第36話 さよならホッチキス
怪我をしたのが水曜日だったので、俺はいい気になって木曜日と金曜日を休んだ。そうすれば長い連休になるし。我ながら堕落していると思ったが、上司は特に俺を叱らなかった。最初の二日くらいはひどく疲れて眠ってばかりいた。食欲もあまりなかった。田中は「食べなきゃもっと死にますよ」と、おかゆとかおじやとかいかにも病人食らしいものを作ってくれた。別に普通のものでも食べることはできるのだが、何故か身体がとても疲れていたので、その程度のものでちょうど良かった。
「ただ転んで切っただけなのに、どうして食欲出ないんだろう」
田中の部屋にほとんど居候状態になり、俺はポカリばかり飲んでいた。ポカリの甘さが身体に染みる。
「何ででしょうね。あんまり勢い良く転んだから、相当エネルギー使って疲労したんですかね」
「疲れたなら腹減りそうなもんなのに」
「疲れ過ぎると、食欲もなくなりますよ」
田中おじやはカツオだしが効いていて非常に美味しかった。こいつ本当に何でも作れるな。もしここにいるのがLINE女だったら、こんなに良くしてもらえないと思う。あり得ないこと想像する必要は全然ない。
「風呂、ざっと入りますか?」
「うえー痛いから嫌だなあ」
病院からは、風呂は毎日入っておけと言われていた。シャンプーしないでお湯で傷口の部分をざばーっと流して終了しろとのことだった。仕方ないので田中に後ろから洗面器でざばーっとやってもらう。これは一人ではちょっとやりにくい。田中がいて良かった。しかしお湯がかかる刺激も結構きつい。
「痛い痛い痛いです」
「どれくらい痛いのか俺にはわからないけど我慢してください。はい、後は自分で身体洗って」
「はい、ありがとうございます」
田中が風呂場から出て行ったら、俺は嫌々顔や身体を洗った。頭がじんじんしていて、何をやるにも鬱陶しい。あーもう仕事辞めたい。一生眠って過ごしたい。どんどんダメ人間っぷりがひどくなっていく。あれ、俺ってちょっと痩せたかな。風呂から上がって体重計に乗っかってみたら、特に変化はなかった。髪の毛拭くのがこの上なく痛い。
「風呂、ありがとうございましたー」
「はい、じゃあ絆創膏付けますよー」
「俺なんか痩せたような気がしてたけど、体重計乗ったら変わらなかった」
「別に痩せてないと思うけど。食欲ないからそんな気がしただけじゃないですか?」
田中によるまったり看病生活は、文字通りまったり過ぎた。田中は仕事を休まなかったので、その間俺は眠ってばかりだった。念のため説明しておくと、俺は自分の布団を田中の部屋まで持ち込んで寝ていた。田中の部屋がその分狭くなったが、田中は全く問題にしていなかった。「一人で寝せておくの心配なので」と言って、俺が止めるのも聞かずに布団を無理矢理持って来た。というわけで、俺はもう一週間近く田中の部屋で引きこもっている。この様子は、やっぱり親には見せられない。込み入った事情を白状しないとしても、見られたくない。いいんだもうこの年だから。何でもかんでも親に白状しなければいけないわけでもない。そして俺の怪我は順調に治っていった。ちなみに、血みどろのスーツはオシャカになった。血のついたものは、クリーニングに出しても洗ってもらえないらしい。他の人の服も一緒に洗うからダメだと言われた。確かに逆の立場になって考えてみれば、他の人の血と一緒に俺の服を洗ってほしくない。残念ながら、一着おさらばだ。
一週間が経って病院に行ってみたら、あっさりとホッチキスが外された。俺は書類生活に別れを告げた。これでもう俺は紙じゃない。まだ傷は痛むけど。ていうか痛いな。痛いんです。こんなところに後頭部が存在するなんて、俺は生まれて初めて知った。ご存知ですか、人間は頭に怪我をすると初めてそこに頭があることを知るんです。こんなどうでもいい情報は一生知らなくて良かったけれど、もう二度と電話しながらぼんやり歩いたりしないと、俺は固く心に誓った。
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