第37話 ゼクシィ買いに行く
ホッチキス抜糸が終わった後に出勤して、やる気がないけど仕事して、LINE女に抜糸できたことを報告した。LINE女はもう俺の傷のことなどどうでもいいようだった。「それだけ元気なら心配することなかった」とか言われた。悪かったな、元気で。おかげさまで痛み以外に悪いところはないらしい。腕を少し捻ったけれど、それも大したことはない。日々の生活は田中がどうにかしてくれるので、俺は物凄く恵まれている。一人だったらどうしていただろう。それはそれでどうにかなったとは思うが、そもそも田中と電話している時に転んだので、田中がいなければ今回の事故も起きなかったかもしれない。
「田中さんってああいう感じの人だったのね。あれが料理上手のイケメンかあ」
LINE女は俺からの貢ぎ物のポカリを飲みながら、にやにやした。その笑い方やめろ。
「はからずも紹介することになっちまったよ」
「私もまさか田中さんに会えるとは思わなかったわ。かっこいいね。あれが彼氏かあ、いいなあ」
何を言う。あれは俺のだ。お前にはやらないぞ。え、俺ってば今、何か思いましたね。
「お前、声が大きいです。周りに聞こえたらどうすんだ」
「誰も聞いてないって。毎日看病してもらってるんでしょ? 山本さん恵まれてるよ。隣の家に住んでるなら便利だし何でもアリよね」
「まあな」
こいつの言う通り、何でもアリだ。何たって俺は既に田中の部屋に住んでいる。自慢じゃないが、この一週間ほとんど家に帰らなかった。歩いて三歩なのに。自分ちから荷物を持って来ようと思っても、田中が行くと言って聞かないから。
「鯖の味噌煮で泣けた翌日に怪我したんだよね。その後看病三昧だから、うまくいってるんじゃない?」
「それなりに。多分」
「お好み焼きじゃ済まないわね、これ。何かもっと高いもの巻き上げたい」
「じゃあ、今夜飯でも食いに行く?」
「行かない行かない。田中さんに妬かれるから。二人でイチャついてて」
なんのかんの言って、この女は理解してくれている。俺のダメなところも結構わかっている。俺が少しばかり素直になれたのも、この女のおかげかもしれない。こう見えても、俺はカンのいいこのLINE女にちょっと感謝していた。
「…ありがとな。なんかいろいろと」
感謝しているなら、やっぱりありがとうって言うべきだよな。
「礼には及ばねえ。明日も飲み物買ってきて。私、今度は綾鷹がいいわ」
「お前、このまま俺を永遠にパシリにする流れですかそれは」
「時々パシリしてもらうかもしれないけど、とりあえず明日で終了ね」
俺は急いで自動販売機に行って、綾鷹を買ってきた。LINE女に「これで終了にしてくれ」と言って渡したら、一応許してくれたらしい。
日を追うごとに、頭の怪我は徐々に痛みも感じなくなってきて、傷を下にして眠っても気にならなくなってきた。もう田中の部屋から布団を移動させてもいいのだが、何となく面倒で俺はいまだに田中家の居候だ。怪我をした当初みたいに眠ってばかりの状態も脱したし、普通にばくばく飯を食うようになった。もちろん田中の手料理が主だが。
一時間ほど残業してアパートに帰ってきて、久しぶりに自分の部屋に入ってみた。いかにも使われてません感が漂っていて、少し罪悪感がわいた。
「…掃除機でもかけようかなあ」
俺は地味に寂しくなる独り言を呟いて、掃除機を取り出した。田中も今日は残業らしく、まだ帰っていないようだ。暇つぶしに自分の部屋に掃除機をかけて、テーブルやパソコンやテレビの埃を拭き取った。俺、ここに部屋借りてる意味あるのかな。ここの毎月の家賃、払ってる意味あるのかな。ていうか、ないよな。かなりないよな。今や食費だって田中に払う時代に突入している。だいたい俺は田中の部屋の合鍵を持っているんだぞ。毎月十万近い家賃が、物凄く無駄なことをしている気分になってきた。あ、ヤバい。もしかして俺、何か考えてますか。新たな境地に一歩を踏み出そうとしてますか。
掃除が終わったので、俺は田中の部屋に移動した。もちろん、合鍵でだ。合鍵持っちゃう間柄。いやもうこれデキてるでしょ。今さら言うほどのこともなく、俺と田中はデキている。
「あー遅くなりました。え、どうしたんですか、そんなところに突っ立って」
田中が帰って来た。俺は田中の部屋の玄関に突っ立っていた。開いたドアを挟んだ中と外で、俺と田中は5秒くらい見つめ合う。ドアの外からやけに爽やかな風が吹き込んだ。いつの間にやら、すっかり秋だ。
「あのさあ、田中さん」
「はい。どうしたの? 何かあった?」
「俺たち、一緒に暮らそうか」
どたばたと大きな音を立てて、田中が俺の脇を通り抜けて部屋に入って行った。俺は唖然として田中を眺めていた。何でそんなに慌ててるの?
「山本さん! 何してんですか! こっち来て、早く!」
「え? え?」
「遅い! ぐずぐずしない!」
何か叱られるのかとびびりながら部屋に入ると、がばっと抱きつかれた。げっ、痛いです、頭が。まだ全快してないから、手荒に扱わないで。
「俺もう今すぐゼクシィ買いに行く。山本さん、披露宴の会場どこがいい?」
「え、田中さん、落ち着いて。誰にも披露とかしたくないんだけど。密やかに暮らしたい、俺」
「じゃあ、結婚指輪買いましょう。どこのブランドがいい? やっぱ4℃が定番ですか」
「指輪も買わないってば。ちょっと田中さん、血迷わないでください」
「もう死んでもいい。不動産屋行きましょう。ここらへん、腐るほどあるし。山本さんの好きなところに住みましょう」
あの、物凄く苦しいです、物理的に。ちょっと離して。そんな全力で抱きしめないでください、頼むから。俺、死にそう。
「山本さんがそう言ってくれるの待ってましたから、俺。超待ってましたから。この前、怪我してくれてありがとう」
「怪我のおかげなのかよ」
「あれで親密度が増した感は否めない。でも理由なんて何でもいい。今の事実が大事」
そりゃまあ、確かにそうだけど。怪我したせいで、ほとんど居候になってしまったし。居候している間に、一緒に住むのが自然体になってきただけで。でも、本当に一緒に住んだら、喧嘩とかしそうで怖い。俺は喧嘩が苦手だ。憶病者だから、うまく喧嘩できない。
「いいじゃないですかあ喧嘩なんて! 喧嘩するほど仲がいいって言うんですよ! 夫婦喧嘩は犬も食わないって言うんですよ!」
「おい、今心読んだだろ」
「うるさいなあ、たまにはいいでしょ! ケチケチすんなこのバカ野郎!」
「おい今バカって言ったな、もうやめた、絶対一緒に住まない!」
「ダメです、前言撤回不可です! もう絶対離さない、このツンデレ男!」
「いててて、おい、頭が痛い」
「あ、ごめんなさい。でも絶対離すの嫌だ」
あり得ないほどに取り乱している田中の様子に、俺は少し笑えた。こんなに喜ばれるなんて、思ってもみなかった。田中だけが嬉しいわけじゃない。俺もちょっと嬉しかった。しばらく経ったら、田中と俺は正式な同居人になっているかもしれない。喧嘩したらどうしようって思ったけれど、そんなことは取り越し苦労かもしれない。それよりも、今ちょっと嬉しくなっている自分の気持ちに素直になってみようとして、俺は田中の耳に噛み付いた。この耳が、変身すると狼の耳になることを俺は知っていたけれど、実はそんなこと大きな問題ではないことに気付き始めていた。
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