに声を震わす。
「あらぁ? 気付いちゃった?」
少女は、年不相応に、妖艶に笑う。
「そう、なら、死ななきゃね。あなたたちの教義の正しさを証明するためにも。死んで、その口を永久に開けないようにしないとね」
くねくねとモデルのように腰を振りながら歩き、少女はローブ姿に近づく。そしてその姿がかき消える。代わりに、白い霧の塊が現れて、ローブ姿にまとわりつく。かと思うと、風よりも早くその背後へと流れる。
そして、そこで霧は現れたときと同様、突如として消え、少女の姿が闇から作り出される。ローブ姿が塞いでいた入り口を、更に奥から塞いだ形になる。逃げられなくなったのは、果たして。
「僕は、
彼女は笑う。謝肉祭の豚の丸焼きを目にした、無邪気な少女のように。
その名乗りは、聖白蛇騎士団を生かして返さない、という意味でもあった。
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