第4話 若君と葵上
「いよいよ本当に、大丈夫じゃなさそうですね、俺の若君」
元服は終わった。そして惟光の若君は、左大臣邸が自宅のひとつとなったのだった。ほかに光君は、二条院という、祖母と暮らした邸がある。
しかし、一番戻らなくてはならない場所が、左大臣邸となったわけだ。
それは、彼の北の方が、葵……つまり葵の上だからである。新婚の妻を方ったらかしにして、ふらふらと遊び歩いてはならないのは、どこの家も同じだろう。
惟光もそう思っていたが、光君は、結婚した後もなんだかんだと、いいわけをして宮中に宿直しがちだ。宿直は、簡潔に言えば宮中に泊まりで、仕事を行うという事である。
光君は働きづめになるほど、下っ端の身分ではないのだが、あれだこれだと言って、宮中にいたがるのである。
「いったいどうなさったんです? まさか元服した後に、藤壷様の元に行って、もう大人だから御簾の中に入ってはならない、と言われた事以外に、何かあったんですか?」
「あれも見られていたのか……」
「見てましたよ。うれしそうに藤壷様のいらっしゃる飛香舎に行って、しかり追い返されているのを、物陰から見てました。やりすぎたら、止めに行く予定で、構えておりました」
「惟光には、情けないところを見られてばかりだな……」
「あなたの乳兄弟ですからね。さて、元服の前からの顔色の悪さも治らないのに、葵の上様の元にも戻らず、仕事仕事と打ち込むのはどうしてですか? 休まれていないでしょう」
惟光の言った事に、光君は口ごもった後に、こう言った。
「私は……左大臣殿の屋敷に行きたくないのだ……」
これはよほどである。惟光はそう察した後に、立ち上がった。
「光君、とりあえず今日は宿直はなしにして、二条院に行きましょう。二条院には、母もいますし、腕っ節は頼りになる兄貴もいます。まずはそこで少しゆっくりしましょう」
「……仕事で左大臣殿の屋敷に行かないのはともかく……こんな理由で行かないのは……」
「そんなもの、方違えだとでも言えばいい」
「たまに思うのだが、惟光は時折すごい事を言う」
「大事な若君のためですからね」
惟光はそう言ってにやりと笑った。
「先触れは出しておきます。二条院の方にも、先に戻って支度をするようにさせますから、若君はあわてず騒がず、ゆっくりと来てくださいね」
「いつもありがとう、惟光」
そこでやっと、光君我少しばかりほっとした顔をしたので、惟光は適当な童に伝言を頼み、左大臣邸へ連絡させ、自分は飛ぶように二条院に向かったのだった。
「まあまあ惟光! 顔を見ないほど忙しいと思ったら、いきなり若様が帰ってくるなんて! なんて運が悪いの、今日は使用人を帰してしまったのよ、だからあなた、女物を着て仕事してちょうだい!」
「そんな理由で女物を!? お袋、出たとこ勝負すぎやしないか!」
「あんたお母さんの言う事が聞けないの!? 若様に不自由させていいわけ!?」
「そんなこと一言も言ってないでしょう!」
二条院では、二条院にいつでも若君が帰ってこられるように、と掃除から何からを一手に引き受けていた母がいた。だがしかし、間の悪い事に使用人達の家で病人がでたという事や、月のものが来たという事が重なり、使用人達を自宅に帰してしまっていたのだ。
そんな事情から、母は惟光に、細々とした事をこなす女使用人の振りをしろと、なかなか無茶ぶりをしてきたのである。
無理だと思った惟光であるが、文句を言いつつひらめいた。
これは羅生門の鬼の助言が生きてくるのではなかろうか、という奴である。
今、女の人の振りをして、羅生門の鬼の助言を試せば、光君以外にも、惟光だとわからないまま女性の振りが出来るのではないか、というわけだ。
よし、やろう。惟光はさっさと決断を下し、慣れない女物に袖を通した。男の衣装とは段違いに重い衣装だ。日頃女性達が、ゆったりとしか動けないのもさもありなん。膝を使いするように歩くのも道理だ、これは立って歩くのが厳しい重さと丈である。
そういうわけで、様子を見に来た惟忠兄が爆笑したものの、惟光の女装は仕上がったのだった。
そして最後に、惟光は、羅生門の鬼に教えられたとおりに書いた紙を、服の中に忍ばせて、光君が戻ってくるのを、雑用などをしながら待ったのだった。
「見ない顔だね、君は新しい使用人だろうか」
「はい、みづこと申します」
「みづこか……惟光は」
「色々な手配をすると言って出かけました。今日中に戻ってくるかもわかりませんので、私に任せると言付けていました」
「そうか……」
光君は、少しひきつった顔をしていた。女装しなかった方が良かったかもしれない、と思いつつ、惟光は光君の世話をした。
そして、光君はどうも、みづこに近付いてほしくない様子なので、出来る限り距離をとった。
呼べばこたえるけれども、即座に手が届かない距離である。
それは、おそらく光君にとって珍しい対応に違いなかった。
あらゆる女性から憧れられて、愛される光君に皆、近寄りたがるからである。
そうしないみづこは、珍しい女性と思われても仕方がなかった。
「みづこは、近寄ろうとしないのだね」
「若君が、それを求めていらっしゃらないご様子ですから。しかし、不便のないように、ここにいさせていただいております」
みづこは視界にも入ろうとしないので、気配を消せばいないような状態である。
それも新鮮だったのだろうか。それとも面白かったのだろうか。
光君の肩の力が抜けたのが、みづこには伝わった。
「みづこ」
「はい」
「惟光にも、話せない事を話したいのだ。お前は他言無用を誓ってくれるだろうか」
「若君がそれをお求めならば」
「ありがとう。近くに寄ってくれ。あまり大声で話したくない事なんだ」
言われたみづこは近くに寄った。それでも視界に入らないように気をつけたのだが、それはいやだったらしく、光君の方が向き直った。
「笑わないで聞いてほしいんだ。……私は」
光君はひどく言いにくそうに口を開いた。
「年上の女性が恐ろしいんだ……獣のように思えてしかたがない」
「何があったのです……?」
想像もしていなかった事を言われて、みづこはさすがにそう尋ねた。
すると、また口ごもった後に、光君はそうなった原因を話し始めた。
「元服の前に、男としての手ほどきという物を、宮中で受けたんだ。その時の相手の女性が、おそろしいほど目をぎらぎらさせて、鼻息も飢えた獣のように荒く、それは恐ろしい笑い顔で、……口にも出せない事をいくつもしてきて」
それを聞き、みづこは桐壷帝の選んだ、光君の手ほどきの相手がはずれだった事を知った。
その役割を担った女房は、光り輝く玉のような皇子を相手に、欲望の限りを尽くしたのだろう事も、察した。
惟忠兄貴がたまに教えてくれる、年下をむさぼり食う系列の女性だったのだろう。
……たしか朱雀君も手ほどきしたという噂だが、朱雀君はこう言っては何だがそこまで美少年でもない。そして次期帝である。
さらには、怒ると恐ろしい引徽殿のお方が母君で、後ろには右大臣がいる。
暴走できない事は明白な相手だったのだろう。
しかし、光君は家臣に落とされる身の上で、強力な後ろ盾の母親もいない、しかし欲望を抱きたくなるすばらしい容貌の美少年。
そして何も知らない状態から始まるので、何が悪くて何がだめかもわからないお育ちなのだ。下半身の話を容赦なくする兄貴がいるわけもない。
目も当てられない事をされても、それが普通だと言われたら、光君は育ち的に信じてしまうだろう。
そして帝に訴えられるわけもないのだ。ひどい事をされたと言っても、中身を具体的に訴えられるわけがない。
それに、帝からすれば、大人の階段を上がる事に対して衝撃を受けただけだろうと勘違いされやすく、流されてしまう。
……そんな事が起きたのだろう。
「そ、それが普通の男女の事だと聞かされたんだ。私は気持ちが悪くて仕方がなかった。三日もそれが続いて、終わったら葵殿との添臥で、葵殿も獣のように見えてしまって、は、吐き気がして……!」
心に相当な傷を負わされたらしい。相手はよほどがっついたのだろう。何も知らないまっさらな若君になんて事を、と惟光は相手に対して殺意に似たものすら覚えた。
「葵殿との結婚は、義務であり、父上がお望みの事だから、何とかすませたけれども、それ以上、私は葵殿にふれたくなくて……本当に、ふれようとするだけで、手がふるえて、恐ろしい夜を思い出して、言葉が思うように出てこないんだ。それでも、左大臣邸に行くと、葵殿は冷たい目をして、私を憎い物のように見つめてくる。本当にどうすればいいのか、わからないんだ……!!!」
光君は十二歳である。数えで十二歳なので、実際年齢としては十一歳か十歳の可能性もある年齢だ。その年齢で、これだけの目にあって、年上の憎しみを持った瞳の女性と和やかに過ごせ、といわれても出来るわけもなかったのだ。
惟光にはそれがよくわかった。宿直を重ねたのは、左大臣邸にも気を使った結果だという事も伝わった。
最適解も見つけられず、下手に誰かに相談すれば、笑い飛ばされてしまうと判断し、光君は己の知識で何とか、均衡を保っていたのだ。
葵の上は四歳年上の女性である。つまり俗に言う思春期の難しい年齢でもある。
それに加えて、いずれ帝の后になると思い思われて育ってきた女性で、后になる栄華の未来を思い浮かべて育ってきた人だ。
それがいきなり、いくら帝の最愛の息子といえども、家臣に下るやからの妻になれと言われれば、著しく矜持は傷つくし、さらにかなりの年下を相手にするのだ。
傷ついた矜持はさらに傷つくであろうし、子供だとさめた感情も抱くだろう。
それらすらわかってしまったみづこは、考えた後に口を開いた。
「若君があった事は、大変お辛い事だと思います。女を怖がるようになるのも仕方のない事でしょう。しかし、葵様の冷たい視線だけなら、あなたが動けばどうにかなるかもしれません」
「あんなに冷たい視線を向けられているのに……?」
「葵様は、ご自分の思い描いていた未来ではない現実を、まだきちんと受け止められていらっしゃらないのでしょう。葵様のお噂を耳にした事はありますか?」
「それは、ある。左大臣殿の一番すばらしい姫だと。兄上の后になるのではないかと、言われていたと」
「つまりはそこなのです」
「え?」
「自分は帝の后になる。そう信じて、そのために教養を磨いてきた純粋な乙女が、ある日いきなり、帝でも何でもない、家臣の妻になれと言われたわけです」
「……」
「帝の后になる事は、すべての貴族の女性の夢と言われる事です。ましてそうなると、周りからも目されていたすばらしい姫君。春宮側からも求められいたのに、ふたを開ければ家臣の妻。自分のこれまでが、ひっくり返った気持ちになり、受け入れられないのも仕方のない事なのです」
光君は目を見開いて、みづこを見ていた。思いもしなかった事、すばらしい若君だとちやほやされた人生を送ってきた彼からすれば、自分がそんな風に思われる存在になっていた事など、誰も教えなかった事である。
「惟光から聞きましたが、光君も、元服したとたんに藤壷様の御簾の向こうに入れなくなり、世界がひっくり返った気持ちになったのではありませんか? 昨日までと今日が大違いになる、そんな気持ちです」
「……葵殿も、そんな気持ちになっていると?」
「近い物はあると思います。自分の信じていた事が打ち砕かれる。そういう気分なのだろうと思います。だから、若君」
みづこは光君をまっすぐに見つめた。迷いなく。
「どうすればいいのか、わからないとおっしゃいました。ならば、小さな小さな一歩から始めるのです。まずは、憎しみのこもった瞳を向けられないように。咲いていた花がきれいだったから、それを贈るような小さな事から。その小さな事を重ねていく事で、歩み寄れる人生もあるのです」
「……」
「ふれ合うのが恐ろしいと言いました。ならば、触れ合わなくても、相手を気遣う心を見せるのです。ふれ合うのが恐ろしいから、とすべてから遠ざかると、相手の視線はいっそう酷くなりがちです。でも、誰かを気遣う気持ちが向き合えば、女性という物に対する恐ろしさも、少しは減るかもしれません」
そこでみづこはそっと笑った。
「現に、みづこはおそろしくないでしょう? それは、みづこがあなた様にひどい事をしない、と言う事がみづこの全てから伝わってくるからですよ」
「……そうだな、みづこは、怖くない」
そういって、光君はだしぬけに、みづこの手に触れた。
「みづこは、触れても吐きそうにならない」
「はい。まずはそこからでもいいのですよ」
「……そんなに小さな事からで、いいのだろうか」
「小さな事すら始めなかったら、何も動きませんから」
みづこの言葉に、光君は臆病な顔で笑った。
「ありがとう、みづこ。君で、女性という物に、すこしずつ慣れていきたいと思うよ」
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