第8章 Samstag

 翌日は、午前七時頃に起きて、二人は海に向かった。


 エアデは、今まで一度も海に行ったことがなかった。だから、海という存在は知っていたが、それがどんなものか、上手く想像することができなかった。大量の水で満たされた場所らしいが、そんなに多くの水が一つの場所に集まっている光景など、スケールが大きすぎて思い浮かべることができなかった。


 例によって、今日もまた、ゾネに現地まで運んでもらった。ゾネの翼はもう完全に治っていた。先の戦いで一部体力を消耗していたが、この数十時間の内に治癒が進んだとのことだ。話によると、彼女の体力は単純な休息では回復しないらしい。もちろん、それでも多少の回復には繋がるが、より効率良く治癒を進めるためには、自然と触れ合うことが重要だとのことだった。だから、昨日山に行ったのには、そういう意味もあるのかもしれないと、エアデは思っておくことにした。


「どれくらい、かかるんだ?」


 ゾネと手を繋いで空を飛びながら、エアデは彼女に尋ねた。前方から来る空気に押されて、彼は目を開いているのが大変だった。


「昨日より、少し長くなると思います」ゾネは答えた。「疲れたら、眠ってもらっても構いませんよ」


「いや、眠るって……。……こんな中、意識を失ったら、どうなるか分かったものじゃないよ」


「私が、抱えています」ゾネは何ともないような口調で言った。「絶対に離さないので、安心して下さい」


 別に眠いわけでもなかったので、エアデは彼女の申し出を断った。それ以前に、空を飛んでいる状況下で眠るというのは、単純に怖かった。


 昨日行った山を越えて、二人はさらにその先へと進んだ。そちらの方は、エアデが住んでいる辺りとは打って変わって、立ち並ぶ家は古びたものばかりだった。一軒家が基本で、彼が住んでいるマンションのような巨大な建造物は、そうそう見つからない。


 この国の中でも、地域によって様々な違いがある。規模を大きくして、この星の中で比べたら、もっと大きな差が見えてくるに違いないと、エアデは思った。


 間もなく海が見えてきた。


 それを目にしたとき、エアデは思わず息を飲んだ。


 空と同じように真っ暗な水面が、どこまでも果てしなく広がっていた。それは完全な平面ではなく、至る所で瞬間的に起伏が生まれている。水面に終わりはなく、本当にこの世界の果てまで続いているように思えるほど、水の集合は巨大で圧倒的だった。


 高度が下がるに連れて、流れる水の音が聞こえてくるのが分かった。最初の内は、それが水の音だとは分からなかった。それほど力強く、けれどどこか繊細な、自然のみが生み出すことを許された、極めて神秘的な旋律だった。


 水面の手前には、砂だけで形成された地面が広がっている。海の底も同じようになっているのだと、ゾネが教えてくれた。砂の地面は弧を描くように先へと続いており、こちらも果てを見ることはできなかった。


 すべてがスケールを外れていて、エアデは何も言えなかった。想像しようとしてもできない理由が、分かったような気がした。


 ゾネに手を引かれて、エアデは砂浜に着地する。足が少し埋まり、速度を落とすために暫く歩かなくてはならなかったが、途中で躓きそうになり、転びそうになりながら必死に足を動かした。


 速度を落とし、二人は立ち止まる。


 ゾネと手を繋いだまま、エアデは、目の前に広がる光景を、じっと眺めた。


「これが、海です」ゾネが言った。「生命が誕生した場所とも言われています」


 真っ黒な水面は、こちらに迫り、そうかと思うと、また引き返していく。


「この水は、月に引っ張られているのです」ゾネが説明してくれた。「……かつては、海の水は、これほど大きくは動きませんでした。月の勢力が拡大したことで、波の動く幅が大きくなったのです」


 比較する対象がなかったから、その動きが昔と比べてどれほど大きいのか、エアデには分からなかった。そんなことはどうでも良くて、彼が抱いた感想はただ一つだった。


「凄い……」


 思いついたことを、彼はそのまま口にする。彼が口にしたその言葉は、波の音に掻き消されて、すぐにどこかへと消えていった。


「かつては、空がそうであったように、この海も青い色をしていました」


 正面に釘づけになっていた目をなんとか横に動かして、エアデはゾネを見る。


「青いなんて、想像がつかない」


 エアデの言葉を聞いて、ゾネは笑った。


「晴れている日は、とても綺麗でした」彼女は話す。「晴れているという言葉の意味は、今とは異なります。太陽が出ていて、雲が少ない状態を、そう呼んだのです。朝になると、必ず水面の向こうから、太陽が顔を出すのです。そして、真っ黒な空を端の方から徐々に赤く染めていくのです」


 エアデには、ゾネの説明の一割も理解できなかったが、それが素晴らしい光景であろうことは、なんとなく想像できた。


「ゾネは、そのとき、どういう気持ちでこの水面を眺めるんだ?」


 エアデの質問を受けて、ゾネは声を出して笑った。


「私は視点が異なるので、そういうふうには見えませんよ」彼女は言った。「私は、常に全体を見ています。水面の端から太陽が顔を出すように見えるのは、この星が回っているからです」


 何もかもが新鮮だった。まるで別の星に来たように、エアデには思えた。


 傍にあった岩の上に腰をかけて、暫くの間、二人は眼前に広がる水面を眺めていた。今は陸から海の方へ向けて風が吹いている。背後から吹きつける風は冷たくて、何ともいえない匂いを含んでいた。


 ずっと正面を向いていた顔を横に向けて、エアデはゾネの顔を見る。


 彼の素振りに気がついて、彼女も彼の方を見た。


「どうかしましたか?」少しだけ首を傾げて、ゾネはエアデに質問する。


「練習、しなくていいのか?」エアデは尋ねた。


 ゾネは彼から顔を背ける。また正面に向き直って、無表情で呟いた。


「今は、まだいいです」


「もう少ししたら、やるのか?」


 ゾネは答えない。


 エアデも正面に向き直り、沈黙した。


 波の音が常時聞こえている。月に引っ張られて発生する音だ。その意味が、エアデにはよく分からなかった。宇宙のことはほとんど知らない。知識はあるが、御伽噺のようなものだと思っていた。たとえ本物の海を目の当たりにしても、それが宇宙まで繋がっていることまでは、彼の頭では思い至らない。


「本当は、練習なんて、どうでもよかったんです」


 唐突にゾネが呟いたから、エアデはまたそちらを向いた。


「ここに、来たかっただけなんです」


 エアデは彼女に尋ねる。


「どうして?」


「うーん、どうしてでしょう」エアデを見て、ゾネははにかんだ。「ただ、来たいと思っただけだから、どうしてと訊かれても、困ってしまいます」


「明かりを灯せられるようになるためには、自然に触れることが、大事だからじゃないのか?」


「もちろん、それもあります。でも、それはたぶん、本当の理由ではありません」


 沈黙。


 波の音。


 風の音。


 静かな音。


 星が、生きている証拠。


「ありがとう」エアデは言った。「ここに、連れてきてくれて。いや、今日だけじゃなくて、昨日も」


「いいえ」ゾネは笑顔で首を振る。「私の我儘に付き合ってもらったんです。お礼を言うのは、私の方です」


 エアデも少し笑いかける。


「練習、してもいいか?」


「明かりを灯す、ですか?」


「そう」エアデは頷いた。「まだ、あまりやったことがないんだ。だから、不安がある」


「どうぞ。では、やってみて下さい」


 ゾネにそう言われて、エアデは人差し指を立てる。一度目を閉じて、口を開け、言葉を呟くと、指の先に小さな明かりが灯った。それは蝋燭に灯る炎のように、風に揺られて煌めいている。風に吹かれて今にも消えそうな、しかし決して消えることのない、幻想的な明かりだった。


「もう、いつでも、できますか?」


 ゾネに問われ、エアデは首を傾げる。


「それは、分からないけど……」彼は言った。「……まあ、でも、できないかもしれないと不安になることは、そんなになくなった気がする」


 ゾネは微笑んだ。


 かつてできなかったことができるようになると、反対に、今までできなかったことが不思議に思えてくる。一度できるようになれば、その感覚が自分の内に留まって、いつでも力を発揮できるようになる。


 きっと、その感覚が失われるのは、自分の生命が終わるときだと、エアデは思った。それまで明かりは灯り続ける。いや、それはもともと彼の中にあったのだ。ただ見ることができなかっただけだ。そして、見せることもできなかった。やっとゾネにそれを示すことができるようになった。


 彼の指の先に灯る小さな明かりを、ゾネはじっと見つめている。今は、彼女は笑っていない。真剣な表情ではないが、意識を集中させて、観察するように、その様を眺めている。明かりに焦点を合わせていた目を、その向こうにいるゾネに向けて、エアデはそんな彼女の顔を確認した。彼女に見られることに抵抗はなかった。たとえその明かりが彼女が求めていたものより弱くても、それならそれで良いと、それでも彼女に見てもらいたいと思った。


 明かりは、この星に住む生き物の、すべての内に宿っている。人間は、それを具現化して利用する方法を手に入れた。でも、それは無限ではない。自身の生命を削って、明かりへと変換しているにすぎない。その術を与えたのは、創造主であるゾネだ。きっと、そうなる前は……。


「ゾネが、自分の生命を削って、僕たちを照らしてくれていたんだな」


 エアデの呟きを聞いて、明かりの向こう側に見えるゾネの顔が、少しだけ笑った。


「ええ、そうです」


「そして、この戦いに勝ったら、また、その役目に就こうと、考えているんだな」


 ゾネはもう一度頷く。


「その通りです」


「このままじゃ、駄目なのか?」


 エアデの問いに、ゾネは首を振って答える。


「私は、嫌です」


「でも、そうしたら、いつか、ゾネ自身が終わりを迎える日が、来るんじゃないのか?」


「もちろん、そうなるでしょう。でも、それはこの星に定められ運命です。いつかはそうなります。けれど、それはずっと先のことです。今を生きる生命が、その寿命を削って生きる必要などないのです。その役目を担うのはもとより私なのですから」


「それでいいのか?」


 ゾネはすぐに頷いた。


「いいんです。……言ったはずです。私には、本来定まった姿などないと」


 ゾネがそう言うのだから、それで良いのだとエアデは思った。そうすることが、ゾネにとって一番なのだろうと思ったからだ。彼自身も、気持ちの中ではゾネと別れることを惜しんでいた。寂しさも感じた。でも、それは最初から分かっていたことだ。意識したことはなかったが、いつかはこうなる未来を、なんとなく予想していたような気がする。


 突然、背後から眩しい光に照らされた。振り返ると、塔のような建物が一筋の光を海の向こうに放っていた。その光は回転して、周期的に海の方を向くようになっている。あれは何かと尋ねると、ゾネが灯台と呼ばれるものだと教えてくれた。海を航行する船に、方角や目的地を知らせるためのものらしい。


 真っ暗な海と空に向けて照らされる光は強烈で、エアデはすぐにそちらから顔を背けた。前方に広がる真っ黒な水面に、強い光が何度も投影される。光そのものが影であるかのように、黒い水面に幾度となく白い線状模様が映し出された。


 こんなに暗い水面を走る船があるのかと思うと、エアデは怖くなった。目の前に広がる水は神秘的だが、それ故に近寄りがたい雰囲気を纏っている。そこに入ったら二度と戻ってこられないような、そんな底知れぬ不安を感じるのだ。その上に船を浮かべて、何日もかけて旅をする人がいるのだと想像すると、人間にも色々なタイプがあるのだと思った。彼は絶対にそんなことをしようとは思わない。ただ、ゾネの力を借りて、空を飛んでここまで来た体験は、恐ろしくもあったが、スリリングでもあったから、やってみると案外面白いのかもしれないという気が、まったくしないわけでもなかった。


 動物には恐怖から離れようとする習性があるが、人間は自ら恐怖を求めることがある。失敗すると分かっていても、何かにチャレンジしてみたくなる。必ずしも利益ばかりを求めるわけではないということだ。いや、そうしたリスクを利益と捉えているとも考えられる。そういう意味では、人間は死を望んでいるともいえる。正確には、死そのものを望んでいるのではなく、死に至るプロセスを望んでいるというべきだが、いずれにせよ、自ら死へと近づくようなことは、ほかの動物はしない。するとしても、それは次世代へと遺伝子を繋ぐ場合くらいだ。それは生物に与えられた最優先事項だから、自らのために死へと近づいているのではない。


「ゾネは、怖いことをしたいと思うことはあるか?」


 背後からは絶えず灯台の明かりが二人を照らしている。真っ黒な水面と、真っ白な軌跡を眺めながら、エアデは彼女にそう尋ねた。


「怖いこと、ですか?」


「何か、スリルを味わいたいとか」


「そうですね……。……私は、あまりないかもしれません」


 ゾネはエアデを見て、薄く笑った。


「海が、怖いですか?」


 考えていたことをそのまま指摘されたから、エアデは驚いた。


「いや、そういうわけじゃないけど……」彼は言い訳をする。「……自分から、入ってみたいとは思わないな」


「海は、こんなふうに真っ暗ではなくても、太古から怖がられる存在でした」ゾネは話した。「海は様々な災厄を齎します。ときには、荒れ狂い、人里を丸ごと飲み込むこともあります。また、大雨を降らす原因でもあります。けれど、海に住む生き物も沢山いますし、生命は海から発生したと言われています」


「水が押し寄せてくるのも怖いけど……」エアデは意見を述べる。「……それ以外にも、何か別の怖さを感じるんだ。なんか、大きすぎるというか……」


「空を見ても、同じように感じることがありませんか?」


 ゾネに問われて、エアデは顔を上げる。たしかに、そんなふうに感じることもあるように思えた。


「あるかもしれない」


「それは、自然に対する畏怖です」ゾネは言った。「空や海と比べて、あまりにも自分が小さすぎることを意識すると感じる、不安ですね」


「なんで、そんなふうに感じるんだ?」


「さあ、なんででしょうか……」


「ゾネにも、分からないのか?」


「私は、どちらかというと、恐怖を与える側ですから」


 エアデはもう一度空を見る。


 そこには、かつて太陽と呼ばれる、大きな恒星があったと言われている。


 彼はその光景を想像しようとする。


 しかし、上手く想像できなかった。


 けれど、それも、なんとなく怖いように思える。


 自分より遥かに大きな星が、頭の上にある。


 もしそれを目にしたら、それが何なのか分からなくても、怖くなるに違いない。


 きっと、自分たちの力では、どうしても対抗することができないからだ。


 もし、その星がこの大地に落ちてきたりしたら……。


「自然は、生き物がただ一つ抗えないものです」ゾネは前を向いて話した。「人間がどれほど技術を発展させても、自然に対抗することはできません。それは、その技術というものが、自然の中で成立するものだからです。人間が作った建物は、自然に存在する物質を基にして作られていますし、人間の身体を構成するのも、同様に物質です。先に世界があり、そして、そこから生命が生まれ、長い進化を経て人間へと至った。それが貴方たちです。だから、人間は世界、つまり自然に対抗することはできません。人間は世界の中にあり、世界の外にはないのです。新しい世界を作り出すこともできない。たとえ別の世界を作り出したとしても、それは基の世界の上、もしくは中に存在する。宇宙が無限に広がると言われる所以は、それです。実際に、宇宙が無限に広がると観測されたわけではありません。人間の脳で世界の在り方を処理しようとする際に、そういうふうに認識しないと辻褄が合わなくなってしまうのです。それは、人間がこの世界の中にあるからです。異なる次元に存在するもの同士が、互いに干渉し合うことはできません。この世界の中にいる人間には、その外に干渉することはできない。そもそも、外側があるかどうかさえ分かりません。仮にあったとしても、それを認識することはできません。そういうふうに定められているからです」


 ゾネの言葉に、エアデは耳を傾けていた。できる限り理解しようと努めたが、理解できたとは言いがたかった。


「じゃあ、ゾネはどこにいるんだ?」


 エアデの問いを想定していたように、ゾネは答える。


「だからこそ、私には定まった形がないのです。形を持たなければいい。如何なる形も持たなければ、そもそも、干渉するという行為自体が、成立しえないからです」


「……どういう意味だ?」


「もとより、ゼロだということです」


 ゾネの口調が、ヴェルト・アルのそれに似ていると、エアデはなんとなく思った。ゾネはもとから明晰な話し方をするが、そこにはどこか人間味があった。ヴェルト・アルは機械だから、おそらく規則に則って話していた。だから、なんとなく丁寧すぎる感じがした。今のゾネには、それに近いものが感じられた。


「結局のところ、僕たちはどうなるんだ?」


 一番知りたいことを、エアデは口にする。


 彼の問いを受けて、ゾネは笑顔で答えた。


「そのまま、ここに存在し続けます」


「ゾネが消えるまで、か?」


「理論的にはそうです」


 エアデは顔を正面に戻す。


 何か、大きなものを目の当たりにしているような気がした。ゾネに会ったり、明かりを灯せられるようになったりと、今まで経験したことのないことに次々直面してきたが、彼が今抱いている感覚は、それを優に超えるものだった。


 ゾネが言っていることは、単なる一つの考え方でしかないかもしれない。信じるのも、信じないのも、個人の自由だ。けれどエアデは、彼女の言っていることがなんとなく分かるような気がした。でも、それを明確に言葉で説明することはできない。しようとした途端に、それはどこかへと消えてしまう。言葉にしない間だけ、それは自分の内側に確かに存在する。いや、言葉にしたからといって、それが完全に消えてしまうわけではないのだろう。そうやって言葉にしたとき、その感覚は自分の内から消えてしまうが、相手に伝わって、共有されたときに、また再構築される。そうやって伝わっていく。だから、その感覚を抱いているのが自分だけではないと、理解することが可能になる。


「ゾネは今、どんなふうに、僕のことを見ているんだ?」


 エアデはゾネを見る。彼女も彼を見た。


「貴方と、同じように」


「でも、違うんじゃないのか?」


「一つ一つは違っても、すべては同じです」


「そうやって見るように、ゾネが定めたからか?」


「私が決めた部分と、そうでない部分があります」彼女は言った。「最初から決まっていた部分も、少なからずあります」


「ゾネは、どこにいるんだ?」


「今、貴方の隣に」


「それは、本当にゾネなのか?」


「貴方にとってはそうです」


「ゾネにとっては?」


「私にとっての私は、貴方が見るのと同じ位置にはいません」


「ゾネにとっての僕は、どこにいるんだ?」


「私にとっての貴方は、私の中にいます」


「僕は、本当のゾネと触れ合うことはできないのか?」


「できるかもしれないし、できないかもしれません」


「ゾネは、どこにいるんだ?」


「貴方の中にならどこにでも」


 砂浜を歩くことにした。


 慣れない感覚で、エアデは歩くのが大変だった。しゃがんで砂を手に取ってみると、それが単なる石の破片だけで作られているのではないことが分かった。硝子のように輝いているものや、塩のように脆い分子でできているもの、それに、何かの生き物の一部だと思われるものなど、様々な粒子が含まれている。


 途中で、砕けずに形が残った、貝の殻を見つけた。昔本で読んだことがあったから、エアデはそれが貝だと分かった。


 典型的な巻き貝だった。中に砂が入っていたから、軽く振ってそれを出す。本に書いてあったように、それを耳に当ててみたが、何が聞こえているのか分からなくて、エアデはすぐに外してしまった。


「波の音が、聞こえませんか?」


 ゾネに問われ、もう一度耳に当ててみる。けれど、やはりよく分からなかった。


「僕には、分からない」


 それをゾネに渡し、エアデは彼女に試してみるように促す。貝殻を受け取ると、ゾネはそれを耳に当てて、静かに目を閉じた。


 彼女のそんな様子を見ているエアデには、波の音がよく聞こえた。


 貝殻の影響だともいえなくはないが、どうして、外しているときに限ってよく聞こえるのだろうと、彼は不思議に思った。


「聞こえる?」エアデはゾネに問う。


「波の音が、篭って、聞こえるような気はします」目を閉じたまま、ゾネは答えた。「まるで、貝殻の中に海があるようです」


 灯台の明かりは、もう消えていた。エネルギーの消費を抑えるために、船が近郊を通るときだけ、灯るようになっているみたいだ。


 先へと進み続けて、砂浜の端に辿り着いた。


 すぐ傍に、黒味がかかった岩石が切り落とされてできた、高い崖があった。ゾネにその上に行ってみないかと誘われたが、海を高い所から見るのが怖いような気がして、エアデは断った。


「戦う準備は、できていますか?」


 砂浜の端に立って、海を眺めながらゾネが訊いた。


 エアデは頷く。


「君は?」そして、彼も尋ねた。


「私は、いつでも」


 波の音。


 風の音。


 静かな音。


「ゾネ」エアデは言った。「戦いが終わったら、また、一緒にここに来てくれると、約束してくれないか?」


 ゾネは無表情でエアデの方を振り向いた。


 エアデは、彼女をじっと見つめる。


 暫くの間反応を返さなかったが、やがてゾネは時間をかけて微笑んだ。


「分かりました」彼女は告げる。「約束します」


 それが果たされない約束であることは、エアデにも分かっていた。自分勝手なことを言ってしまったと、少し後悔したが、それでも良いと思った。


 小さな約束だったが、それがあるだけで、そのために頑張れると思った。


 目的を、先延ばしにしたのだ。


 ゾネが望んだのは、きっとそういうことなのだろうと、エアデは思うことにした。


 それが、彼なりの一人の人間としての生き方だった。

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