第17話
ホテルに入った一哉はあまり気が進まなかった。この一哉の心の裡にある誰にも分からない真の感情、それは本人でさえ分からない心理の境地とでも言うべきか、この果てしなく続く人間生命の根源とも言える阿頼耶識。
一哉は仏教になど関心は無かったがふとそういう思いに駆られた事は確かであった。
沙希の冗談から始まった事とはいえ、今までは照れながらも自分が率先してホテルまで来た筈だったが、いざ部屋に入ると何処か暗鬱な表情を泛べる一哉を慮った沙希はこう言う。
「どうしたの? 何か気が進まないみたいだけど?」
「いや、そんな事ないけどさ」
でもここまで来て何もしないまま帰るのもおかしい、そういう漠然とした思いだけで一哉は事をし始めた。相変わらず沙希の身体は美しくて色っぽい。その肌には何か神秘的なものさえ感じる一哉ではあったが、やはり気が乗らない。このままではヤバいと感じた一哉は途中で手を止めてしまったのだ。
「どうしたのよ? 何かあったの?」
「悪い、何かが邪魔するんだよ」
「何よ?」
「それは俺にも分からない、でもこのまま無理にやってもそれは沙希に対しても悪い事になりそうで」
「何よそれ」
「とにかくごめん」
沙希は上半身を起こし一哉の身体に凭れながら言った。
「あなた病気よ、神経質過ぎるもの」
「そうかな・・・」
「きっとそうよ」
「沙希、お前本当に俺の事好きなのか?」
「まだそんな事訊くの、好きよ」
「本当にか?」
「そこまで深く考えた事はないわ、でも好きな事には違いないわ」
「ありがとう」
結局二人は煮え滾ぎらないまま帰った。
家に着いた一哉は未だに鬱蒼とした気分のままだったがそれは沙希とて同じだろう。だがそんな気分でいる事を決して苦にはしない一哉、それ対して沙希はどうだろう、
一哉にも人の気持ちまでは分からないが少なくとも沙希は自分ほど悩む事を好いてはいないだろう。そう思うとまたやり切れない気持ちになり出口のない迷路を彷徨う事になる。果たして一哉にそこまでの覚悟があったのだろうか、それすら自分でも分からないまま眠りに就くのであった。
その晩一哉はまた夢を観る。それは昨日観た映画の話であった。
物語の内容は在り来たりのラブストーリーだったがそんな事はどうでも良い、一哉はそこに出て来た俳優に着目していたのだった。この俳優という職業はただ演技をしているだけで生活が成り立っている。無論それも凄いとは思うのだが、その感情を露骨に表現する、いや出来る俳優という生業は自分にも向いているのではないか? この夢には一哉が俳優として活躍するシーンまでが出て来る。それは将来の自分を暗示するものなのか? そこまでは分からいまでも明け方に目が覚めた一哉はふと今観ていた夢が正夢になるような気がしていたのだった。
次の日大学の講義を終えた一哉は水泳部を退部する事決めた。まだ一回生だった一哉を引き留めるような奴は誰もいない。それはこれ以上余計な事を考えたくない一哉にとっても好都合だった。
電車を降り駅を出ると街には烈しい夕立が降り注いでいる。夏の夕立は決して猛暑を和らげてはくれない。傘を持っていなかった一哉は一目散に走って家に帰ったが自分の濡れた身体を拭く前に洗濯物が気になる。だがベランダに出ると干していた洗濯物は既に取り込まれていた。てっきり母が取り込んだものと思っていたのだが隣の部屋でそれをアイロンがけしているのは弟の昌哉であった。
「おう、兄貴、俺も利口になっただろ」
得意気にそう言う昌哉ではあったが相変わらずその手先は不器用でがさつい。
「昌哉、俺がやるからいいよ」
「俺がやるって」
「いいからどけ!」
兄には逆らえない昌哉は仕方なく作業を止めて一哉に任せるのであった。
一哉のアイロンの掛け方、皺の伸ばし方、畳み方は相変わらずでそれは実に繊細なまるで高級な着物を扱うような手つきだった。それを見ていた昌哉は流石にこれは兄貴には敵わないと思い素直に部屋を出てダイニングに向かう。 だががさつい昌哉はここでも失敗をするのであった。
母の料理の手伝いをしていたのだがそのやり方はまるで成ってない。母は大して怒らなかったがそれを目にした一哉は大人しく見ている事は出来ずにまた弟を叱り上げる。
「お前は何でそんなにがさついんだよ、そんな手つきではせっかくの料理も台無しになってしまうだろう」
「じゃあどうすればいいんだよ、俺は何も出来ないじゃないか?」
「そうだよ、お前は何もせずにただ坐ってればいいんだよ」
そんな兄弟のやり取りを見ていた母はこう言う。
「あなた達いい加減にしなさい、たった二人の兄弟なんだからもっと仲良く出来ないの!」
母思いの一哉は真っ先に謝った。それに続いて昌哉も謝った。
しかし昌哉に対して謝れなかった一哉はやはりものの考え方が硬いのか? 本当は昌哉にも謝りたかったのだが兄という立場がそれを許さない。取り合えず一哉はたとえ少しでも寛容になる事を心がけるのであった。
ようやく暑い夏が終わり秋が始まる。残暑が遠のくと季節は露骨なほど秋らしい顔を見せるのだが、一哉の身体には未だに水泳部時代の日焼けの跡が残っている。それは懐かしい高校生時代の思い出でもあるがもはや水泳を辞めた一哉にとっては何か憂愁に充ちた淋しい佇まいにさえ感じる。
改めて自分の身体を見た一哉はこの日焼けの跡をさっぱり消し去りたいとも思っていた。
読書の秋とも言うが文学に疎い一哉はドラマや映画を好んで観るようになったいた。
自分が欲したものはたとえあまり面白くはなくとも何故か気が逸り積極的にさせる不思議な力を感じる。一哉はテレビ番組だけでは飽き足らずビデオを借り進んで鑑賞するのであった。
その中でも気になった作品は現代ドラマであったのだが、そこに登場する人物は主演よりも寧ろ脇役で、実にいい芝居をしている。この俳優は誰なんだろうと興味を持った一哉は夕食の折、母に尋ねた。
「あ、それね、それは有名な○○じゃない」
「そうなの、そんなに有名なの?」
「そうよ、私もその俳優は結構好きだけどね」
そう訊いた一哉は嬉しくなりその俳優が出ているドラマを次から次に観る。その実に渋い表情、台詞回し、相手の感情を汲み取ったものの言い方、立ち回り方、一哉にはその演技の全てが巧く、美しく思える。
しかし一つ不思議に感じる事もあった。それはこんな実力派な俳優が何故脇役ばかりなのか? 主役でも良いのではないか? 大学生になる今までドラマや映画にあまり関心が無かった一哉は今更そんな事を思うのであった。
秋の街路に佇む紅葉は桜とは違い少し謙虚な面持ちを漂わす。この紅葉が好きだった一哉はその一片の落ち葉を手に取り脇役の俳優のようにも感じるのであった。
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