VOICE#10 イケボに恋するんじゃなくて恋したらイケボなんです
春。うららかな日差しの中、オフィス街を颯爽と歩いている。
私、橋本みのり、28歳。ついに新たな恋を見つけて気分上々。
社内恋愛が仕事に支障をきたす?
仕事にプライベートを持ち込まなければいいのよ。
「橋本さん、おはよう」
エレベーターの扉が開いて宮沢くんと遭遇する。
きゅぅん。ああ、出社して早々のこの声、ダメだ。し、私情を挟まないように……。
「おはよう、宮沢くん」
「イノクチさんに送る資料なんだけど、今いい?」
「了解。PC持ってくるわね」
にこやかに挨拶をして、二課にある自分のデスクに戻る。鞄を置いて、いそいそとPCを用意していたら、純ちゃんと恭子ちゃんが近づいて来た。
「おはよう、みのりん」
「おはようございます、先輩」
「ねえ、なんだか親しげじゃない?」
「先輩、体調大丈夫だったんですか? まさかあの後、気分が優れないからって――」
「なんにも起こってないわよ。ちょっと話しただけ。同期だから、もう少しお互いに気を使わないことにしたの」
恭子ちゃんが「ふうん」と口を尖らせる。そうだ、恭子ちゃんは宮沢くんを狙っているんだった。浮かれている場合じゃない。ライバルなんだわ……。
「あのね、恭子ちゃん。宮沢くんの件だけど」
「あ、先輩。ご心配なく」
「え?」
「わたし、今本当のラブ見つけたんで。宮沢さんとお幸せにです」
「え?」
「あ、
いつきさん? 五木さん? イツキさん?
「おはよう! 恭子ちゃ~ん」
返事をしたのは広報の木下くん。恭子ちゃんはすでに隣から姿を消して、廊下にいる木下くんに寄り添っている。
「木下樹っていうの? 名前ややこしくない?」
驚きすぎてどうでもいいことを口走ってる私に、純ちゃんが言う。
「みのりんが宮沢くんと帰った後、木下くんが、ボンボンだって発覚したのよ」
「おお……なるほど」
「で、宮沢くんとは何もなかったの?」
「何もないわよ」
「ふーん。みのりんはともかく、宮沢くんは結構その気だと思ったのになあ」
「え? そうなの?」
「……なに嬉しそうにしてんの」
純ちゃんがニヤニヤしている。私は笑って誤魔化しながら会議室に向かう。
・・・
会議室に入ると、宮沢くんが誰かと電話していた。邪魔しないように静かに席についてPCを立ち上げる。その間も宮沢くんの声が会議室に響く。
「はい、その件はですね――」
窓に向かって話す宮沢くんに気づかれないように、観察する。
今まで意識したことなかったけれど、細身のわりに体格がいい。ヒールを履いた私よりも背が高いから175くらい? あるのかしら。
そういえば、置き引き男を背負い投げしたくらいだから筋肉はあるのよね。淡いブルーのワイシャツに濃紺のネクタイ。その上から量販店っぽくない背広を着ている。よく見ると高そうだわ……。
短い清潔感のある襟足に、形のいい耳。あれは――ピアスの穴かしら?
「橋本さん」
「――はい!」
いつの間に電話が終わったのか、宮沢くんが振り返る。
「お待たせ」
お待たせ――いい響き。なんかいい響きじゃない? それ。おかわり、お願いします。
「資料のことなんだけど」
「……」
「橋本さん」
「あ、はい! こちらですね」
ああ、ダメだ。変に緊張してる。気合いを入れ直さないと。
宮沢くんはそもそも仕事に集中していない人間は許せないタチなんだから、ここはまず信頼できる同僚から関係値を築いていかないと。
それから会議はあっという間に終わって――
「では、これは後で整えて一課の共有フォルダに入れておくね」
「よろしく」
「じゃあ、デスク戻るわ」
「あ、橋本さん」
「はい?」
「今日、ランチどう?」
――今日、ランチどう? ランチどう? どう?
頭の中で宮沢くんの声が、リフレインしていく。
それと同時に純ちゃんの言葉が頭をよぎる。
『みのりんはともかく、宮沢くんは結構その気だと思ったのになあ』
これは……いや、ダメだ。調子に乗るな。浮かれるな、私!
「ぜひ」
笑顔、ひきつってない?
・・・
オフィス街のランチはどこも混雑している。
「ちょっと話があるから」と宮沢くんは『穴場』だという近くのホテルの高層階にあるレストランに連れて行ってくれた。昼間からホテルランチなんていう贅沢に、余計に胸がときめいてしまう。期待なんてしちゃいけないんだけれど。
メニューを見て、違う意味で胸が高鳴る。今月もう少しセーブするべきだったかしら。でも自分磨きをケチっていられないし――恐ろしい値段の髪用の化粧水さえ買わなければ……。
「ここ、景色いいでしょ」
「え?」
メニューから顔を上げる。ちょうど来た店員さんに一番安いコースランチを頼む。
店員さんが下がってから、宮沢くんがさっきの続きを口にする。
「俺さ、都会の空が狭いって本当だなって思うんだ。だから、たまに息が詰まったらこういうとこに来てる。本当に、たまにだけど」
そう言って宮沢くんが少年っぽく笑う。
「人を連れて来たのは初めて。他の人には内緒ね」
シーッ。人差し指を立てる仕草まで愛おしくなる。
「ふふ」
幸せすぎて笑い声が漏れてしまう。穏やかな、心地のいいひと時。
こうやって恋は始まるんだなあ。
「そういえば、話って?」
「ああ、橋本さんに最初に言いたくて」
「うん」
「今回の案件がうまくいったから、引き続き俺が担当することになって」
「そうなんだ。おめでとう」
「それでアメリカに行くことになったんだ」
「うん?」
「ほら、ずっと前から海外希望出してたって言ってたでしょ?」
「……うん」
「デイヴの推薦もあってね」
デイヴ! なんてことしてくれるの、デイヴ!!
「急だけど4月から行くよ」
「すぐなんだね」
「まあ、しばらくは出張っていう形で行き来するんだけどね」
「うん」
「橋本さんのお陰で、夢が叶ったよ。ありがとう」
「どういたしまして……」
どうしてこうなるんだろう。
お礼だからって宮沢くんが奢ってくれたランチは全然味がしなかった。
・・・
その後、何も言えないまま、日にちが過ぎ――宮沢くんが出発する日になってしまった。
土曜日だというのに、空港には木下くん、香山くんと純ちゃん、恭子ちゃんと私が見送りに来ていた。もちろん木下くんの発案で。
「わざわざ来なくてもいいのに」
出発手続きを終えた宮沢くんがそう言う。それに対して、すでに木下くんは涙ぐんでいる。
「なあに言ってんだよ親友。壮行会だって……もっとしっかりやりたかったんだから、な」
「いいよ、もう。ありがとな」
ひとりひとりに挨拶していく宮沢くん。私の番がやってくる。
泣きそう。
「橋本さんも、涙もろいよね。」
「……花粉症だよ」
「うそ。花粉症じゃないって知ってるよ」
止めてよ。そんな優しい声で。泣けてくるよ。
「木下が大げさなだけで、すぐ戻って来るって」
宮沢くんが耳元に顔を近づけてくる。
「そしたら、またランチ行こう?」
「どうしたら……」
「ん?」
「どうしたら、そんなイケボで話せるのぉ……」
「あはは、なにそれ」
イケボから始まった恋じゃない。恋したら、あなたのすべてが愛おしくなった。
やっぱり諦められないよ。だって好きなんだもん。
「約束だからね、宮沢くん」
「うん」
「いってらっしゃい」
とびきりの笑顔で宮沢くんが手を振って、保安検査場に向かっていく。
なぜか後ろから木下くんの
春の爽やかな空気の中――私は彼の背中が見えなくなるまで、涙を我慢してた。
「ああ、花粉症っていやだなあ」
……なんて誤魔化しながら。
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