第34話

 奈美子の策は失敗に終わった。何故だ? 何故今になって一哉は覚醒したのだ? 確かにまだ一抹の不安は残っていたが事は9分通り巧く運んでいた筈だ。

 窮鼠かえって猫を噛むとは言ったものだった。だが鼠に獅子は倒せない。そして獅子は兎を捕らえるにも全力を尽くす。奈美子は獅子に成り切れていなかったのだった。つまりは一哉を見くびり過ぎていたのだ。

 奈美子がこれほど動揺したのは人生で初めてだった。これからどうすれば良いのか全く分からない。次なる策など無い。奈美子はただ呆然とし気が抜けたような、正に今までの一哉と立場は逆転してしまったのだった。


 数年振りに一哉は俳優に復帰した。天を仰ぎ見る夏の向日葵は今の一哉に味方するべく勇ましく立派に咲き誇る。それに加え煩い蝉の鳴き声に燦然と輝く太陽、それら全てが一哉に追い風を吹かせるが如く烈しくも優しい優雅を漂わせる。

 人間の心境とは実に奇妙なもので、母から告げられた事とキーホルダー、たったこの二つの事象だけが一哉を思い立たせたのだ。逆に考えるとこれが無ければ一哉はどうなっていただろう。このまま奈美子に依って腑抜けにされてしまった一哉にはもはや死しか待っていなかったのではあるまいか? 生死とは常に紙一重なのか? 一哉はその人生に於いて今ほど生きている実感を味わった事は無かったのだった。

 復帰したとはいえ数年間のブランクは大きい。今の一哉に出来る事といえば以前のように劇団で日々稽古に明け暮れるだけが関の山であった事は言うまでもない。

 だが今更後に引けない彼は一日欠かさず芝居に精を出す。その献身ぶりは凄まじく日に日に芝居の感を取り戻して行く。当然その姿は周りからも称賛され、一哉は名実共に完全復帰する事が出来たのだった。

 この日仕事を終え家に帰ると奈美子は部屋で灯りもつけずに一人泣いていた。

「おい奈美子どうしたんだよ?」

「どうもこうもないわよ」

「一体どうしたんだって?」

「あなた何故私の事責めないの?」

「何の事だよ?」

「今更惚けないでもいいじゃない、ここ数年の事よ」

「俺には何の事かさっぱり」

「どうしてあなたはそんなに優しいの? 私が憎くないの?」

「じゃあ言うよ、お前は何も悪くなんてないさ、俺が弱かっただけさ」

 言葉を失くした奈美子は急いでキッチンから包丁を取り一哉目掛けて向かって来た。意表を突かれた一哉ではあったが、奈美子の気持ちには少し躊躇いが感じられ、その刃を躱す事は容易であった。 

「やりたいのならもっと心を込めてやらなきゃ、いくら俺でも殺せないぞ、ここだ!ここ! ここを目掛けて一心に突いて来い!」

 一哉の表情には嘘が感じられない、またもや躊躇った奈美子は今度は自分胸に刃の尖端を当てた。

「何してるんだ!!」

 一哉は奈美子を頬を思い切り引っ叩き包丁を取り上げた。

「何でお前が死ぬ必要があるんだ!? やるんだったら俺をやれって言ってんだろ!」

 もはや泣きじゃくる奈美子は何も言い返せない。一哉はそんな奈美子の身体を優しく愛撫する。それでも泣き止まない奈美子は自分の生い立ちから今回の策略、その全てを一哉に打ち明けたのだった。

「なるほど、そういう事か」

「大して愕かないのね」

「愕いてるさ、でも愕きよりも憐み、いや寧ろその一途な感情に敬意を払いたいぐらいだよ」

「え?」

「俺は一貫性のあるものが大好きなんだよ、だから奈美子のそういう考え方には別に文句を言おうとは思わない、ただ今回は幸か不幸か俺が勝っただけの事さ」

「何で私は負けたの?」

「それは俺にも分からない、強いて言うとすればこれだよ」

 一哉は例のキーホルダーを奈美子に見せた。

「何これ?」

「俺が小学生の修学旅行で買って来た自分自身への土産さ」

 奈美子は何も言わずキーホルダーを見つめていた。

「それやるよ」

「何で私なんかに?」

「いいから受け取ってくれよ、俺は今まで2人の女と付き合って来た、その度にそのキーホルダーをあげようとしたんだが、何故かあげる気になれなかったんだよ、ただ物でお互いの気持ちを繋ぎ止めるような事が嫌だったんだよ、でも今は違う、お前にあげたいんだよ、理屈抜きに」

 これは元々口下手な一哉にとって、精一杯の愛情表現だったのかもしれない。そして今の覚醒した一哉にとってはもはや不要な物でもあり、どうしても奈美子に受け取って欲しいという彼の切実な思いでもあった。

「ありがとう、私これ大切にするわ」

 奈美子は快く受け取ってくれた。それはとりもなおさずこれからの二人の行く末を暗示する事象なのだろうか。長い人生に於いてたったこれだけの事で全てが明るく転機する訳もない、だが今の二人にはこの事が大きな節目であった事も違いない。

 奈美子は今一度それを見つめながら

「私絶体にこれを質入れなんかしないから」

 と冗談を口にしたのだった。

「そんなもん誰が買ってくれるかよ」

 二人は微笑を浮かべ、新たなる契りを交わすのであった。


 初秋の街路にはまだ青々とした紅葉が初々しい姿をして微笑ましく咲いている。秋が好きだった一哉は更なる躍進を胸に秘め仕事に没頭する。そんな中、業界には或る噂が飛び回っていた。

 芸能界を追放された林の代わりになる人材がなかなかいないという事で各局のプロデューサーが色んな芸能事務所に劇団までをも躍起になって人材発掘に奔走していると言うのだ。

 当然一哉にも声は掛かって来た。劇団員達はみんなして一哉に期待する。だが一哉はその誘いを断ったのだった。

 何故そうしてかといえば、やはりこの数年間のブランクであった。自信が無い訳では無かったが今まで成りを潜めていた自分が人の不幸に乗じて活躍するなど一哉にとっては考えられない事であった。漁夫の利などという諺はフェアではない。未だにこんな硬い思考に捉われていた一哉はやはり芸能界には向いていないのだろうか。だがそれは貪欲さが無いという事とはまた違うようにも思える。

 一哉を応援していた者達も彼のそういう考え方に一層、畏敬の念を表すのであった。

 しかしプロデューサー達の営業はしつこい。ならばせめて脇役でもいいから出てくれとの懇願を受け一哉はそれならと承服し再びテレビの世界へと復帰する。

 最初の役柄は脇役とはいえ死亡してしまう役だった。今更そんな事ぐらいで動じる一哉では無かったが台本に目を通すと実に暗鬱とした情景が描かれている。一哉は初めて演じるこんな役を巧く表現する事が出来るのだろうか、一抹の不安はあったがやるしかない。

 一哉はその台本を持って、奈美子に見せるべく喜び勇んで家に帰る。だが部屋に入り一哉が目にした光景は、彼の今までの人生で一番悲惨で壮絶なものであったのだ。

 誰がこんな光景を予想したであろう、眼前に広がるその光景は果たして事実なのだろうか、一哉は発狂し叫び狂った。





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