第2話 惟光の若君

惟光の語りにあるように、惟光の母は、娘を産んですぐに、自分の娘を格下の乳母に預けず、娘を抱えて桐壺更衣の元で乳母として働きだした。

そしてついでのように、その兄惟忠も連れてきた。

そうするとどうなったか。

身近な年齢の近いものは兄貴で、一緒に育ってきたのも若君、つまり男となり、惟光は幼い頃、自分も男なのだと思い込んで育ってしまったのだ。

そして母も、惟光が男のふりをしていた方が、今後の出世に役立つ、自分も楽になると気付き、それを後押ししてしまったわけだ。

いつかばれた時には、巫女か何かのお告げにより男のふりをしていたとか言って誤魔化すのだ、と母は元々巫女であった己の過去から、断言した。

そんな夢を見たような気がするのだ、と言って。

惟光はその結果、自分の性別が若君たちとかなり違う、と気付くのが遅れて、事実に気付いた時には、若君はすっかり、惟光とは兄弟だと思い込んでしまっていた。

惟光の方が、子供の頃、背丈も大きく、力も強かったのが一因である。

惟忠はと言えば、女兄弟なんてつまらない、男兄弟が欲しかったという奴なので、男の子のような妹を歓迎し、三人で遊び惚ける事になったのだ。

惟忠はすぐに仕事先を見つけて、子供ながらに働きに出てしまった。その理由は桐壺更衣の実家の食生活が貧相だったからである。

大黒柱の大納言が死んだ後、一人家を切り盛りしていた北の方が、どんなに采配を振るっても、食事の品数を増やすのは難しかったのだ。

まして娘を宮中へ嫁がせるために、かなりの金子を使ってしまった後の事である。

惟忠はそんな事を直ぐに見抜き、美味しいご飯を妹と弟分に食わせるために、という名目で働きに出て、毎日食べ物を持って来る。

乳母である惟光の母は、光君の世話を焼く事で忙しく、さらに北の方も亡き娘の子供を慈しみたいという事もあり、奥向きの事ばかりを行う。

そして六歳になったあたりで、光君は宮中に連れていかれた。というのも、北の方が苦労し続けた結果、娘のあとを追いかけるように死んでしまったからである。

帝がそれを不憫がり、そして光君の実家が残るように手配したのだが、その時、光君は惟光が一緒でなければいかないと駄々をこねた。

息子の初めての我儘である。溺愛していた帝はそれを叶えた。

無論そこに、人物調査などない。息子が一緒がいいと言ったから叶えてあげようと言う杜撰っぷりである。

そして惟光は、光君の侍従として暮らす事になった。

光君は何をやらせても出来が良く、教師たちが素晴らしいと連呼する。

日嗣の皇子より素晴らしいとまで言ってくれるため、最初は意味も分からず褒められて誇らしかった惟光も、後々、宮中権力図に気付いた後は、戦々恐々の身の上である。

絶対に弘徽殿のお方の逆鱗に触れるだろ、というあたりが怖いのだ。

事実教師たちも、何かと事情をつけて辞めさせられたりしているため、弘徽殿の女御の実家の圧力が、異常なくらいに強い事もわかるのだ。

流石右大臣の娘というだけはある。権力はあちらの手にあるような物だ。

教師を辞めさせる程度なら、簡単なのだろう。

しかし、そんなもの気付きもしないのは、父から溺愛されている結果、他の女房達からも可愛がられて育っている光君である。

その頃にはすっかり乳母もいらなくなってしまい、乳母である惟光の母も、惟光によくよく頑張るようにと言って、実家に帰ってしまった。あばら家になっていた実家は、もうすっかり改修工事も終わって、まあまあな住宅になっているらしい。

聞くところによると、実家の兄貴が結構儲かって、いい働きをしているのだとか。

二条にある光君の実家の改修などもできるくらいのもうけっぷりだそうな。

流石の兄貴は、そのお金で、大変な時期に住ませてくれた北の方へのお礼として、援助援助というわけだ。

真あっぱれな兄貴である。

そして惟光は、不思議な事に誰からも女だと気付かれずに、光君の侍従として暮らしていくようになった。

とにかく光君は、怠惰な所では怠惰なので、片付け甲斐のある部屋を形成するようになるのだ。

勉強もできて音楽の造作も深く、さらには歌の良さに定評がある若君であるが、実際に歌を詠むのは惟光だったりするため、歌の評価は惟光の物である。

光君も素晴らしい歌を詠むわけだが。

それはさておき、惟光は新しく迎えられた藤壺女御の元から帰ってきて、ぽうっとなっている光君の前で、手のひらをひらひらと揺らした。


「若君、若君」


「はっ!」


光君ははっとした顔になってから、ややばつの悪そうな顔になった。


「なんだ、驚かして」


「ぼーっとなさっているからですよ」


「……口調!」


惟光が丁寧に喋ると、途端に光君はすねるのだ。

たった三日しか違わないのに、弟の様で手がかかる。


「ここは宮中です、二条のように暮らしてはいけませんよ。それに二条と同じ口調で、帝からも愛されている光君に接したら、惟光は打ち首です」


そう言いながら、自分の首をすぱんと切るような動きをすると、光君が膨れた。


「だって惟光が遠い気がするのだ」


「遠くないでしょう、どれだけ近いと思っているんですか、あなたの朝から晩まで、どれだけ世話焼いていると思ってるんですか」


「惟光は、仕事ができていい侍従だなあ」


「言いながら文机で何を書きだそうっていうんです。硯は? 墨は? 出してから筆を執ってくださいな」


光君の趣味はお絵描きである。手慰みに描いた絵も大変に素晴らしいものであるため、女房達はそれを扇に張り付けたくてうずうずしている。

書いたら渡してね、と言われているのは惟光である。


「ああ、忘れていた」


硯も墨も忘れて絵が描けるわけないでしょう、というツッコミはしない。惟光ももう慣れているからである。

さりげなく用意して、そばに控えておく、これが惟光の立ち位置だ。

外に控えるのも、女房達への配慮である。


「惟光、お前はこっちだ」


光君が、ばんばんとその辺を叩いて、惟光の座る場所を指定しなければの話だが。


「若君……お願いですから、惟光が女房の皆様と違うという事を理解してください」


「だって惟光はずっと一緒だろう?」


邪気のない顔である。これで、藤壺女御様によからぬ心を抱いていなければなあ、と再三思う位に整った顔の若君が、何も包み隠さずむき出しにしている心こそ、惟光に対する心である。


「一緒というか一蓮托生と言いますか、若君がやらかしたら惟光も没落するというか」


「その時は惟忠に養ってもらえないかな」


「兄者はきっと養うのもやぶさかではないと思いますが……」


惟光は兄を思った。兄は細かい所を気にしないおおざっぱさを持っているため、帝の息子がやってきても大して気にしないだろう。

あの兄の問題な部分であり美徳である。


「とにかく。惟光がここにいつまでもいたら、女房の皆さまが入ってこられないでしょう」


「……うん」


女房の皆様にお世話されている、という自覚があるらしい。若君はこくりと頷き、惟光はそそくさと御簾の外に出た。

それを待ち構えていたように、女房の皆さまが入ってきて、若君の世話を焼き始めた。

無論、惟光がある程度片付けた後の、まあまあ見られる状態の部屋なので、光君の部屋が汚いという評判は立たないわけであった。


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