第36話 (最終話)
佳人薄命。生前の奈美子といい今回一哉が観た夢といい、美しい彼女の姿は何処か脆弱で切ない雰囲気を漂わせる。
だが奈美子は決して卑屈になる事はなく、寧ろ生き生きとした様子で常に微笑を浮かべながら一哉に語り掛ける。一言発すると少し一哉の前に進み、また一言発すると今度は後ろに退く。そんな悪ふざけをしながら一哉の周りを泳いでいるようなその姿はまるで天女のようだ。
夢から覚めた一哉は改めて奈美子の遺書とキーホルダーを握りしめた。
人の一生とは何なのだろう、一旦生まれたら人、いや生きとし生ける者全てが死に向かって歩き出す。この理屈を極端に纏めれば死ぬ為に生きているといった一つの論理も成り立つ。だがそれだけで納得する者は殆どいまい。
殊人間に於いては各々が色んな目的を持って、夢を観て、遊んで、戯れて、喜怒哀楽を重ね人生を謳歌し、その幕を閉じる。夭折した奈美子は果たして人生を謳歌出来たのであろうか、僅か三十数年の短い人生で一度でも天国を味わう事が出来たのだろうか。そもそも人間は生きている間に天国など感じる事が出来るのだろうか。
限りない悩みが一哉を襲う。だが奈美子の遺書にはとてもじゃないが悲しみは感じられない。だとしたら奈美子は死ぬ事に依って倖せに成ろうとしたのか。
真意は誰にも分からない、少なくとも今生きている者には。
晩秋の夕暮れは一哉を憂愁へと誘い、色鮮やかな紅葉はその心を癒やしてくれるのだった。
一哉は久しぶりに実家へ帰っていた。喪に服していた母も一哉の訪れを実に温(あたた)かく迎えてくれる。今の一哉に対し掛ける言葉も無かった母は取り合えずこう口を切った。
「一哉、今回は本当に大変だったわね、私も何て言ったらいいか分からないけど、これからどうするの?」
「今までと同じさ、俺はただ生きて行くだけだよ」
母は少し潤んだ目元を手で紛らわしながら無理に笑顔を浮かべる。
「あなた成長したわね、私はてっきり落ち込んでいるとばかり思ってたわよ」
「ああ、散々落ち込んださ、俺だって無理に明るくなろうとなんか思ってない、ただ俺は生きる事でしか奈美子に恩返しが出来ないと思ってな」
「そうね」
一哉の言動は母を安心させた。昔の一哉なら考えられない事だった。やはりこの前渡したキーホルダーが役に立ったのか、それとも自分が知らない内に親元を離れた息子は急成長したのか。彼女は今になってようやく一哉が自立したように感じられ涙が止まらなくなっていた。
暫くすると弟の昌哉が帰って来た。昌哉も既に30を超えているのに未だに親離れが出来ず、実家で呑気に暮らしていた。だがそれは一哉にとっては自分の代わりに母の面倒を見てくれている昌哉の存在は有難いものだった。
昌哉は相変わらずの陽気な佇まいで一哉に声を掛ける。
「よう兄貴久しぶりじゃん、元気してたの?」
すると母が慌てて
「昌哉、言葉に気を付けなさい」
と昌哉を諫めたが、一哉は全く動じる事なく答える。
「おう元気してるよ、お前はどうなんだ?」
「俺は相変わらずこの様さ」
「なるほど、見た通りなんだな」
三人は一同に笑みを浮かべる。昌哉のこの敢えてとった態度は一哉を明るい気持ちにさせたのだった。以前の一哉なら真っ先にぶん殴っていたであろう。だがもう十二分に苦しんだ今の一哉には昌哉に対する感謝の念の方が勝っていたのだ。それはとりもなおさずこれからの自分の人生に於いても大きい意味を成しているに違いない。
この日三人は久しぶりにテーブルを囲み夕食を同じくしたのだった。
冬になり一哉は新たなるドラマ撮影に臨む。勿論脇役なのだが結構出番は多く、やりがいのある仕事だった。共演者の中には過去に共演した事のある先輩俳優も居た。そのベテラン俳優は一哉に会うなりこう言った。
「おう久しぶり、君ちょっと見ない間にいい俳優になったな~」
「いや、大した事ありませんよ、照れるじゃないですか」
「いや、この前のドラマの演技、あれは誰でも出来るもんじゃないよ、俺は感動したよ」
「それは有り難う御座います」
「明るい芝居なんて誰にでも出来るもんさ、でも暗い、哀しい役柄、まして死ぬシーンなんか相当難しいよ、俺なんか初めて死ぬ役を演じた時はNG出しまくりだったしな」
「また謙遜を」
「本当さ、こういう役ってのはそれ相応の経験が無ければ出来るもんじゃないのさ」
その言葉は一哉を複雑な心境にさせた。確かに今回の事で俺は喜怒哀楽の哀を切実に感じた。これは奈美子のお陰である事は言うまでもない。だがそれを両手を上げて喜ぶ事が出来ようか。またまた難問が一哉を襲う。だが今の一哉はそれを良い方に転じさせる術を身に付けている。この喜怒哀楽、四つの感情は全てが均等に必要であってどれか一つでも欠けていてはいけない、亦どれかに偏ってもいけない。常に回っているものなのだ。依って今の一哉は逡巡している場合ではない。ただ目の前の仕事に集中するだけだったのだ。
その後数週間が経ち、一哉にはいよいよ死ぬ時が来た。
テレビドラマでよくありがちな崖っぷちから飛び降りるシーン。そこには冬の荒波の攻撃にも無言で耐える、大きな岩の塊のような荒磯が堂々と聳え立っている。そこから遙か上方の崖から見下ろす光景は実に怖ろしい。当然下には大きなマットが敷かれてあるのだが問題その演技だ、ただ飛び込むだけでは芸が無い。そして表情はどう作れば良いか。一哉は無心になって天を仰いだ。真っ青な空には無数のうろこ雲が泳いでいる。
一哉は悲嘆に暮れた表情の中にも少し微笑を浮かべながら空を仰いだまま飛び込んだ。すると一哉の身体は天に向かって舞い上がり下には堕ちない。そのまま上空を駆け上り雲を貫いた。
そこには沙也加や沙希までが居る。だが一哉の身体は彼女達に構わず更に駆け上がる。
雲の遙か彼方には奈美子が笑顔で一哉を待ち構えていた。彼女は笑ったままの顔でこう言った。
「やっと会いに来てくれたのね、貴方は何時も遅いんだから」
「何でお前がここに居るんだ!? 俺は今仕事で飛び込む所だったんだぞ!」
「今更何言ってんのよ、さあ、行くわよ!」
奈美子は一哉の手を取り笑みをたたえながら、まだ遙か上空を目指す。この奈美子の姿は幻なのか、陽炎なのか、一哉は奈美子に誘(いざな)われるままにその身体を預ける。この先に一体何が待っているのか、それは奈美子にも分からない。
一哉の着ているTシャツは風に煽られ皺だらけだ。いや、余りに強い風に引き伸ばされたTシャツには寧ろ皺一つ感じられない。
二人は何も考えずに、ただひたすら天高く舞い上がって行くのだった。
完
まったく皺のないTシャツ saga @hideki135
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