VOICE#3 イケボ店員はコーヒーを淹れてくれますか?

 春は出会いと別れの季節。私、橋本みのりには今日新たな別れ――


「今までありがとう……」


 私のために毎日頑張って働いてくれたのに、別れは突然なのね。沈黙してしまったコーヒーマシンを撫でながら優しく語りかける。

「みのり! 忙しいのに、変な儀式しないでよ!」

「いや……昔の家電は叩いたら直ったけど、今時の家電は優しくしたら……」

「直らないわよ!」

「やっぱ無理かあ。仕方ない、下の階行ってくるわ」

「了解! 資料のコピー取っておくわね!」

 真面目な時は『みのり』呼びになる純ちゃん。安心して後を任せて、私は非常扉を押し開けて階段を下りて行った。下の階は総務部と人事と広報と……。

「マジで~!? 俺も俺も~奇遇~」

 分厚い扉越しにも伝わるこの軽い空気。

「広報木下……」

 あの魔の合コンから数日、階違いをいいことに接触を極力避けてきた相手がそこにいる。私は静かに上の階に戻って、エレベータに乗った。


「コーヒーはお店で淹れたものに限るわよね」

 ビルの一階に入っているコーヒーショップは交通系電子マネーで決済できたはず。首から下げたネームプレートにICカードが入っているのを確認する。

「いらっしゃいませ」

 ……ざわ?

「お持ち帰りですか?」

 ざわざわ……?

「今日はいい天気だからテラス席も気持ちいいですよ」

 飛び切りの笑顔でそう言って、店員さんがメニューを差し出してきた。光が満ち溢れ、浄化されるような爽やかな声。低くもなく、かといって高すぎることもなく。ただ澄み渡る太陽光のような美声。否、イケボ。イケボ天使が舞い降りたのだ。

「神様」

 そういうことですか。哀れな子羊に天からの御使いを!?


「持ち帰りで」

 極力心のざわつきを悟られないように、余裕のある女風に答える。大丈夫、落ち着け。私、落ち着け。フツーにしてたらOKって純ちゃんも言ってた。

「ちょっと量が多いんですけど、ブレンド8つ、すべてスモールサイズで」

「かしこまりました!」

「さわ……!」

 やか……! 手の震えを抑えながら、ネームプレートを引っ張り、決済を終える。


 すーはー。


 なるべく自然な笑顔を崩さないように、静かに呼吸をする。大丈夫。

 あとは、大人の余裕を見せつけて品物を受け取るだけだ。第一印象は大事。仕事をしろ、営業で培われた私の表情筋!


「お待たせしました!」

「ありがとうございます」

 両手で袋を受け取ろうとしたら、店員さんが耳元に顔を近づけて来た。


「おまけ、入れておきました」

 しーっ、なんて言って、彼はウィンクした。

 袋の中に小さなお菓子を見つけて震えが止まらない。私、笑えてた?


「お次にお待ちのお客様、お待たせしましたー。レモンティーです」

 彼は爽やかに次の客の対応に戻って行った。

「あ」

 そこには、レモンティーを手にした営業スマイル欠如の宮沢くん。

「みのりちゃ~ん」

 と、おぞましき木下。

「お疲れ様です」

 とびきりの営業スマイルだ、食らえ。

「みのりちゃん、クールビューティー」

 そそくさと退場する私の背後で、木下は訳のわからないことを言っている。

「いいねー……にしても、宮沢、いつもそれなー」

「コーヒー苦手なんだよ」

「それじゃあ、コーヒーマシン壊れても壊れなくても関係ねーじゃん」

「……お前は自分の階のコーヒー飲めよ」


 くそぅ。爽やかな香りと光に包まれた最高のひと時が、一気に汚されてしまった。会議会議。今日は重要な会議だ。気持ちを切り替えよう。


 それから、『壊れたコーヒーマシンのせい』で会議用のコーヒーを買いに行くことが私の日課となった。


「今日も素敵ですね」


「会えてうれしいです!」


「みのりさん、ブレンドですよね」


 ついに名前を憶えてもらうまでになった。もう勝ち確ですか? でも焦りは禁物。

 春の訪れとともにやって来た恋心を大切に育てないと。


「みのり!」


 吹き抜けのホールに響く声。強引に現実へと引き戻され、思わず顔をしかめる。純ちゃんだ。ばっちりメイクなのに、血の気が引いているのが分かる。

「ごめん、早く戻って欲しいの!」

「なに? コーヒーなら……」

「コーヒーじゃなくて、先方がドタキャンしてきたの!」

 

 暗雲。

 フロアに戻ると、営業二課は電話対応に追われた人と走り回る人で騒がしい。

「……これ?」

 エレベータの中で純ちゃんから大体の経緯いきさつを聞いた。問題の段ボールが山積みになっていた。なぜか間違ったパンフレットが出来上がり、先方が怒って取引中止だと言ってきたのだ。純ちゃんの顔は相変わらず青白い。

「発注した時には問題なかったはずなのに……」

「まあ、そこは後で考えよう。まずはパンフレットだよ。先方も今から新しいパンフの発注はできないはずだし……課長が謝罪しに行ってくれてるうちに何とかしよう」

 今日は金曜日……私に唯一の癒しをくれるゲーム実況者のの生配信日だ。……いや、今はもう一人癒しをくれる人がいるじゃないか。コーヒーショップの袋を握る。極上の癒しボイスを糧に頑張ろう!

「幸い、今日は金曜日だし! 今日中に該当箇所だけ修正すれば日曜日のイベントには間に合うよ」


 そして修正箇所を修正液で塗りつぶしていくというアナログな作業は、通常業務と並行しながら続き――ついには日付を跨いだ。

 脳内再生し続けた「いつもありがとう」の声も掠れてきた気がする。ついには癒しの効果も薄れてきたか……修正液も足りない。備品庫に行かないと。みんな疲労が見えてきている。


 ――もし、これだけやって、間に合わなかったら?


 どすっ。

 脳裏を過った不安を潰すように、小さな箱が目の前に置かれた。中には、修正液が大量に入っている。

「お疲れ――」

「お疲れ様~! みのりちゃ~ん、救世主だよ!」

 箱を手にした宮沢くんの声を遮り、背後から元気な声で広報木下が現れた。

「宮沢から聞いたよ。俺とみのりちゃんの仲なんだから、手伝わせてよ~」

「……ありがとうございます」

 疲労で突っ込めない。だけど、彼のエアリーな発言が今の営業二課の空気を軽くしたのは確かだった。今までごめんなさい、木下くん。


 思いがけない有志のお陰で作業は思ったより早く進んだ。


「お疲れさまでしたー!!」

「朝日が眩しいー!!」

「宅配手配してきます!」


 徹夜でくたくたの身体をぐいっと伸ばしてから、息を吐いて席を立つ。助っ人たちのもとへ向かう。彼らも机に突っ伏してしまっている。

「本当に、ありがとうございました」

「みのりちゃん、お疲れ様~」

「木下くんも」

「……へ~、みのりちゃんってそうやって笑うんだ」

「え?」

 どんな顔してた? 徹夜明けでヤバかった?

「あ、皆さん、もう少しいます? お礼に夜明けのコーヒーでも」


 土曜日でも一階のコーヒーショップが早朝から開いているのはリサーチ済みだ。

 爽やか店員さんがいるとは思わないけれど……。


「おはようございます!」


 神様! ご褒美ありがとうございます!!


「なんだか、昨日大変そうでしたけど、大丈夫でした?」

「大丈夫でした。心配させてしまって……」

「そうなんですね。よかったです」

 なんて癒し。朝からこんな癒しボイスが聞けるなら徹夜も悪くない。

「実は――みのりさんに伝えたかったことがあって」

「え?」

「今日会えなかったらどうしようかと思ってたんです」

「ええ?」

「みのりさん」

 まっすぐな瞳が私を捉える。しまった、ちゃんと化粧を直して来るべきだった。油断してしまっていた……こんなのずるい。

「僕……」


 こんなの……。


「今日、ここ辞めるんです」


 なんだって?


「実はずっと自分探しの旅で世界を周ろうって思ってて、バイトで資金貯まったんで来週飛びます!みのりさんとか、馴染みのお客様にはちゃんと挨拶しておきたくて」

「うん?」

「いや~本当、最後に会えてよかったです!」


 天使は笑顔で飛び立つのか――こんなのって……ある!?


「今まで、ありがとうございました!」


 ・・・


「みのりん、みのり~ん?」

 純ちゃんが目の前にいる。徹夜明けでもメイクが崩れていない。さすがだ。

「大丈夫? コーヒー買いに行ったのよね? なにかあった?」

「純ちゃん……はい、どうぞ。コーヒーです」

「あ、ありがとう」

「香川くん……恭子ちゃん、コーヒー。宮沢くん、どうぞ。木下くんどうぞ。」

「ありがと~」

 木下くんが自然に手を重ねてきたが、もうどうでもいい。好きにしてくれ。

「みのりちゃん、マジ大丈夫? あ、そういえば来週新しいコーヒーマシン来るらしいから。元気出してね?」

「ありがとうございます……」

 人がしんみりしているのに、木下くんが空気を読まない。

「あれ~? 宮沢だけ、レモンティー?」

「ええ……コーヒー苦手でしたよね?」

「え~贔屓~。俺もビール!」

「あはは、私も飲みたいですよ、それ」

「え、行っちゃう?」

「電車動いてるんで帰ります」

「え~いけず~」

 大きく揺れる木下くんの背後で宮沢くんが何か言っている。

「……っす」

 ん? 宮沢くんが笑った? 気のせいかな。うん。気のせい。

「じゃあ今度さ~」

 しつこいぞ、木下くん。食らえ、徹夜明けの営業スマイルだ。


 はあ……春は別れと出会いの季節。

 私の恋は旅立ち、新たなコーヒーマシンとともに、日常は無機質になる。


 ああ――無常。

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