第8話 俺の名は……。
「それで……」
一通り俺の説明を聞いた後、アリスは言った。
「ブランさんの、本当の名前はなんて言うんですか?」
問われて、返事に窮する。
「確か……、山田太郎。ええっと、太郎が名だから、こっち風に言うとタロー=ヤマダかな? たぶん」
「たぶん?」
アリスが小首をかしげる。命の危機がさってやっと言える。今日も可愛い。ちょっと、涙の後が痛々しいけれども。
「ああ……、実は向こうでの記憶がどんどん曖昧になっていってる気がするんだ。倫理観……、考え方とか、もののやり方とかは覚えてるんだけど、自分の名前とか、働いてた会社。――さっき言われたけど、父祖、家族とか先祖とかのことなんて、ろくに覚えてない」
「ふーん、おかしな話ですね。……そしたらタローさんって呼んだらいいですか?」
「どうだろう、こっちにタローなんて人、いるのか? 悪目立ちしないか?」
「うーん、いないですね。それならまだ……」
「ブラン=レクターはいくらなんでも。そんな急に遠くにいけるわけもないし」
兵隊の話によると、変死にしろ行方不明にしろ、ひとびとの噂になりそうな様子だった。しかもなりすましている奴がいた後に、ただの同姓同名ですというのは、なかなかに無理筋だ。
「そしたら、バルカさんでいいんじゃないですか? ちょっと変わった名前ですけど、顔立ちもちょっと変わってるし、いいと思いますよ」
言われて、俺は足を止めてアリスを見る。
「やっぱり俺の顔って変わって見えるか?」
実のところ、こっちに来てから鏡を見ていないからよく分からないのだ。向こうではメガネをかけていたはずだが、こちらではかけなくても不自由がない。実際、メガネもコンタクトも必要ないって素晴らしいな……。
「そー……ですね。黒髪さんは結構いるけど、赤い目の方はあんまりいないかな? あ、でも司教猊下も同じ目の色をしてらしたから、あの方もその、てんせーしゃなのかもしれませんね」
司教……猊下。いまいち助けてくれた理由が分からない。自分の、おそらくは部下を犠牲にしてまで。
それはさておき。
「で、アリスは俺がその、異世界からやってきたってのは信じてくれるのか?」
「うーん、まぁ……」
露骨に目を逸らして、アリスは髪をくるくるといじった。
――あ、これ絶対信じてないパターン。頭おかしい奴だけどそっとしておこーとか思われてるパターン。
「昔は……、ていっても1世紀くらい前。先王とか、そのおじいさまの時代には海の向こうには何もなくて、ただ滝が奈落に落ちてるって言われてたらしいです。今は、偉大なる冒険者によって新しい大陸、新しい世界が発見されて、新しい人類と、新しい
それこそ、名前と名字が逆だったり、タローなんて人もどこかにはいるのかもしれません。だから、ええっと、タローさん。バルカさんが言う異世界も、もしかしたらあるのかなって、そう思います。……あ、後。あのワインですね」
「ワイン?」
俺はオウム返しに問い返した。
「バルカさんが産地はここか? って聞いた、お屋敷で飲んでたワインです。あれの産地は分からないんですけど、時々出回る、やたら高いのに美味しくないって評判の奴なんですよ。あれを飲みたがる人がいるとしたら、よっぽど変な人だろうって、時々話題になるんです」
――悪かったな馬鹿舌で!
般若面になる俺を無視して、アリスは続ける。
「……でもまあ、多分、信じるっていうよりは、わたしがバルカさんを信じたいだけですね」
「アリス……、ありがとう」
まあ、普通に考えてそうすぐに信じられる訳がない。それこそ、異世界から勇者を召喚したりとか、計画的に行われているのでもなければ、アクシデントで迷い込んでくる――、日本で言えば神隠しに遭うような人間は、多くないだろう。
――異国の船に連れ去られたようなもんか。
「あ、でも。もうあんな怪力、そうそう使っちゃだめですよ。異世界の人って、みんなそんな馬鹿力なんですか?」
「馬鹿力って……。自慢じゃないが俺は子どもの頃から引きこもりの陰キャの体育2だぞ。正直、おばあちゃんにまで『儂のが力あるわい!』て言われるほどだ」
「ちょっと何言ってるか半分以上分からないですけど……。おばあちゃんの方が力持ちってことは、やっぱり異世界の人ってみんなすごい力なんだ。伝説の巨人の一族って、実は異世界の人なのかな?」
何か、少し変な方向にスイッチが入ってないか? この子。
「じゃなくて、ゴブリンを殴り倒したりすることですよ!」
「ええ……、でもゴブリンって雑魚でしょ……?」
アリスは、やれやれとため息をついた。緊張が解けた反動か……、いや、俺が異世界人だと打ち明けたせいか、なんだかフランクになってきてないか?
「そりゃあ確かに、英雄伝説に出てくるような生き物じゃないですけど。モンスターっていうくらいですから、頭蓋骨は人間よりずっと頑丈で、鹿や猪と同じくらい分厚いって言われてるんですよ」
――基準が分かりづらいが、確か、鹿のような角のある生き物は支えるために頭蓋骨が頑丈だと聞いたような気がする。猪の方は、突進攻撃! てイメージだし、まあ、堅そうだ。
そんなんだから、みんなすぐ悪魔の使いとかって言われて信じるんですよ、とかぶつぶつ言われる。まあ、確かに。警戒していたつもりだったが、あくまでも日本の知識で警戒していて、肝心なところが疎かだったのかもしれない。今更ながらに反省。それでアリスも危険にさらしてしまったのだから。
「な、なるほど。気をつける」
「もー、ほんとに。これはわたしがお姉さんとして、しっかりこの世界について教えてあげないとダメですね」
「お姉さんて……。勘弁してくれ」
彼女の目に俺がどう映ってるかは知らないが、娘くらいの年齢なんだよ……。
俺の内心も実年齢も知らず、アリスは「えへへっ」と楽しそうに笑う。あ、これは実際には俺が大分年上だって、分かった上で面白がってる奴だ。大体さっきの俺の日本での生活の話で、時間の経過はなんとなく伝わってるはずじゃないか。
まあ、そんなことでいちいち怒る俺じゃないけどな!
「冗談ですって、怒らないでくださいよ」
「怒ってないしー。こっちのことを教えて欲しいのは事実だしー。先輩だしー」
「拗ねないでくださいよー」
もー、って言いながら、アリスが俺の脇腹をつんつんつつく。やめろやめろ、松明という火を持っているんだ、俺は。
「で、アリスの姐御に聞きたいんだけど」
「その言い方ほんとに、やなんですけど……」
ジト目で見られたので、さすがにやめよう。
「えっと、アリス。とりあえず道を歩いているけど、行く宛てとか、あるのか? 俺はもちろん、ほんとにない」
「んっと、そうですね……、近くにコーマンって都市があるので、そこに行きませんか? すごく大きな街で、一万人も人が暮らしてるって噂です。大きな河もあるので、海に出る船も通るんですよ。後、司教座聖堂もあるので、……いろいろ、安心かもです」
なんだか、品ぞろえ豊富なホームセンターか気位マックスみたいな名前だが、司教座ってことは、あの司教もいる都市ということか。それなら安心かもしれないな。とはいえ……。
「ラージュラ村の人は、来ないのか?」
「んー、たまには行きますよ、もちろん。でも、河を挟んでこっち側だけですし、しかも、ワインや毛皮の納品に問屋さんに行くくらいですから、そこに気をつければ大丈夫ですよ!」
「なるほど、なぁ」
コーマンを流れる河というのがどれほどの河かは分からないが、海に出られるような大型船が通れるとなれば、相当大きな河に違いない。日本だって、ある程度大きな河を挟めば自治体が変わったりするし、何より電車や車でないとなかなか移動する気になれないものだ。
いずれ、移動するにしても、確かに当座、身を寄せるには最適かもしれない。木を隠すには森と言うし、別に積極的に追われている訳でもない。多少悪目立ちしても、田舎者で済むくらいの都会がありがたいかもしれない。
「じゃあ、そこにしようか。アリスが言うなら間違いないだろうし」
俺が言うと、アリスは心の底から嬉しそうに笑う。
「えへへ、それがいいと思います。あと一つ」
「一つ?」
何かあるだろうか。
「わたしは今日から、アリス=レクター。バルカさんは、バルカ=レクター。夫婦です。いいですね?」
「なるほどょ~、よくないですね~」
「なんでですか!?」
脳みそが溶けた返事をしたらすごい剣幕で怒られた。そこまで怒ることないじゃないか。
「夫婦じゃないからだ! なんでそこで嘘をつく必要がある!?」
勢いで言い返したら、やれやれ、と如何にも分かってないなぁという態度で首を振られる。
「あのですね。司教猊下がローブをくれたのは単に顔を隠すためだけじゃないと思うんですよ」
「ほうほう……。その心は?」
「これは多分……、侍祭さんたちのローブなんですが、ほんとは、女の侍祭はあんまりいい顔をされないんです。ましてや、半分修行中の身ですから、異性と一緒に旅なんて許されないんです」
「なるほど」
あ、これは真面目な奴だなと俺は襟を正す。こちらの世界の宗教のことはよく分からないが、地球の伝統的な宗教でも、結構性差をしっかり区別していた気がする。
「例外として認められるのが、きちんとした婚姻関係を結んで、夫婦で神の道に入った二人です。本来、元々絶対ダメなんですけど、より厳しく不倫とか、離婚とかが禁止されます。ですが――」
「このローブを……、司教から直々にもらった本物を着ているから、身元が少し怪しくても面倒を避けられるってことか」
「そういうことです」
アリスはぱぁっと表情を明るくしてうんうんと激しく首を上下に振った。
――地球でも、宗教は男女関係にうるさかったけれど、それはどこの世界も一緒か。
まあ、金の次くらいには犯罪の原因になっている気がするし、むべなるかな。
「うーん、そういうことなら分かった。司教がそういう嘘まで許してくれるのかは分からないけど……」
「大丈夫じゃないですか?」
一方で、アリスはあっけらかんとした様子だ。
「ここの教区の司教猊下は知らないですけど、お隣の教区の司教猊下は、隠し子が4, 5人いらっしゃると言うし」
――おいおい。
「枢機卿猊下にいたっては、側室が5, 6人」
――おいおいおいおいおい!
英雄色を好むというけれど、そもそも聖職者は英雄なのか? 多分違うだろう。
「でも、バルカさんは浮気はダメですからね。偉くないですから」
いたずらっぽく笑って、アリスが俺の、松明を握っていない方の腕に抱きついてくる。うーん。柔らかい。いや、泡泡のおねーさんと比べると、適度に堅い、ハリがあるというべきか……。
――アリスはそれでいいのか?
出かかった言葉を、俺は咽せながら押し殺した。
アホンはアリスのことを婚約者と言っていた。あのとき、アリスが叫んだ悲痛な言葉は、本心だったのか、アホンまでもが処刑されないようにするためだったのか。
確かめることは、ちくちくした胸の痛みと喉の痛みで、できなかった。
……そんな権利は、この世界に流れ着いただけの異邦人の俺にはないと、分かっているし。
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