第35話

 一哉は眼前に拡がる夥しいほどの鮮血に戦慄した。奈美子はその血の海に沈むように、ぐったりと身体を横たえている。床には包丁に割れたグラス、白い壁は真っ赤に染められ、テーブルの上には大量のコカイン。その惨状は一哉を発狂させた。

「うぉぉぉーーー! うぉぉぉーーー!」

 一哉は我を忘れひたすら叫び続けた。そし包丁を手に取り自分の身体にもその刃を突きつけようとする。すると救急車やパトカーのサイレンが鳴り響き、一哉は自刃する事を諦めた。

 少し話をした後、後奈美子は病院へ運ばれ一哉は警察に連行される。近隣も騒然としていた。

 包丁を手にしていた一哉は当然警察でも疑われる。だが一哉は執拗な取り調べにも一切答えず、ただ呆然としていた。取り合えず一哉は警察の留置所で一晩を明かす事になった。


 何も物が無い留置所の部屋は一哉を一安心させた。一人で思いにに耽っていると隣の房から男が話かけて来る。

「兄ちゃん、何したんだい? 俺は強盗で下手打っちまったよ」

 一哉は何も答えなかった。だがその男がしつこく声をかけて来るので苛立って


「うぉぉぉーーー!」

 と、また奇声を上げる。すると担当の警察が駆け寄り一哉に注意する。それ以来男は声をかけて来なくなった。


 翌日一哉は奈美子の死亡を訊かされた。死因は多量の薬物接種と出血多量。少しだけ聴取を受けた一哉はその後帰される。一哉は家に帰る気にもなれなかったが、警察に誘われ泣く泣く帰る事に。

 今は自分の足で歩く事さえ叶わぬ程の脱力感が彼を襲う。途中公園のベンチに腰を下ろした一哉は今回の事、いや、今までの己が人生を振り返っていた。

 母子家庭とはいえそこそこの家庭に生まれ育った一哉は大した苦労もせずただのほほんと生きて来た。その事については母には言葉では言い表せないほど感謝しているし、贅沢などしたいと思った事もない。しかし恋愛経験に関してはどうだろう、今まで付き合って来た二人の女性にも感謝はしていたものの、何か釈然としないものもある。これは単なる失恋なのか、単に自分が至らないだけだったのか。そして今回の奈美子の件。

 彼女とも色々あったが、やっとこさ折り合いが着いた筈だった。これすら一哉の独りよがりだったのか、そんな筈はない。だが繊細な一哉にも彼女の心の奥底までは見通せていなかった。確かにこの事も一つの要因ではあるだろう。しかし一哉に何が出来たであろう、自分なりにやれるだけの事はやった筈だ。これ以上何をしたら彼女は真に安らぎを得る事が出来たのか。

 それは以前に奈美子が画策した一哉を堕落させる計画に最後で失敗したのと同じく、一哉にもあと一歩何かが足りなかったのであろう。

 この最後一押しがどうしても一哉には分からなかった。結局彼女を救う手立ては無かったのかもしれない。一哉は悲嘆に暮れながら暗鬱とした表情のまま家に帰った。


 奈美子から家族の事など何も訊いていなかった一哉はこれからどうして良いのやらさっぱり分からなかった。警察と病院の助力に依り取り合えず通夜はしたものの、奈美子の家族は誰も来ない。翌日の葬儀でも誰も来ない。こんな淋しい別れなどないと感じた一哉は精一杯の気持ちで彼女を見送ったのだった。

 遺体となった奈美子の顔は意外と美しかった。とてもじゃないが、まだ心半ばで死にゆく者の顔ではない。遺書も残さず逝ってしまった彼女ではあったが、その表情は恰もこの世には何の未練もないという感じの実に清々しい表情をしている。そして一哉に対し、応援を贈るような面持ちさえ漂わす。

 一哉は正に死者に励まされるような心持でその白く固まった美しい唇に接吻し奈美子を見送ったのだった。



 あれから幾日が経ったのだろう、僅か数日の時間でさえ今の一哉には数ヶ月、いや数年にも感じられる。自分は今、何をしているのか、仕事はしているのか、生活しているのか、そもそも生きているのか? それさえ分からず、ただ時間だけが過ぎて行く。だがこんな放心状態の気持ちを治す術はそれこそ時間の経過だけしか無かったのである。

 何時しか一哉は仕事場に来ていた。そこでは大勢の人間が忙しく動き回っている。

「一哉さん、次お願いしますよ!」

 威勢の良いその声は監督から聞こえるものだった。一哉は無心のまま演技に取り掛かる。その姿は一見、魂の抜けた芝居にも見えるがこの時の一哉の役にはそれが帰って功を奏した。

「はいカット! 一哉さん良かったよ~」

 愛想笑いした一哉には多くの拍手が巻き起こる。だが本人には何が良かったのかさっぱり分からない。

「一哉さん、死ぬ役も結構巧いんだね!」

 これは今の一哉にとっては皮肉以外のなにものでもない、だが当の本人は何も考えずその役を淡々と熟す。もしかするとこういう演技が出来た事自体が奈美子のお陰でもあったような気がして来た。

 まだテレビに復帰したばかりの一哉にはこうした死にゆく役が多かったのだった。でも俳優の仕事には違いない。こうして一哉は徐々に我を取り戻して行くのだった。


 また一哉が好きな秋になる。街路に咲く紅葉に誘われるようにして一哉は久しぶりに水泳に赴いた。

 そこには相変わらず快活に泳ぐスイマー達が意気揚々と汗を流している。準備体操をしながら遠くに目を向けるとあの親父さんが居た。

 一哉は自ら親父さんのいるコースへ入り素知らぬ顔で泳ぎ出す。何故そのコースに入ったのかは彼自身にも分からない。親父さんと話がしたかったのか、だが自分から声を掛ける気もしない。この矛盾した思考は如何ともしがたい。

 そこそこ泳いで休憩しているとやはり親父さんの方から声を掛けてくれた。親父さんは相変わらずの清々しい面持ちでこう言い出した。

「おう兄さん、久しぶりだったな~、何年振りだよ」

「ご無沙汰しておりました」

 親父さんは一哉の顔を見据えてちょっと間を置いてから

「うん、あんたいい顔になったな、一皮剥けたようだな」

 と言ってくれた。本人の気持ちはそうでもないのだが、他人が言ってくれる事に一哉は素直に感謝した。

「有り難う御座います、まだまだですけど」

「そうだ、まだまだ人生は長いよ~」

 親父さんは微笑を浮かべながら、あくまでも明るい表情で言葉を掛けてくれる。一哉の3倍以上は生きて来たであろうこの親父さんの顔には無数の皺が渋い表情を作る。一哉は人生の大先輩から受けたこの言葉を訓戒のように再度、自分自身へ言い聞かせるのであった。

 一哉は

「お先です、また来ます」

 と挨拶を済ませ帰った。


 家に帰った一哉は実に数週間振りに部屋を掃除した。痛々しく血の色に染まった壁のクロスは全部剥がし、他の部分も綺麗に拭き上げる。この間一哉はこの汚れた部屋こそが奈美子が居た証なんだとわざと掃除をしなかったのだが、ここに来て綺麗に片付け出したのは奈美子との別れを告げるものではなく、寧ろこの部屋を綺麗にしなければ何時まで経っても奈美子が成仏出来ないと考えての所業だった。

 そして剥がし終わったクロスの裏に何かがくっ付いていた事に気付く。それは一片のメモであった。そこにはこう書いてあった。

『親愛なる一哉君、ごめんね、でも貴方は私の分まで生きてね、応援してるから』

 と。これは紛れもなく奈美子の書いたものだった。遺書なのか? まさかこんな所に!? 流石の警察もここまでは捜索していなかったらしく、そのメモは綺麗なままクロスの裏に貼り付いていたのだ。

 一哉はこの遺書を捨ててしまわなかった事を安心し、キーホルダーと一緒にして大事に蔵’(しま)う。

 この晩一哉は夢を観た。そこには当然奈美子が出て来る。だがそれは過去の思い出ではなく未来の二人が醸し出す光景であった。






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