座敷童の夕べ
絵空こそら
匣
僕は、悪鬼なのですって。
出し抜けに、そんなことを言ってみた。
半端に中断された箏の音は、納得のいかないような顔をして、畳の上を転がっていく。障子の影が、畳の上に落ちている。その格子の直線に切断されたような、あの子の薄い影は、小さく身じろぎをした。
外は夕暮れに染まっているだろう。紙一枚を隔てた窓辺は、行燈のようだ。もっとも、部屋の隅からはもう、闇が迫っているのだけど。
あの子が何も言わないので、僕はいたずらに箏爪を弦に引っ掛けた。小さく張り詰めた音が、空気の中にひとつ浮いては、畳に落ちる。
「とはいえ、今の僕はただの音です。これを弾いているのが誰かなど、誰も気にかけないでしょう。僕は与えられたどの遊びよりも、この遊びが好きです。誰にも気づかれない雑音として、この部屋から出て行くことができます」
何不自由なく育った。清潔な部屋、おもちゃ、綺麗な着物、豊かな食事。望む暇もなく毎日毎日、与えられた。広い部屋の中には目も綾な上等の物が、いくつも転がっている。
「素敵ではありませんか?僕はこの部屋に居るときだけ許される。人に憎まれる鬼としてではなく、人から愛される音に。だから満足です。誰にも僕を知ってもらえなくても」
僕はこの部屋が好きだ。綺麗なものや音だけ、積み木のように積み上げて、飽きるまで遊ぶ。塵も敵意も存在しない、あたたかくてやさしい、清潔な部屋。
あの子は小さくうなだれた。そしてそのままの姿勢で後ろに倒れ、ごとりと音がして、うんともすんとも言わなくなった。
障子を開けると、風が部屋に転がり込んできた。それは、畳の上に転がっていた、ありとあらゆるものを容赦なく蹴散らしては、また出て行った。
庭にあの子が転がっていた。痩せた身体からは頭部がなくなっていた。裸足のまま庭に出ると、丸い頭はすぐ見つかった。松の木の根元に噛みつくようにして、僕には後頭部を向けていた。拾い上げた瞬間、小さなころに描いたへのへのもへじと目が合った。繊維の粗い布の感触。僕は小さく笑いかけてみた。「の」の字型の目玉は、ただ空を仰いでいた。
風が吹いて、庭の少ない落ち葉を巻き上げていく。その行方を目で追いかけると、薄青い空が広がっていた。淡い三日月が、残り香のような陽光に照らされている。
陽が落ちきる前に、あの子の身体を戻してやった。そして「の」の目が庭に向くようにしてやった。その作業を終える頃には、肌がすっかり冷えていた。
障子を閉めて、部屋に入る。四角い闇はあたたかかった。障子に映るあの子の影も黒く溶けてしまい、もう輪郭すら判然としなかった。
畳に手を這わせると、色んなものにぶつかった。さっき風に蹴散らされた半襟や帯、羽織、とんぼ玉にビー玉におはじき、でんでん太鼓、風車、折り紙……。たくさん入り乱れているけれど、ひとつだけ足りなくなっているものがあった。音がない。いつも畳に折り重なっていた音が、どこを探しても落ちていなかった。
だけど大丈夫、音は僕だから。なくなったのならまた作ればいい。僕は箏爪をどうにか拾い上げると、箏の輪郭をつかまえ、正面に膝が来るようにした。佇まいを正し、両手を弦の上にあてて息を吸った。
けれど、旋律が鳴ることはなかった。僕は箏の上に俯せた。張り詰めた弦は音を鳴らさず、ただ硬質な感触で肌を押し返した。僕は弦を頬と手首に食いこませたまま、目を閉じた。遠くで風の音がした。暗い部屋の中にはしんしんと、無音だけが満ちていく。
座敷童の夕べ 絵空こそら @hiidurutokorono
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます