第18話

 俳優の世界とは、芸能界とは一体どんなものなのか? 少なくとも平凡なものではなかろう。テレビでは華々しく映るがその実情は外からでは分からない。確かに甘いものでもない、寧ろ厳しい世界であろう。そんな事ばかり考えていた一哉は大学での講義など一切手に着かなくなっていたのだった。

 学校の帰り駅の売店で買った雑誌に俳優養成所の広告が出ている。一哉は電車の中でそれを真剣に読んでいた。その募集要項にはこう書いてある。

 期間は2年間、週2~週3で1回辺り2時間~、受験料5000円、授業料月2万円、18歳~25歳の男女で未成年者には保護者の同意が必要と。

 これを読んだ率直な感想は意外と高い料金だった事と保護者の同意が必要な事だった。ただでさえ大学の学費を母に面倒見て貰っている一哉にとってはこれ以上母に迷惑を掛ける訳にはいかない。でも大学を辞めてしまえばどうだろう、取り合えず学費などはいらなくなるし養成所の料金などアルバイトで稼ぐ事が出来る。

 一哉はこの事を母に打ち明けるかどうか大いに迷っていた。


 家路を歩いている時、紅葉の花は相変わらず憂愁を漂わす。赤、黄、緑等、時期によってその姿を変化させる様は実に色鮮やかで美しくは感じるが、今の一哉にはこの花の憂いを帯びた姿が何か鬱陶しくも思える。人間というものはつくづく勝手な生き物だ、自分が一番好きなものですら時と場合によっては嫌いにもなりかねない。一哉は自分の一貫性の無さを恥じた。

 家に帰りいきなり母に相談するのを憚った一哉は沙希に電話をした。沙希はあっさりと出てくれた。

「おう沙希か、今大丈夫だった?」

「全然大丈夫よ、連絡待ってたのよ」

「そう言って貰えると嬉しいよ」

「何かあったの?」

「ちょっと言い辛い事なんだけどさ」

「何でも言ってよ」

「実は俺、俳優に成りたいんだよ」

「へ~、いいじゃん」

「この前観た映画の影響かもしれないけど」

「私はいいと思うよ、やりたいようにやればいいのよ」

「ありがとう・・・」

「また余計な事でも考えてんの?」

「いや、そうではないんだけどさ」

 沙希の意見は嬉しかったが、それでもまだ一哉は決心が着かない。夕食時にも結局母にそれを告げる事は出来ず、部屋に戻りまたキーホルダーを握りしめ考え込む。

 やっぱり物は普遍的なのだ、その形は6年以上経った今でも何も変わらない、見れば見るほど威風堂々と感じる。俺はこういう様が好きで憧れてこれを買った筈だ。

 そう思った一哉はまたダイニングへ降りて行き洗い物をしていた母に思いの丈を打ち明けた。

「どう思う、母さん?」

「俳優ね~、私はいいとは思うけど、大学まで辞める事はないんじゃないの?」

「でも金が掛かるしな」

「あなたらしいわね、分かったわ、好きにしなさい」

 母も沙希と同様案外あっさりと一哉の意見に賛成してくれたので何か意表を突かれた感じもしたが取り合えずは安心し、部屋に戻った。

 そうと決まれば案ずるより産むが易し。一哉は早速手続きを済ませ養成所の入試に備える。だがまだ大学は辞めていなかった。


 数日後入試の案内があった。一哉は意気揚々と出発した。大学の入試と比べれば養成所の筆記試験など取るに足りない、至って簡単な常識問題ばかりで流石の一哉もこれには自信があった。続いて簡単な芝居をする試験もあった。

 それは課題にされた短い文章を如何に情を込めて謳い上げるかといったものだった。表現力には自信がない一哉は戸惑った。しかしそこに列席していた他の志願生達は実に巧く表現する。或る者は迫力のある大きな声を上げ、或る者は声は小さいながらも繊細な表情を泛べながら表現する。

 自信の無かった一哉だったがこれだと思い、自分の繊細さを活かす表現方法を取った。するとまだ入試試験であるにも関わらず面接官や会場に居た人達から拍手が巻き起こる。それは一哉にとっては飛び立つほどの嬉しさで今までの人生に於いて一度も経験した事のない幸福でもあった。

 無気力無関心で生きて来た自分の何処にそんな力があったのか? 繊細ではあるが大した人生を歩んで来た訳でもない実に摩訶不思議な光景であった。


 家に帰った一哉は母にその事を告げる。母は素直に息子の喜びを共感したくれた。次に沙希に連絡する。しかしこの日沙希は電話には出なかった。

 でも自分の意見に賛成してくれた事だし、沙希も喜んでくれるだろうと思った一哉は安心して眠りに就くのであった。


 その後も一哉は来たるべく養成所の訓練に備えドラマや映画を観続ける。確かに俳優の表情には凄い表現力がありこればかりは訓練でしか鍛える事が出来ないと悟る。その中でも最たるは悲しい表現だった。芝居で実際に涙を浮かべる、こんな事が出来るのだろうか? それは余程の人生経験がなければ出来ないに違いない。一哉のした悲しい経験と言えば幼くして父と死別した事とお婆ちゃんが亡くなった事、この二つだけだった。

 自身の恋愛経験も幾分かは力になるだろうがその経験はまだまだ浅くそこまでの思い入れもない。そう思った一哉は本来は嫌いな悲しい悲劇的な物語を好んで観るようになるのであった。

 しかしやはり悲劇な括り方で終わっている物語には抵抗がある相変わらずメンタルの弱い一哉であった。しかしもはやそんな悠長な事も言っていられない、そう思うと気が逸る。そこでひらめいた事はまた沙希に悲しい物語を読んで貰う事だった。

 思い立ったが吉日、早速沙希に電話を掛ける。今度はあっさり出てくれた。

「そういう事なんだけど、一つ頼むよ」

「分かったわ、じゃあ明日」

 話は直ぐに決まった。


 翌日一哉は沙希と公園で落ち合った。

「俳優になる決心が着いたのね、良かったわ」

「沙希のお陰だよ、あの言葉がなかったら俺は母にさえ相談してなかったと思う」

「なるほど、で、悲劇的な小説だったわね」

「うん、また頼むよ」

「別にいいわよ、でも何で悲しい表現ばかりに拘るの? 貴方はお父さんとの経験もあるし寧ろもっと明るい表現の勉強をした方がいいと思うけど」

「いや、俺の経験など取るに足りない、昔した経験ではなくて今経験したいんだよ」

「そんな事は養成所に入ってからでもいいと思うけど、ま、いいわ、じゃあまたホテルにでも行く? それとも一哉君の家?」

「そうだな~、じゃあ金使うのも勿体ないし、俺の家にするか」

 だがいざ家に向かおうとした時、事件は起きるのであった。

 見覚えのある懐かしい姿が公園に近づいて来る。その姿は紛れもなく沙也加であった。何故こんな時に限ってあいつが来るんだ? でも公園なんかで落ち合った俺の非でもある。そう思っている内に沙也加は公園に入り一哉達の目の前に立ちはだかったのだ。

 そのまま沙也加を放って行く訳にも行かず、この二人の女の前で俺は一体どう立ち振る舞えばいいのか? そんな事は難し過ぎる。だがどちらにも悪い思いはさせたくない。

 これこそが一哉に与えられた試練ななのか? だが俳優を志す一哉にとってはこれは案外好都合だったのかもしれない。一哉の気持ちはそう方向転換させる事で少し落ち着いた。

 紅葉の花が風に浚われ宙を舞う。これは何時か見た光景でもあった。一哉はこんな哀愁に充ちた光景をも味方に着けるべく一芝居演じる事を決心するのであった。








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