第3話 若君の元服

「そうはいっても、いったいどうやって女性のお召し物を都合しましょうかね……」


惟光はそう小さな声でぼやいた。羅生門の鬼が女の姿になれば解決する、と助言してくれたわけであるが、その助言のために用意するべきは女の人のお召し物である。

この時代の宮中の女性のお召し物を用意するのは中々大変なのだ。

なにしろとにかく大量の布地を用意しなければならない。それは後生の衣装などと比べると、恐ろしいほど大量の布地を使用する物なのだ。

後宮の女性達のなかでも、惟光が擬態する事が出来る、いわゆる女房達は、高貴な人々にお仕えしている身分という事で、常に正装をしている。この正装とはどんな姿かというと、いわゆる女房装束と呼ばれる物である。

そんな事を言われても、わからない事も多いだろう。簡単に言うと十二単といわれるあれである。何枚もの重ね着をした後に、さらに裳と唐衣を着用した物である。

そして布という物は、大変に手間のかかるものであるのだ。それを染めて、模様を作り、仕立てるのは大変にお金も手間もかかる作業である事が知られている。

そして惟光には、それらの衣装を都合するつてが……残念ながら無かったのだ。

まさか羅生門の鬼も、その段階でつまづくとは思わなかったに違いない。

惟光はその現実に、頭を抱えた。一瞬、二条院にいるであろう兄や母を頼ろうかと思ったわけだが、その時のいいわけはどうするべきなのか。

自分が着たいから用意してくれ、といって用意できる物ではないのである。

さらにそれ以上に大きな問題になるのだが、裳というのは成人女性の証でもある。これを着用するには一応の儀式が伴う事が多いわけで、おいそれと、女装だからやろう、と言えるものでもなかったのである。


「どうしたら……」


惟光はうなった後に、助言をくれた羅生門の鬼には申し訳ないのだが、出来ない事は出来ない、出来る事をありったけやってみよう、と意識を切り替えたのだった。

さて、女房達が光君のお世話をしている間、惟光は食事をとらなければならない。お仕えしている人の前で、食事をするのはあまり誉められた事ではないし、第一食事場所は違っている。

腹が減っては、よい考えも思い浮かばない。そう言うわけで、惟光は後宮で女房達と一緒に、食事をとる事にした。

つまりこの時点で、光君の食事は終わっているのである。どこでもありがちな事として、主は山盛りの食事が用意され、その中で気に入った物にだけ箸をつける。そして残ったものが、お仕えしている身の上の者達に、下げ渡されるのだ。つまりは残り物である。

これが、貧乏な貴族の家だと、主に用意する食事も少ないので、働いている者達の食事はもっと貧相、という事にもなりがちだ。

まあ後宮なので、それほどひどい事にはならないのだが。

惟光は、誰も自分を女の子だと思わない事から、せっせせっせと食事を口に運び、お腹を満たす。何しろ乳母子として光君のために動き回る事が、惟光の仕事の一つなので、体力勝負の事も多いのだ。


「ねえねえ、やっぱり光君はすばらしいわね」


「あなたもそう思う? あんなに光り輝く若君は他にいらっしゃらないわ」


「本当に、後ろから光が射し込むように見える方で……あの方ももうじき、元服でしょう? そうすると、ここで見られなくなってしまうじゃありませんか……それがとても寂しくて」


「わかりますわー、光君がいらっしゃると言う事だけで、毎日励みになりますもの」


「そうだ、知り合いが小耳に挟んだのですけれども……光君の後見人は、左大臣様に決まったそうですよ。そして添臥のお相手は、あの葵様!」


「まあ!」


それを聞いて他の女房達が驚いた声をあげる。葵というのは左大臣のすばらしき姫君、つまり左大臣は後見人であり、光君の義理の父親になると言うわけなのだ。

これは大変な事である。というのも……


「確か春宮の第一の后として、引徽殿のお方がお話をしていた方ではありませんか……まさか、春宮をさしおいて光君が、葵様を?」


「引徽殿のお方が、それは……怒りますね……」


「葵様も、なかなか大変ですね……葵様はいずれ后になる身の上と、そうお育ちになっていらした方なのに」


「でも、うらやましいですわー。あの光君の北の方になれるなら、春宮じゃなくても!」


「それも言えてますね」


女房達は皆、すばらしい光君びいきである。そのため、たとえ春宮つまり、次期帝でなくとも、光君の妻になれるならそれはすばらしい、と意見が一致してしまう。

しかしながら、それを聞いて心穏やかになれないのは、惟光だった。

惟光は色々とあちこちから、光君のために話を聞く事もしている第一の家臣であり、兄弟分なのである。

そのため、これはいっそう光君に対して、引徽殿のお方が憎しみやい仮を抱くであろう、と予想できてしまったのだ。

何しろ引徽殿のお方は、光君のお母上である桐壷の方が、身分にそぐわぬ寵愛を受けた事似たいして、一番怒り、ほかのお后達と結託し、桐壷の方を死に追いやった人なのだ。

この時代に、身分にそぐわぬ寵愛と言うのは、他の妻の怒りを買いやすい事として有名で、その結果愛された女性が死に追いやられる事も珍しくないし、その結果、父親のいる本宅に引き取られ、いじめ抜かれる継子の話もありがちなのだ。普通に草紙として出回っているものも多い。

それらにかなり似ている光君の境遇なので、惟光はこれはどうするか、と真剣に考えたわけだが、残念な事に惟光は権力も財力も何もない、ただの光君の乳兄弟なのである。どうあがいても何も出来ない。

せめて出来る事としては……光君が、ひどい事にならないように、陰ひなた無く助言をし、仕える事だけだったのであった。


「そうです、そう言えば光君の手ほどきをする方、どなたに決まったかご存じ?」


「いえ、私たちは何も聞いていないのですよ」


「噂によると、春宮の手ほどきもした、それは慣れた女性が行うとか」


「それもうらやましいですわ。あの光君の初めてのお相手になれるなんて」


「あれだけ美しいお方なのですもの、水面下ではきっと、火花が散っていらっしゃったでしょうね」


元服の夜に、添臥をするというが、つまり成人したらその日に体を重ねるのである。

しかし、その時に何も知らないというのは、進むべき事も進まなくなるため、元服する前に、ある程度の手ほどきはされるのだ。

そしてその相手をするのは当然、年上の、男女のあれこれに慣れた女房というわけだ。高貴な女性が手ほどきをするわけがないので、これは当然とも言える。

そうか、光君はそれで女性とのあれこれを知るのか、と惟光は汁物をすすりながら気がついた。

兄の惟忠が前に、惟光もつれて、男友達と下半身の話題をしていた時に聞いた中身によると、それを覚えると男として一人前になった気分になるし、はまる人間ははまるのだとか。ちなみに惟忠は歌が下手なので、恋した女性に言い寄っても、けんもほほろに追い返されるのだとか。返歌が着た試しがないとぼやいていた事まで、惟光は思い出した。






「……」


そして、実際に手ほどきがあったのだろう。惟光は数日の間、光君から離れた場所に寝泊まりをするように、と女房達に言われたので、素直にそれを聞き、日中は光君の元にいながら、夜は少し遠ざかった場所で、寝ていた。

つまりそう言う手ほどきがあったのだろう、とひどく鈍いわけではない惟光は察したのだ。確かに、元服前の惟光が、主の情事の手ほどきを見ていいと言うわけはなさそうなので、それはおかしい事ではない。

だが、おかしくなっったのは光君だった。

妙に顔色が悪くなっているのだ。三日続けて行われたそれの後、光君は青ざめた顔になり、目の下に色の濃い隈を作り、何より年上の女房達が近付くと、顔をこわばらせるようになった。

さすがにおかしい、という事で、惟光が何度どうしたのかと聞いても、光君は教えてくれないのだ。

何か恐ろしい夢でも見たのだろうか……とやきもきしつつ、惟光は宮中が、光君の元服という事で浮き足立つ空気を、感じていた。

しかし、光君は笑ったりしなくなっている。

いったいどうしたのだ。惟光はそろそろ我慢が出来なくなったので、夜、光君に問いかけた。


「俺の若君、いったいどうしたんですか」


「惟光……惟光には言えない事なんだ」


「俺に言えないって何ですか、水くさいじゃありませんか」


「……だから、口調。二条院にいた頃みたいに話してくれ」


「人目があるからだめですよ。それ以上に、若君のお顔がどんどんひどいものになっていくのが、惟光はつらいのです」


「……惟光はまだ、子供だから」


「それをおっしゃったら、光君も子供ですよ。いよいよ明日元服ですね、母がこの晴れがましい日をみたい、と宮中に来るんです。女房の方々の陰に隠れて見ると」


「ああ、乳母が」


それを聞くと、光君は少しだけ表情を柔らかくした。母をなくし、母のように思っていた惟光の母と、少しは会えそうだと思ったのだろう。


「惟光は、光君にあわせて元服する事になってます。まあ、惟光は添臥とかはありません。それは高貴なお方のする儀式なので」


「……惟光は、男女のあれこれが、怖くないのか」


「兄貴があれだこれだと連れ回しましたからね、話だけはたくさん聞いてるんですよ」


「私も、聞いていれば違っただろうか……」


「本当にどうなさったんですか、そんな暗くてお辛そうな顔をして。そして惟光には言えないなどと」


「……元服のあと、葵殿と一夜をともにするだろう。その一連の儀式が終わったら……惟光になら、言えるかもしれない」


「では、どなたでもいいから、言える人に話してくださいね? きっとお一人では、抱えられない事ですよ。女房の皆が、光君の顔色の事で、一喜一憂しているくらいですからね!」


惟光がそう言うと、光君は薄く無理矢理笑った顔で、頷いた。






「うわあ……ものすごい美男子がいる……」


惟光はその日、光君の前日に元服をすませて、その場に立ち会っていた。

立ち会うと行っても、下々なので、物陰からその儀式を見守る位置である。

それでも、光君が童髪から、大人の髪型に結い直されて、冠をかぶる様は、相当に雰囲気のある、非常に美しい儀式といって良かった。

だが、引徽殿のお方達がいる方角からは、どす黒い雰囲気がにじみ出ている。

引徽殿のお方は、何度も桐壷帝に、左大臣の一番すばらしい姫、葵を妻とするのは春宮の他にいない、と説得していたらしい。

だが、その繰り返された説得もむなしく、葵は光君の妻となる事が決められていて、それが引徽殿のお方にとって腹立たしい事この上ないのだろう。

ならば元服の儀式も見なくていいのでは、と思うかもしれないが、後宮の娯楽は少ないのだ。こう行った儀式はそのため、後宮の誰もが見たがる行事の一つとも言えた。

大嫌いな相手の儀式でも、暇よりはまし、というわけである。

そして、問題も起きる事無く、光君の元服はすまされて、その日は宴となり、成人した当人は、葵と一夜をあかしたのだった。

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