第7章 Freitag
木。草。土。
山に切り開かれた小道をゆっくりと進む。見渡す限り緑。しかし、照度が足りないせいか、色は微妙に黒味がかって見える。
小鳥の囀りが聞こえた。動物の気配がすぐ傍にあるが、姿は見えない。川のせせらぎがずっと耳を擽っている。歩く度に、足の裏に土の感触。柔らかくも、固くもない、不思議な感覚。
エアデは立ち止まり、ふと後ろを振り返る。さっきからゾネは妙にゆっくりと歩いていた。彼の素振りを見て、ゾネは薄く笑う。手を組んだまま、彼女はゆったりとしたテンポで、一歩ずつ足を前へと進める。
空気は街と比べれば澄んでいた。そして、冷たかった。
「自然の恵みは、今では薄れてしまいましたが、かつて、この星の大地は、このような緑に覆われていました」
すぐ近くまで来てゾネが話す。
「自然がなくなったのは、人間が科学を発展させたからか?」エアデは尋ねた。
「もちろん、そういう解釈もできます」ゾネは頷き、話を続ける。「けれど、それだけではありません。いえ……。人間がそうした環境を作り出したことは、仕方のないことだったのです。人間も一つの動物です。そして、動物は自然の一部です。だから、人間の行動も自然の産物です。自然と人工の間に、明確な線引きはありません」
「人間が作り出した環境も、自然だって言いたいのか?」
「ええ、そうです」
「ゾネは、それを認めるのか?」
「認める、認めないの問題ではありません」エアデを見つめて、ゾネは話す。「そう解釈しないと、人間という動物の位置づけが、困難になるということです」
山は静かだった。それが、エアデが最初に受けた印象だ。でも、音が何もしないわけではない。音は確かにする。けれど、それは静かな音だ。街で生活していると聞こえるような、何のものか分からない金属音とは違う。だから、そこに自然と人工の線引きがあるように、エアデには思えてしまう。
空を飛んできたから、山にはすぐに着いた。ゾネの翼は、もう大分治ったようで、彼女に導かれて、エアデは風になったような気分で、ここへやって来た。
ゾネはエアデの隣に並んで歩く。
そんな彼女の横顔を彼は見つめる。
視線を感じて、持ち上げられる瞼。
緑色の瞳が彼を捉える。
目が合う。
緊張も、恥じらいも、そこにはなかった。
それが、二人の距離感として安定していた。
「どうかされましたか?」
エアデの視線を受けて、ゾネは彼に尋ねる。
「いや……」彼は応えた。「なんだか、落ち着いているなと思って」
ゾネは、エアデが明かりを灯す練習をするために、ここに来たと言った。でも今は、ただ目的地もないまま歩き続けているだけだ。この山がどこまで続いているのか、エアデには分からなかった。ゾネも初めてきた場所だと言っていたから、特にゴールがあるわけではないのかもしれない。
「自然を肌で感じることも、練習の一環です」ゾネは言った。「学べることは沢山あります」
「たとえば?」
「そうですね……。……では、周囲に生えている木々の、一生を想像してみるというのはどうでしょう」
ゾネに言われ、エアデは辺りを見渡す。山は地面と植物の集合体だから、至る所に木は立っていた。
「同じ種類であっても、どれも形が異なります。あるものは枝が長く、あるものは幹が太い。また、あるものは葉を上へ向けているのに、あるものは横へ広げている。そこには何らかの原因があるはずです。そうした影響を受けた結果が、今彼らがとっている姿です。……そうやって、生命の在り方を考えることは、自身の生を考えることに繋がります」
ゾネの説明はいまいちぴんとこなかったが、エアデはそういうものだと思っておくことにした。
たしかに、植物は様々な形をとっている。異種間では当然だとしても、同じ種だと思われるものも、異なる形をとっていることがある。
それらを眺めている内に、エアデには、この山が人間の社会の縮図のように思えてきた。人間も色々な姿をとっている。そして、それは今まで生きてきた結果だ。山は麓から頂に向かって徐々に幅が狭まっていくから、麓にある木々は、工夫しないとそれより上にある木々に遮られて、上手く光を得ることができない。一方で、一番上にある木々は、何の工夫をしなくても自然と光を得ることができる。ただでさえ光が少ないこの星では、その傾向は顕著になる。
それが、人間社会にもいえることだと、彼は気がついたのだ。
自分はどの位置にいるのだろうと、エアデは考える。
きっと、麓と、頂の間の、どちらかというと低い方にいるのだと、彼は思った。
彼の生活は決して惨めなものではなかった。数年間、普通に生きていけるくらいには環境に恵まれていた。
ただ、欠けていたものがあった。
それはおそらく、彼自身による生きようとする意思だ。
山道を一端逸れて河原に出た。昨日訪れた川とは違って、まったく人の手が加えられていない、単純な数では表せない多面体が多く見られる場所だった。真っ暗な空の色を反射して、流れる水の表面には微妙に明暗が生じている。街にある川と光り方が違うから、水が異様に綺麗なことが分かった。
エアデは水際にしゃがみ込み、川の水に掌を浸す。手が水流の圧力に押されたとき、人差し指が敏感に冷たさを感じて、彼は一瞬手を引っ込めかけた。
彼の隣にゾネも座る。
「ゾネは、川や、海を、知っているんだな」
エアデがそう言うと、ゾネは頷いた。
「よく、知っています」
「それはそうか。……創造主だもんな」
「でも、何でも知っているわけではありません」
「ほかに、どんなことを知っているんだ?」
「これから起こることは、何一つとして知りません」
水面を眺めながら、エアデは彼女が言ったことの意味を考える。何を知っているのかと訊いて、知らないものを答えるのには、どんな思惑があるのだろうと想像した。
「……これから、どうなるんだ?」
エアデの質問を聞いて、ゾネは少しだけ彼を見る。
「どう、とは?」
「どうやって、戦うんだ?」
ゾネはすぐには答えない。
沈黙が下りる。
「それについては、まだ答えないでおきます」暫くしてから、彼女は静かに言った。「先にお伝えしても、不安が募るだけです」
「心の準備をしておきたいんだよ」エアデは話す。「……自分が本当に相手にできるのか、不安なんだ」
「もっと、不安になるだけですよ」
「そんなに大きな力なのか?」
「今の私たちにとっては」ゾネは頷く。「でも、必ず勝ちます」
「未来のことは、分からないんじゃないのか?」
エアデがそう言うと、ゾネは少しだけ笑った。
「分からなくても、言葉を紡ぐことはできます」
水面を眺めながら、エアデはぼんやりと考える。
自分は戦いの中にいる。
あと数日したら、この星の未来に直面することになる。
そう考えると、途端に身体が冷えるような感じがした。川の中に浸していた手を上げて、彼はその場で軽く水滴を払う。
戦い……。
ゾネはそれには勝つと言った。
では、そのあとはどうなるのだろう?
……そうだ。
どうして、今まで思い至らなかったのか。
たとえ戦いに勝ったとしても、それで終わりではない。勝ったらその先の未来が彼らには待っている。
……ゾネは、どうするつもりなのだろう?
原因の分からない不安に襲われて、座ったままエアデはゾネの顔を盗み見る。彼女は目を瞑ったまま気持ち良さそうに立っていた。川のせせらぎに耳を傾けている。
エアデは立ち上がって、なんとなく彼女の左手に触れた。
それに反応して、ゾネは目を開く。
「どうしましたか?」
エアデは彼女を見つめる。
数秒間黙って考えたが、この状況に適切な言葉は思いつかなかった。
「いや」彼は言葉を漏らす。「……何も」
彼に握られた手を見て、ゾネは微かに笑う。それから、握られた手を持ち上げて、もう片方の手でそれを優しく包み込んだ。
「心配はいりません。何があっても私たちは一緒です」
ゾネの言葉を聞いて、エアデは顔を上げる。
「……本当か?」
「ええ、もちろん」彼女は頷いた。「戦いに勝って、この星を存続させる。ただそれだけのことです」
「……ゾネは、ほかに、しなくてはいけないことがあるんじゃないのか?」
「しなくてはいけないこと、ですか?」真顔に戻って、彼女は首を傾げる。「どうして、そう思うのですか?」
「いや、なんとなく……」
ゾネは声を出して笑った。
「心配は無用です」彼女は手を握る力を少し強めると、それを一度大きく振った。「さあ、先に進みましょう」
山道に戻って少し進むと、今度は竹林が現れた。辺りは暗くて、普段より空気は冷えていたから、なんだか不気味な感じがした。
竹林には、木でできた橋のような建造物があった。その上を通って、足場の悪い林を進むようになっている。こんな場所まで人が物を運んできて、何かを作ることがあるのかと思うと、エアデは人間の意欲を凄いものだと実感した。でも、それと同時に、その意欲が世界を駄目にすることもあるのだと思った。その結果が、より顕著に見える場所も世界にはいくつも存在する。
星に失敗作はあるのだろうかと、彼はなんとなく考える。普段なら絶対に考えないようなことだが、普段とは異なる環境にいるからこそ、そうしたことを考えるのかもしれなかった。少なくとも、自分たちの住むこの星は、失敗作ではないように思える。何しろ、これだけの生命に溢れているのだ。そんな星はほかに見つかっていない。だから、唯一の成功例なのかもしれない。
でも……。
普通なら、少数のものは、周囲から非難されることが多いことも、同時に思いついた。
「……ゾネは、何のために生まれてきたんだ?」
傾斜を伴った道を歩きながら、エアデは彼女に質問した。
「唐突な質問ですね」彼女は笑顔で答える。
「いや……。……まあ、そうかもしれない」エアデは頷く。「なんか、気分を害したのなら、謝るよ」
「いえ、全然構いません」
そう言ってから、ゾネは顔を一度上に向ける。
エアデは彼女の横顔を見た。
「それは尤もな疑問だと思います」彼女は澄ました顔で答えた。「太陽の精霊と言われて、ぴんとくる人なんていないでしょうから」
「……そもそも、精霊って何なんだ?」
エアデは、その根本的なことを知らなかった。それは、彼がゾネに出会って最初に抱いた疑問だったが、彼女と一緒にいる内に忘れてしまっていた。
「精霊とは、ものに宿る、その本質のようなものです」彼女は説明した。「簡単に言えば、ものの核といえます。ものには必ず精霊が宿っています。ものといっても、明確な形を伴っていなくても構いません。水には確固たる形はありませんが、水には水の精霊が宿っていますし、光という、本来は粒子の流れであり、実体がないものにも精霊は宿っています」
「太陽の精霊と、光の精霊は別なのか?」
「ええ、そうです」ゾネはエアデを見て、頷いた。「太陽の本質は光ではありません。一方で、光の本質は光に違いないのです。では、太陽の本質は何なのかというと、実のところそれは私にも分かりません。太陽は、光を生み出せば、熱をも生み出します。けれど、太陽の本質は光でも熱でもないのです」
「ゾネは、光と、熱を、操れるのか?」
「光と、熱を、操れるのではありません。太陽の性質を帯びているものに、干渉できるだけです。ほかにも干渉できるものはありますし、反対に、光や熱と類似しているものでも、干渉できないものもあります」
歩きながら、エアデはゾネが言ったことを整理する。彼には難しい内容だった。エアデは、抽象的なことを理解するのが得意ではない。だから、そうしたものに直面した場合は、具体的なものに置き換えるようにしている。しかし、ゾネが今説明したことは、具体的には置き換えられそうになかった。彼女そのものが抽象的な存在だからだ。精霊という概念そのものが、抽象的なものだということだ。
「精霊は、見るものによって姿を変えます」ゾネは話を続けた。「今、私はエアデさんに見られています。だから、私は人間に近い姿をしています」
「……それって、ゾネのもともとの姿は、そんなものじゃないってことか?」
「私に、もともとの姿はないのです」彼女は答えた。「そもそもが、形を持たない存在なのです。でも、私は存在しています。太陽は、確かに形を持っていますが、それは私そのものではありません。だから太陽の形も私の形とは異なります」
「……だんだん、理解できなくなってきたけど」
エアデがそう言うと、そうかもしれませんねと言って、ゾネは笑った。
「私がエアデさんの前に姿を現したのは、きっと、自分だけでは問題を解決できないと判断したからでしょう。その判断、いえ、気持ちが、こうして具体的な形を伴って、姿を持つようになったのです」
ゾネの説明を聞いて、エアデは気がついたことがあった。それは、少し前からしていた予感と、関連するものでもあった。
「それって、裏を返せば、その問題が解決したら、姿を失うってことじゃないのか?」
ゾネは、すぐには答えなかった。
「……姿が失われることは、私の存在がなくなることと同義ではありません。私には、もともと定まった形がないのです。だから、姿を失う、姿を得るということが、そもそも起こりえないのです」
エアデは何も言えなくなった。
「エアデさん」一度立ち止まって、ゾネは言った。「私は、ずっと貴方の傍にいます。それはお約束します。……いえ、それは約束するまでもないことです」
暫くの間ゾネの目を見つめいたが、やがてエアデは目を逸らした。
彼女が言っていることが、なんとなく分かったような気がした。
けれど、彼には納得することはできなかった。
途端にわけの分からない気持ちが溢れてきて、それをどう表現したら良いのか、分からなかった。
「……ゾネは、それでいいのか?」自分勝手な問いだと思ったが、エアデは彼女にそう尋ねた。
ゾネは彼を見て、笑顔のまま答える。
「ええ」彼女は頷いた。「それが、私の在り方ですから」
山道を進んでいくと、途中で開けた広場のような場所に辿り着いた。開放的な空間で、所々にテーブルやベンチが設置されている。エアデはベンチに座り、持ってきた飲み物を飲んだ。お腹はあまり空いていなかったが、食べた方が良いとゾネに言われたから、保存食も少しだけ食べた。
広場はそれなりに高い所にあるようで、眼下には幾数本も立ち並ぶ木々と、その隙間から覗く都市が見えた。
こうして見ると、人間が築いた建物が意外と小さく映った。そして、想像していたよりはあまり密集していない。所々に間隔があって、そういうところから自然的な何かを感じる。人間も環境に合わせて自分を変えていく動物なのだということを思い出す。もちろん、人間は、動物の中でも環境に大きな影響を与えることのできるものだ。それでも、未だに自然に対抗するまでには至っていない。
人工と自然の境界は、そこにあるのかもしれないと、エアデはなんとなく思った。どれほど頑張っても、人間には自然を生み出すことはできない。人間が関わったものは、例外なく人工物になるからだ。これは定義の問題だが、けれど、また事実でもある。
自然を生み出すことを可能にする存在が、自分の傍にいる。
そう思うと、その少女の存在が、とてつもなく大きく感じられた。
広場を囲む柵に手をついて、気持ち良さそうに目を閉じている彼女は、今、エアデのために、そうした姿、挙動、仕草を見せているのかもしれない。
人間は形でものを判断する。
彼女は、自身の本質は明確ではないが、確かに存在すると言った。
本質を見極めるには、どうしたら良いのだろう?
本質とは、何だろう?
そんなことは、今まで一度も考えたことがなかった。そうした話題に触れたことはあるが、それは卓越した才能を持ち合わせた偉人が、そうでない者を蔑むように問いかけた戯れ事にすぎないと思っていた。そうした言葉を使って、自らの知性が優れているように見せる、トリックの類だと思い込んでいた。
「エアデさんは、どうして、あの丘の上の公園に、通っていたのですか?」
彼女の隣に並んで景色を眺めていると、唐突にゾネがそんなことを訊いてきた。
その問いに、エアデはすぐには答えられなかった。
「明確な目的があったわけではないのではありませんか?」
ゾネの指摘が正確だったから、エアデは頷く。
「目的を持つことは、嫌いですか?」
ゾネに問われ、エアデは一度彼女を見る。それからまた正面に向き直って、少し考えてから言葉を口にした。
「嫌いではないけど、それだけを追い求めるのは、好きじゃないよ」
「学校に通うのをやめたのも、それが理由ですか?」
「うん、まあ……。間違えではないと思う」
ゾネは自身の後ろで両手を組み、上を向く。
「私もそうです」彼女は言った。「目的を追い求めた結果出来上がったものは、どういうわけか、私には魅力的には見えませんでした」
「……そうやって、何かを作ったことがあるのか?」
「あります」
「魅力的じゃないって、どういうことだ?」
ゾネは真顔に戻って、エアデの顔を見る。
「伝わりませんか?」
「なんとなくは、分かるけど……」
ゾネはまた空を見上げる。
「一言で言えば、面白くないということですね」
面白くない、とエアデは頭の中で呟く。
「目的を達成するためだけに行動すると、その過程を楽しめなくなります。その目的のことしか目に入らなくなってしまうのです。かつての私は、自分が何かをするときに目的を求めて、それに向かって行動することしかしていませんでした。でも、それは違うと気がついた。そうして、自分の考え方を変えた結果できたのが、この星です」
エアデはゾネを見る。
「この星には、存在する目的を定めませんでした。それに対して、この星の周りにある惑星のいくつかには、目的を持たせてあります。でも、どれもこの星ほど魅力的ではありません。それぞれにいいところはありますが、私は好きにはなれませんでした。……私は、この星が好きです。そこにはきちんとした理由はありません。けれど、自信を持って好きだと言うことはできます」
「……僕たちが、存在するからか?」
「それもそうです」ゾネは頷いた。「人間以外にも、この星は沢山の生命で溢れています。生命だけではなく、この星自体の営みも個性的です。……今、この星では、その個性が失われようとしています。私には、それを許容することはできません」
二人の間に沈黙が下りる。
眼下に見える街の方から、生暖かい風が吹いてきた。
「ゾネが、何か失敗したと思うところは、あるのか?」
エアデは彼女に尋ねる。
彼を見て、ゾネは首を傾げた。
「この星について、ですか?」
エアデは頷いて返す。
「そうですね……」
ゾネの翼は、今は畳まれている。けれど、衣服の中に隠されてはいなかった。それが見えることで、エアデには彼女が人間ではないことが分かる。
「私の意思とは反対に、人間が目的を求めて行動するようになってしまったところでしょうか」
黙って前を向いたまま、エアデはゾネの言葉を待った。
「エアデさんも、一度は考えたことがあるのではありませんか?」ゾネは言った。「自分が、何のために生まれてきたのかと」
少し間を置いてから、エアデは頷く。
「それは、私の誤算でした」
エアデは目だけ横に向けて、ゾネを見た。
「目的を求めないように作ったつもりだったってことか?」
「うーん、どうなのでしょう……」ゾネは考える素振りをする。「もともとは、目的を求める方が良いと私も考えていました。……でも、どこかにそれを否定する自分がいたんだと思います。だから……。……そうですね、それは失敗ではないのかもしれません。私の意思が忠実に反映された結果だと言っても、間違いではないのかもしれません」
「……目的を追い求めるのも、そうしないのも、僕たちに任せようとしたのか?」
エアデがそう尋ねると、ゾネは申し訳なさそうに笑った。
「まあ、端的に言えば、そうです」
エアデは下を向く。触れていた木の柵が、少しずつ冷たくなってきたような気がして、彼はそこから手を離した。
「……どっちの方が、幸せなんだろうな」
前を向いたまま、ゾネは諭すように言った。
「どちらでも、幸せにはなれると思います」彼女は話した。「でも、どちらであっても、苦しいことはあるはずです。誰もがどうしたら良いのかと迷うでしょう。それは仕方のないことです。……人間は、目的がないと不安を感じます。目的を得ている状態では、不安を感じることはありませんが、その目的が果たされたときに、また不安になるのです。そして、そのときに、自分がしてきたことは何だったのかと考える。でも、そこに答えはありません。答えを得られないことが、また不安を生み出します」
ゾネの話を聞いて、エアデは自分について考えた。彼は彼女に出会って、確かに目的を得た。一つは、彼女を手助けするという目的。そして次に、彼女ともう一度会うという目的。その過程を経て、今はまた最初の目的を果たそうとしている。彼女の言う通りに、目的に頼って生きてきたのだ。
そう考えたとき、突然、足元が覚束ないような感覚に陥った。
そして、それが彼女が言った不安なのだと、悟った。
自分が明かりを灯せたのも、彼女の手助けをするという目的があったからではないかと、そんなふうに思えた。そして、その考えは間違いではなく、否定できるだけの根拠がないことにも気がついた。
……すべてに決着がついて、彼女の手助けを完了させたとき、自分は、次に何を目的にして生きていけば良いのだろう?
また、前と同じ状態になるのではないか?
「今はまだ、そのときではありません」隣にいるゾネが、彼に声をかけた。「目的が目の前にあるとき、それに縋るのは正解です。目的とは、そういうものです」
エアデは顔を上げ、ゾネに問う。
「でも、ゾネは、それが嫌なんじゃないのか?」
「エアデさんは人間です」彼を真っ直ぐ見つめて、ゾネは言った。「人間らしく生きて下さい」
ここへ来た目的は、明かりを灯す練習をすることだった。
でも、結局、ゾネは一度も、彼に明かりを灯すようには求めなかった。
その広場で、そんなふうに会話を交わしたあと、二人はもと来た道を戻って、家へ帰った。
自分の家の玄関の前に立ったとき、エアデは考えた。
ゾネが、自分をあの山に連れていった目的は、何だったのか、と。
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