第9話

 私が変身してから一年。

 研究は遅々として進まず、そんな最中にまた厄介な事が起きた。

 直哉が倒れたのである。

 体温は、今まで記録しているものよりもずっと高くて、そして全体的なだるさを感じると言う。身体の節々の痛みを訴える。

 栞は大学の仕事をほっぽり出して"看病"をする。ドラゴンにこうした疾患は見られない。ドラゴンは大抵症状がでないままに病状が進行し、何処かが壊れて、はっきりした頃にはすぐに死んでしまう生き物だ。そういう見地から言えば、直哉は命の危機にあった。

 栞は「そう言えば、人間の小説に風邪ってあったけど、これかも!」と叫ぶ。

 そして、栞と涼は必死に水晶板のデータを検索する。栞はこの件のエキスパートだから、その治療法らしいものは幾つか見つかった。

 解熱作用のある生薬を見つけてきたり、タオルで頭を冷やしたり、栄養のあるものを食べさせたり。

 勿論、これは医学情報ではなく小説の中に書かれた方法を実践しているだけである。

 私も出来る限りの事で手伝いたかったが、感染症だと危ないという理由で直哉は大学に搬送された。


 眠れない夜を過ごす。

 栞は大学に泊まるらしい。

 涼が私の面倒を見ながら、「人間なら治るみたいだから……」と自信なさげに私を励ました。

 その日は、涼と一緒に眠った。涼には私を押しつぶさないように気を遣わせてしまったかも知れない。彼女がやや寝不足だ。


 翌朝遅く、家に電話が掛かってくる。

「熱が下がったよ!」

 栞の嬉しそうな声が、離れていても聞こえてくる。

 念のため、もう一晩"入院"してから帰ってくるらしい。

 この夜は、私の方が涼を気遣って一緒に寝る事にした。


 さて、この一件、私が二晩眠れなかったと言う事と、直哉がうわごとのように、私の名前を呟き続けたと言う話で決着がついたように見える。

 だが、水晶板の情報が人間の命を助ける事に繋がるのだと分かった事は、栞の意識を新たにさせた。


 栞は、人間への変身の秘密はさておき、私達の命に関わる問題の方が先に解決すべきだと判断した。

 水晶板に関しては、半分が未解読だ。

 データのエントロピーから考察するに、"意味のある"データと推測されるが、どのような構造なのか、他の部分から推測する事は難しかった。

 例えば小説の解読は、言語学の分野から分かった事だし、画像データ圧縮は、我々の技術と同等の何かを持っているだろうと言う推測でが立ったが、未読領域はその手がかりがないのである。


「もしかすると、他にも水晶板があるのかもしれない」

 栞は、様々なルートを使って水晶板を探した。

「こんな緊急事態に何をするんだ」

 と言う意見も多かったらしい。

 確かに、世界の緊急事態に対して趣味を優先するような態度だ。これが私達の命に関わるという説明をしても態度は硬直するばかりだ。

 結局、自分の事が大好きなのだろう――それは自分も同じか。


 私は、ドラゴンというものを見限っている所があったのかもしれない。だから、大して期待していなかった。

 だが、蓋を開ければ、様々な情報が舞い込んできた。

 概ね伝承の類ばかりであったが、「これかもしれない」と、一枚の水晶板が送られてきたのだ。

 最初の水晶板を読み取った装置を参考にして、新たな読み取り機を作り出す。

 レーザーをミラーで走査し、周囲に取り付けたディテクターに読み込ませるのだ。

 装置の制作と読み込みに一ヶ月、解析に一ヶ月、それをデータとして使えるようにするのに一ヶ月。

 長い時間に思えるが、この作業量を考えると猛スピードなぐらいだ。

 その時の栞の瞳はいつになく輝いていた。

 それは研究者としてのそれもあったし、ヒトナーとしてもそうだ。だが、家族としてのそれもあったのではない。


 ドラゴンは、人間に冷淡とばかり決めつけていたから、このことは目から鱗が落ちるような体験だった。

 やはり、悪いものを悪いものだと見続けるのは健康に悪い。

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