VOICE#7 イケボは技術料に含まれていますか?
春一番。風が激しく吹き荒れる中。私、橋本みのりの心の中は限りなく穏やか。
なぜなら今日から恋ではなく、仕事に生きることにしたから。
――仕事頑張って勇者様の生配信にお返ししていく、そんな人生もいいじゃない。
「おはようございます、先輩」
恭子ちゃんが挨拶してくる。少し声が抑えめなのは、先週のデイヴの件だろう。初対面のアメリカ人がプロポーズしてくるという笑えないジョークをかまされて、哀れな先輩にどう接すればいいのか悩んでいるのが分かる。
「今日も素敵ですね」
「おはよう、恭子ちゃん」
恭子ちゃんのお世辞に笑顔を作ってみせる。今日の恰好に気合が入っているのは事実。春に合わせて買っていた淡いクリーム色のスーツを引っ張り出してきた。メイクもいつもより一段階濃いめに線をひいている。
だけれど、恭子ちゃんにはそれに触れる勇気はないらしい。
「なに、今日デート?」
そこでサクッと切り込んでくるのが入社以来の親友・純ちゃんだ。
「珍しいわね。はっきりしたメイクするの」
「気分転換にね」
「いいと思うわよ。大体、みんな地味すぎるのよ。もっと化粧を楽しめばいいのに」
純ちゃんは頷きながら、サクッと蹴落としてくる。
「でもみのりんには違うメイクの方が合いそうね」
んがっ。
歯に衣着せぬ友人の言葉に衝撃を受けながらも、なんとか持ちこたえる。
「自分が気に入っていればいいんだけどね。化粧なんて結局は、自己満足のツールなんだから。楽しければいいのよ」
まつエクをバシバシと上下させて話す純ちゃんの言葉に恭子ちゃんが反応する。
「意外……」
「私のメイク。男受け狙ってる濃いメイクだと思ってるでしょ?」
「えーそんなー」
肯定でしかない恭子ちゃんの受け答えに、純ちゃんは気を悪くした風もなく。
「その通りよ。香山くんの好みなの――というか、こういう濃いメイクが好みの男が私の好みってだけなんだけど」
純ちゃんは腕を組みながら、首を傾げる。サラサラの黒いショートボブが静かに揺れる。なぜか遠くを見つめながら、ため息を吐いている。
「世の中、男受け気にする女を敬遠しすぎよね。でも好きな男に好かれたくない女なんていないじゃない?」
「純ちゃん先輩、かっこいい」
「私が私でいるためよ」
「そっかあ」
「で、みのりんはデートなの?」
「ううん。私も自分のためなの」
そう、誰のためでもない。
「なんか、最近落ち込むことが多かったから、気分上げたいなって」
純ちゃんと恭子ちゃんが無言でお互いを見つめあう。あれ、引かれた?
「合コン! 合コンしましょ!!??」
「恋ですよ! 先輩、恋をしましょうよ!!」
二人がほぼ同時に迫ってきた。
「いや、私、しばらくそういうのは……」
「そういうこと言ってたら、気が付いたらババアよ!?」
「先輩、恋は人生のスパイス! 結婚は人生のお皿ですよ!?」
恭子ちゃん、それどういう格言?
「いや、でもね……しばらく仕事に専念したいっていうか……」
「恋人を作れって言ってるんじゃないの。いい女扱いされておきなさいってこと」
「お皿があれば、こぼさずに食べられるけど、さらに美味しくいただくにはスパイスが必要ってことです」
白熱してきた二人のベクトルがずれてきた気がする。朝っぱらから元気過ぎない?
「えっと、お気持ちはありがたいんですけれど……」
「「とにかく黙って、スケジュール空けてて!」ください!」
「……はい」
・・・
純ちゃんの言う通りなんだろうか。それに恭子ちゃんの考え方も分かる。
でも恋とかそういうの、しばらく本当に要らないのよね。
「宮沢くん、ここの資料なんですけど」
「はい。ああ……さっき見ました。いい感じなんで全体的に橋本さんに頼んでもいいですか? その代わり、その……アメリカ側との交渉、俺やるんで」
「え! いいんですか?」
最終プレゼンに使う資料は、最重要事項だ。それを私に任せてくれるって?
「頑張ります!」
「よろしくお願いします」
仕事で評価されるって、やっぱ最高。
この時、私は浮かれすぎてて、宮沢くんの笑顔を完全に見逃していた。
・・・
連日、宮沢くんとの会議で資料を詰めて、ついに明日が最終プレゼンとなった。
一課の猿渡課長からもGOが出たし、気合を入れるべく、仕事帰りに美容室に寄る。そういえば……自分磨きに時間をたっぷり使うのって久しぶりかも。今日なら、一段階高いヘアケアだって、恐ろしい値段の髪用の化粧水だって勧められたら買っちゃうかもしれない。
「温度はいかがですか?」
囁かれる。首の辺りが一瞬くすぐったくなる。
「大丈夫です」
「お
ダメだ。シャワーの温度のように適温のイケボ。汚れを流してくれる声。
最終プレゼン前に、と美容室に来たら、シャンプーしてくれた人が好みのイケボ。これは悪魔の所業なのかしら。
――でも、負けない! 負けないぞ、悪魔め!
「あの、すみません!」
「はい?」
「シャンプー、女性の方に代わってもらってもいいですか?」
「あ、はい……」
私を惑わすようなイケボはすべて回避してやる。そしたら、心は惑わない。
私は――もう迷わない。
私は仕事に生きるんだから!
・・・
最終プレゼン。
今日はイノクチ製作所に海外展開の体制について説明していた。アメリカの営業所からすでに取引を検討してくれる会社を何件か候補にあげてもらっている。外国籍のスタッフが参加することで、言語面の不安をなくし、
さらにイノクチ製作所の作る精密部品。数は量産できないものの、手作業だからこそのオーダーメイドには少なからず需要がある――と宮沢くんと詰めていた内容を資料を交えて説明していく。
……アメリカ営業所とのやり取りは宮沢くんに任せたけれど、資料作りは私が担当した。
「――ご提案は、以上となります」
資料作りを頑張ったのは橋本さんだから、と宮沢くんが最終プレゼンを私に任せてくれた時、正直、井口社長は不満げな表情を浮かべていたけれど……説明終了時には笑顔を見せてくれていた。
「ありがとう、橋本さん。とても分かりやすかったわ」
「ありがとうございます!」
終始私を空気扱いしてくる社長が初めて私の名前を呼んでくれた。
嬉しくて、お辞儀をしたけれど、顔を上げた時には私は再び空気だった。
「では、宮沢さん。これでお話進めてくださる?」
そう言って、井口社長は宮沢くんの手を握る。
「お任せください」
宮沢くんは完璧な営業スマイル。対して幸せそうな満面の笑みを浮かべる井口社長。
――ははん、これが恋はスパイスってやつ?
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