第6章 Donnerstag
橙色の閃光。熱線。
真っ暗な空を照らす、一筋の光。
噴煙の向こう側にいる少女と、エアデは目が合った。その目を、色を、彼はまだ忘れていなかった。一目見たときから、その瞳に吸い込まれそうになった。彼女に出会えたのは、奇跡かもしれないと、今そう思った。
「……ゾネ」
エアデは呟く。
声に反応して、目の前の少女が彼の方を見る。
少年の姿を目の当たりにして、少女は大きく目を見開いた。
しかし、エアデがもう一度彼女の名前を口にする前に、空間は歪んだ。
上空から飛来した紫色の光が、ゾネのことを執拗に追いかける。それを空中で翻しながら、彼女は上方向に飛翔していく。自身の光を両手を使って操り、紫色の光に向かって反撃する。けれど、数の勢力には叶わない。紫色の光は、ゾネの攻撃を受けた瞬間に分裂し、カーブして彼女を攻撃しようとする。
追撃。
ゾネが咄嗟に拵えたガードが、紫色の光を反射した。しかし、攻撃はそれだけではない。休む暇を与えずに、紫色の光は何度も彼女を襲う。ゾネは左右に身を翻すが、異様なホーミングを備えたそれは、命中するまで彼女の身体を狙い続ける。
そんな彼女の姿を、エアデは見ていた。
塔は半壊して、途中で折れ曲がって頭が地面に接触している。重たい根本はそのままに、頭部だけが斜めに傾いていた。
地面までの距離はそれなりにあるが、彼は柵を越えてその先に行こうとする。
「駄目です、エアデさん!」
背後から声をかけられて、彼は思わず立ち止まる。瓦礫に埋もれて四肢を汚したヴェルト・アルが、表情を歪めて彼を呼び止めようとしていた。
「貴方では敵いません!」
彼女に負けないくらい、エアデも大きな声を出した。
「じゃあ、どうしろっていうんだ!」
「何もしてはいけません。貴方の生命がなくなります」
エアデは後ろを振り返る。塔の外では、ゾネが絶えず攻撃を受けている。そして、悟った。自分たちがここにいることが、彼女の戦いの邪魔になっていることを。
「黙って、見てろっていうのか!」
「貴方が解決できる問題ではありません」
「でも、放っておけないだろ!」
瓦礫の中から立ち上がり、ヴェルト・アルはゆっくりと歩き始める。
「どれほど努力しても、できないことはあります」
彼女の言葉を聞いて、エアデは固まった。
その言葉が彼に与えた衝撃は、あまりにも大きすぎた。
「貴方ができないことを、彼女はしているのです」ヴェルト・アルは告げる。「貴方ができないから、彼女がやっているのです」
「……どういうことだ」
「戦うことを放棄したのは、貴方です。これが、貴方が選択したことの結果です」
エアデはヴェルト・アルを睨みつける。
「……だから、一度決めたら、もう、何もできないって言うのか」
エアデの問いを受けて、彼女は首を振った。
「いいえ」
「じゃあ……」
「貴方にできることは、何ですか?」ヴェルト・アルは尋ねた。「今まで、何を練習してきましたか?」
エアデは一度沈黙する。
それからゆっくりと口を開き、彼女が示唆したことを確認する。
「……それが、僕にできることか?」
彼を見つめたまま、ヴェルト・アルは言った。
「貴方ができなかったことは、彼女を引き止めることでした。それは過去のことだから、もうどうしようもありません」
エアデは彼女を見つめる。
「ですが、貴方はそのあと何かをしようとしたはずです。行動し、新たに選択をした。そうすることで、貴方は貴方自身によって書き換えられたのです。……過去の貴方ができなかったことは、今、彼女がやっています。今の貴方には、今の貴方にしかできないことがあるはずです」
二人の背後では、以前として戦いが続いている。それは、今に始まったことではなかった。ゾネはずっとそうしてきたのだ。エアデが近くにいようといまいと、関係がなかった。しかしその果てに、彼女は彼に助けを求めたのだ。
「……僕に、できるのか?」
「貴方の勘は、何と言っていますか?」
ヴェルト・アルの唐突な問いを受けて、エアデは思わず息を呑んだ。
「そんなの、無責任すぎるだろ」
「機械は人間の性質を受け継いでいます」彼女は笑顔で言った。「貴方の傍にいたことで、私はどうやら貴方の影響を強く受けてしまったようです」
彼女の笑顔を見て、エアデは言葉を失う。
自信の内に蠢く何かを感じた。
鼓動。
できる自信などなかった。今までできたことなど一度もない。
けれど、彼女の言葉を信じてみようと思った。
そして、ゾネのことも信じてみようと思った。
正面に向き直る。
ゾネは空中に停滞し、険しい顔つきで周囲を窺っている。
突然、上空から飛来した紫色の光が、彼女に向かって奇襲を仕かけた。その光は今までのそれらをすべて合わせたように強大で、この世の終わりを告げる光のように、絶大な威力を伴って彼女に押し寄せる。
エアデは目を閉じ、人差し指を立てた。
普通なら誰でもできることを、こんな場面で大々的にやろうとしている自分が、可笑しかった。
でも……。
それができたら、自分は一歩前に進める。
また、彼女と一緒にいることができるかもしれない。
「Komm, mein Licht」
光は灯り、すべてを照らす。
闇夜を照らす道標のように、それは世界を変える光だった。
*
エアデが灯した光は、一瞬だが空を明るく照らした。その光の影響を受けて、それまでゾネと交戦していた紫色の光は、一筋残らず空間から消滅した。
崩れかけた塔の上でその光景を見ていたヴェルト・アルは、彼が力を失いかけて崩折れるのを、両手で抱えて支えた。彼を抱えたまま柵の上に上がり、そのまま地面に向かって着地する。衝撃を吸収するように脚部の構造を一部変形させて、ゆっくり塔から距離をとると、アスファルトの地面に彼を横たわらせた。
空から、橙色の光を纏った少女が降りてくる。
彼女はその背中に生えた翼で、自身の空中での行動を制御していた。
「貴女が、ゾネさんですか?」
エアデの傍に降り立った少女に、ヴェルト・アルは尋ねた。
「ええ、そうです」ゾネは頷く。「貴女は?」
「駅の案内役を務める、コンピューターです」
道路に寝かせられたエアデは、意識を失ってはいなかった。ゾネの姿を視界に捉えると、彼は一瞬だけ視線を逸らしたが、すぐにもとの位置に戻して、力ない素振りで薄く笑いかけた。
「エアデさん」彼の顔を見て、ゾネは笑った。「どうして、こんな所に?」
エアデはすぐには答えられなかった。
「もう一度、会いたくて……」掠れた声で彼は言った。「彼女に助けてもらって、一緒に探したんだ」
エアデの返答を聞いて、ゾネは笑顔のまま首を傾げる。
「エアデさん、ごめんなさい」彼に顔を近づけて、彼女は小さな声で言った。「私は、自分勝手な行動をしてしまったみたいです。それが貴方のためになると、そう思っていたのです。……本当は、ほかの誰かを探すつもりなんてありませんでした。私一人で戦うつもりだったんです。それが私に課された運命なのだと、そう思うことにしたんです」
ゾネは、エアデの手を握る。
手を握られたエアデは、いつかと違い、その手が想像を超えて熱いことに困惑した。
「僕も……。できないって、最初から決めて、ごめん」
ゾネは手を握る力を強め、笑みを深める。
「よく、できましたね」
エアデは頷く。
「ああ、できたよ」
それだけ言うと、エアデは頭を擡げて目を閉じてしまった。
明かりを灯す技術を身に着けるための訓練は、本来なら幼い内から継続的に行うことだ。だから、突然できるようになることではないし、段階的に徐々に技術を習得していく必要がある。そのための感覚は、それまでの様々な経験の影響を受けて、ゆっくりと醸成されていく。
しかし、エアデの場合はそうではなかった。突発的な感情の高まりと、極度の集中によって、途中の段階をすべてスキップしたのだ。しかも、上手くコントロールする術を知らないから、明かりは感情に比例して、あれほどまでに大きなものになった。当然、その分身体は強い反動を受けることになる。一通りのプロセスが終われば、意識は昏睡するに決まっている。明かりは自身の寿命を削り、それを変換することで灯すものだからだ。一度に莫大な量のエネルギーを消費すれば、当然身体は保たなくなる。先取りできる量には限度がある。限度を超えて使えば、そのための代償が与えられる。
「おそらく、暫くの間目を覚まさないでしょう」エアデの傍に座り込んだゾネを見下ろして、ヴェルト・アルは言った。「しかし、心配には及びません。いずれ必ず目を覚まします。あるいは、貴女がその力を使って、彼を助けることができるかもしれません」
ヴェルト・アルは、ゾネの周囲を取り巻く橙色の光を手で示す。ゾネは彼女の指摘を受けて、静かに頷いた。
「彼を支えてくれて、ありがとう」ゾネは言った。「きっと、色々なことがあったのですね」
「いえ、そんなことは」ヴェルト・アルは首を振る。「まだ、彼と出会って数時間しか経っていません。貴女がともに過ごした時間よりは短いでしょう」
「貴女は、駅の案内人などではありませんね?」
ゾネが笑顔のまま尋ねると、ヴェルト・アルは肩を竦めてみせた。
「さあ、どうでしょう?」彼女は答える。「いずれにせよ、私の役目はこれで終わりです。世界がかつての輝きを取り戻す日を、待っています」
「どうもありがとう」
「それでは、さようなら」
それだけ言うと、ヴェルト・アルはその場から去っていった。
エアデを抱えてゾネは家に帰った。歩くのではなく、翼を使って空路で帰宅した。どれほど標準的な体重でも、人を抱えて移動するのは骨が折れる。それでも何の苦労もなく彼を運べたのは、彼女が精霊だからだった。けれど、いなくなる前にヴェルト・アルに手伝ってもらえば良かったと、少し後悔したのも事実だった。
マンションの前まで戻ってくる。そのまま上方向に飛翔し、廊下に至って玄関の前に来る。エアデが背負っていた鞄から鍵を取り出し、室内に入って扉を閉める。エアデを自室まで運ぶと、彼をベッドの上に横にし、ゾネはその上から毛布をかけた。
部屋は暗かった。ゾネも、今は橙色の光は灯していない。
ベッドの傍に椅子を持ってきて、ゾネはそこに腰を下ろした。それから、衣服が所々破けていることに気がついて、新しいものに着替えた。彼に買ってもらった衣服が、まだいくつか部屋のクローゼットに残っていた。すべてに袖を通す前にこの家を去ってしまったことが、今さらながら申し訳なく思えた。
いつかと逆の立場になっていることに気がついて、ゾネは笑みを零す。
エアデに拾われたとき、ゾネは意識を失いかけていた。それは初めての経験で、そのまま自分は消えるのかもしれないと思った。
ゾネはこの星をずっと見守ってきた。太陽も、月も、この星を存続させるためになくてはならない。
戦いはずっと前から始まっていた。この星の住人は誰一人としてそれに気がつかなかった。太陽の光が失われ、月の勢力が拡大したことは知っていたが、その向こう側で戦いが繰り広げられていることなど、誰一人として想像していなかった。知る由もなかったといった方が正しいかもしれない。そんな中、ゾネが初めて接触したのがエアデだった。瀕死の状態だった彼女を、彼は助けてくれた。
思い返してみると、彼と出会ってまだそれほど経っていなかった。その事実に気がついて、ゾネは少しだけ寂しくなる。精霊の身としては、吹けば飛んでいくような時間だが、それでも、エアデとともに過ごした数日間は、彼女にとってかけがえのないものだった。
自分がいない間、彼はどのように過ごしていたのだろうと、ゾネは想像する。
エアデが明かりを灯したとき、ゾネは嬉しいとも、良かったとも思わなかった。それ以上に驚きの方が勝ってしまったのだ。そして、この短時間の内に彼がその技術を習得したことに、わけの分からない慈しみを覚えた。どう考えて、どう行動して自分にもう一度会おうとしたのかを考えるだけで、後悔の念がより一層強くなった。
「頑張ったんですね、エアデさん」
暗闇の中、ゾネは独り言を口にする。
創造主は、文字通り、この星の作り手だ。だから、エアデの生みの親でもある。この星に存在するありとあらゆる生き物、いや、この星そのものを彼女が作ったのだ。
そして、彼もまた同様に……。
ゾネは立ち上がり、リビングに向かった。硝子扉を開いてベランダに出る。そこから空を眺めていたのが、随分と昔のことのように思えて、何だか喉が詰まるような気がした。
真っ暗な空。
月の勢力はさらに大きくなりつつある。
エアデに告げた期限が、迫りつつあった。
彼女が月の勢力に対抗できないのには理由がある。それは、根本的なエネルギーが減衰しているからだ。では、それは何に起因しているのかというと、自己より上位の存在によるルールの適用が挙げられる。簡単にいえば、この世界の摂理ということだ。彼女は創造主だが、この宇宙のすべてを司っているのではない。彼女は、あくまでこの星、この系の創造主にすぎない。月が勢力を増しているのは、上位の存在によってそうなるように操作されているからだ。
自分だけではどうしようもない。そのためには、この星の生命の力が必要だ。そして、その代表として彼女はエアデを選んだ。そのエアデは、彼女が求める姿に近づきつつある。
エアデに告げなくてはならない。
それができる自信があるのかと、彼女は自問する。
まだ、答えは出せなかった。
答えを出すための要素が足りていないのではない。
単純に怖いのだ。
自分を救ってくれたエアデに、それを告げるのが……。
明日から、エアデはどうするつもりだろう?
いや、自分はどうするつもりだろう?
彼にどうしてほしいのだろう?
自分はどうしたいのだろう?
夜になっても空気は変わらない。この星はずっと停滞している。
けれど、それもあと少しで終わる。自分とエアデで終わらせるのだ。彼にはもうその力がある。彼と一緒にいれば、必ず良い結末を迎えられる。
背後に気配を感じて、ゾネは振り返った。
暗いリビングの中。
エアデが立っていた。
「ゾネ……」
傷を負った頰を不器用に動かして、エアデは声を出す。
どんな顔をしたら良いのか分からなくて、ゾネは最終的に笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい、エアデさん」彼女は謝った。「浅はかな行動をしてしまって」
「……なんで、君が謝るんだ」
ゾネはエアデがいるリビングに戻る。後ろ手で硝子扉を閉めて、彼と二人の空間を確立させた。
「私は、それが貴方のためになると思ったのです。でも、まったくの見当違いでした。それは貴方を苦しませるだけだった……。……本当に、ごめんなさい」
「いや、そんな……」エアデは顔を背ける。「……僕の方こそ、悪かったよ。なんていうか、その……、感情的になっちゃってさ。今まで、できたことなんてなかったから、自分を信じられなかったんだ。だから、その気持ちを、君にぶつけてしまって……」
「でも、できるようになりましたね」ゾネは笑顔のまま、軽く首を傾げる。
彼女の表情を見て、エアデも少し笑った。
「……でも、あれって、何なんだ? どうして、今までできなかった僕に、あんなことができたんだ?」
エアデの問いを受け、ゾネはゆっくりと室内を歩き始める。誰かのように、人差し指をぴんと立てて、彼女は説明した。
「おそらく、貴方が内に秘めていたエネルギーが現出したんだと思います」彼女は話した。「とはいっても、あれほどのエネルギーを瞬間的に生み出す方法はありません。おそらく、貴方が今まで使ってこなかったエネルギーが、少量ずつ蓄積されていたのだと思います。それが、一時的な感情の高ぶりによって解放された。だから、あれほどの明かりを灯すことができたのです」
「皆が、これまでに使ってきた分のエネルギーを、あの場ですべて使ったってことか?」
「すべてを貯蓄できていたのかは分かりません」ゾネは振り返り、エアデを見る。「何にしても、努力の賜物です。……私がいない間に、一生懸命頑張ったんですね」
「……一生懸命かどうかは分からないけど……」
「今までと、違うことをしたのでしょう?」
ゾネに見つめられて、エアデはなんとなく視線を逸らす。
「うん、まあ……」
「一歩、前進しましたね」ゾネは言った。「エアデさん、また私を助けてくれて、ありがとう」
彼女の笑顔を見て、エアデは小さく頷いた。
今日は木曜日だ。ゾネが言っていた制限時間は、あと三日程度ということになる。それまでに、エアデの技術を磨いて、月の精霊に勝つ必要があると、ゾネは再度述べた。そのために、彼女はエアデに外出することを提案した。少し離れた場所へと旅行のようなものに出かけるのが良いと話したのだ。
「明かりを安定的に灯せられるようになるには、まだほかの刺激を受ける必要があります」ゾネは説明した。「そのためには、普段とは異なる経験をするのが近道です。ここではないどこかへ出かけるのは、その最適解といえます」
「出かけるって、どこに行くんだ?」
そうですねと言ったあとで、ゾネは考える仕草をする。それから、何かを思いついたように表情を明るくすると、彼女はエアデを見て言った。
「海や、山などどうですか?」ゾネは笑顔で話す。「どちらも、あまり行ったことがないのではありませんか?」
「あまりというか、一度も行ったことがないけど……」
「では、決まりですね」
「……そんなことで、効果があるのか?」
「もちろんです」ゾネは自信ありげに頷く。「明かりと自然物の間には、古来より深い関係があるのです」
ゾネと少し会話を交わしてから、エアデはベッドに向かった。ゾネは眠らないと言って、ずっとリビングにいるつもりらしかった。
エアデがいなくなったリビングで、ゾネは沈黙する。
彼女は疲弊しつつあった。その進行度合いは前よりも大きくなっている。負荷とリカバリーのバランスが崩れているのが原因だった。先ほどの戦いでも、エアデに助けてもらわなければ、どうなっていたか分からない。彼女の衰弱は、同時に太陽の衰弱でもある。そして、それはこの星の未来と繋がっている。
まだ、負けるわけにはいかなかった。何としても、月の精霊を倒し、自分は存続しなくてはならない。
ゾネは顔を上げる。
あと三日。
その内にエアデに真実を告げようと、彼女は決心した。
でも、それを逆撫でするように、握り締めた手は震えていた。
*
目が覚めると、暗い部屋の中だった。ただ、いつもと少しだけ体感が違った。身体の中が暖かいような感じがする。起き上がり、人差し指を立てて言葉を呟いてみると、指先に小さな明かりが灯った。それを見てエアデは少し嬉しくなる。できないことができるようになると、こんな気持ちになるのかと思って、今までの自分とは何もかもが違うような感覚を抱いた。
リビングに入るとゾネがいた。彼女と離れていたのはほんの数日なのに、それが妙に長く感じられた。
ゾネはエアデに、学校を休むように言った。昨日言っていたように、街の外へ出かけるからだ。あれほど学校に行けと言ったのは彼女なのに、それをやめろと言うものだから、エアデは可笑しくて仕方がなかった。昨日、彼女は自分勝手なことをしてしまったと言っていたが、こういうところを見ると、たしかに彼女にはそういう面があるのかもしれないと、彼は少し納得した。
「外出が終わったら、また通って下さい」そして、ゾネはさらに注文をつけた。「学校で得られる知識は、貴方にとって有用です。将来的にきっと役に立ちます」
「それが、君が僕に求めていることか?」
「ええ」ゾネは頷いた。「その通りです」
エアデには、ゾネの戦いを見て分かったことがあった。それは、彼女がこの星を大事に思っているということだ。言葉にしてみると安っぽいが、彼女が抱いているのは本当にそれだけだ。彼女の戦いに初めて手を貸して、エアデはそう思うようになった。ゾネは創造主だから、自分が作ったものを大切にするというのは、おかしいことではない。でも、それ以上に大きな理由が彼女にはあるように思えた。それは最早理由とは呼べないかもしれない。理由がないことが理由なのだ。かつて彼女が言っていた、好きという意味が、今のエアデには分かるような気がした。
「今日は、山に行きましょう」リビングの椅子に着いて、ゾネは言った。「山で、特訓をしてもらいます」
「特訓って……」保存食を食べながら、エアデは応える。「……まだ、厳しいことをさせるつもりか?」
「厳しくしているつもりはありませんけど……」ゾネは真剣な顔で話す。「……何か、嫌だと感じることがあれば、言ってもらって構いませんよ」
「いや、別に嫌ではないけど……。……まあ、いいよ。練習すれば、何か変わるっていうのは、分かったから」
エアデの言葉に、ゾネは笑顔を返した。
一日で帰ってくるつもりだったから、特別持っていくものはなかった。食べ物と飲み物は必要だから、いつも食べている保存食と、いつも飲んでいるお茶を、それぞれ用意してリュックに詰めた。
一通り準備を終えてから、どうやって山まで行くのかとエアデはゾネに尋ねた。
「もちろん、飛んで行きます」
そして、彼女の口からは突拍子もない答えが返ってきた。
「飛んで? 飛ぶって、どういうことだ?」
「そのままの意味です」ゾネは澄ました顔で答える。「翼を使って、飛んでいきます」
エアデは自分の背中を見る。もしかすると、自分にもいつの間にか翼が生えているのかもしれないと思ったが、当然そんなことはなかった。
「僕に、翼なんてないけど……」
そう応えたエアデの片手を、ゾネは優しく握る。
「最初は怖いかもしれませんが、すぐに慣れます。私の意識がある限り、落下することはありません」
驚くエアデを、ゾネは無理矢理ベランダへと連れていく。
「いいですか、エアデさん」彼女は彼をベランダの柵の上に立たせると、自分もその隣に並んだ。「絶対に離さないで下さいね」
「え、いや……。ちょっと!」
地から足が離れる感覚は、思っていた以上に呆気なかった。
速度を上げて、身体は地面に向かって降下していく。
一瞬。
身体が軽くなる感覚があった。
瞑っていた目を、ゆっくりと開く。
すぐ横に、ゾネの顔がある。
彼女は彼に笑いかけると、その綺麗な翼を大きく広げて、空へと舞い上がっていった。
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