第32話 鯖の味噌煮

 鯖の味噌煮を一口食べてみたら、舌がジワリと痺れた。久しぶりに食べ物を口に入れたような感覚だった。味はもちろん美味い。お袋の作ったやつよりも美味い。田中の作るものは全てお袋のよりも美味い。おかしいな、よく「おふくろの味」とか言うのに、俺はお袋の味よりも田中の味の方がいいと思う。


「どうですか、鯖の味噌煮は」

「美味いです、凄く」

「それは良かった。味わって食べてください。マジで」


 なんだ、その「マジで」って。俺はご飯を一口食べて、豆腐とわかめの味噌汁を飲んだ。


「マジで、ってどういう意味ですか」

「真剣に食べてくださいって意味です。俺が作ったんだって思って味わって食べてください」

「はい…」


 生姜が効いてて美味しいな、この鯖の味噌煮。生姜なかったら、もっと違う味になりそうだ。こいつ何でこんなにお料理上手いんですか。才能ですか。子どもの頃からやってたのかな。味噌汁の豆腐は絹ごしで、柔らかくて舌に優しかった。鯖の味噌煮と味噌汁の組み合わせだって、全くいけると俺は思う。


「田中さん、いつから料理が趣味になったの?」

「子どもの頃から好きかも。食いしん坊だったから、俺。自分が食いたいもの作りたかっただけ」

「普通じゃない食欲の時も料理が好きだった?」

「いや、満月付近はあまり料理しない。食べたくないし」

「素朴な疑問だけど、家族全員狼なの?」

「俺と親父だけ。狼男のいろんなことは親父から教わった。お袋も妹も、俺らが狼男だってことは実は知らない」


 へえ、そうなのか。じゃあ妹は狼女じゃない上に、何も知らないんだな。


「そういう遺伝なの?」

「そうです。もし俺に息子が生まれたら、多分狼男だと思う」

「俺、田中さんの子ども産めない。ごめんなさい」

「何言ってんですか、産んだら怖いし」

「…子ども、ほしくないの?」

「いらないよ。子どもほしいって思ったことないな。結婚願望もないし」


 それを聞いて、少しほっとする。本当は子どもがほしい、とか思っていたらどうしようかとびびってた。そういえば、田中あまり食べてないな。え、まだ満月じゃないよね。と思ったら、鯖の味噌煮をぱくぱく食べ始めた。良かった。


「もうすぐ、満月かな」


 微かに不安になって、俺は聞いた。田中は味噌汁をすすりながら「うん」とこともなげに答えた。


「ぼちぼち食欲なくなってくる頃ですね」


 ということは、田中は無理して料理をしなくてもいいわけだ。いいのだろうか、俺、またコンビニ弁当にした方が良くないか。こいつが食べたくないのに、無理矢理料理させるのも悪い気がする。


「あ、でも山本さんが食べてくれるんで、喜んで料理しますし」

「…なんか悪いなあ」

「基本的に料理は好きなんで、心配御無用」


 あったかい味噌汁を飲むと、胸にまであったかいものが広がっていくみたいだ。味噌汁の味って、こんなに味わい深いものだったっけ。もう外は肌寒くなってきているから、余計にあったかさが胸に染みる。


「田中さんの作るもの、ホントいいね」

「そうですか? 良かった。味噌汁もご飯もお代わりありますよ」

「じゃあ、味噌汁もう一杯ください」


 キッチンへ行って、田中はもう一杯味噌汁を持ってきてくれる。まだあったかい。鯖の味噌煮食べたり、卵焼き食べたり、ご飯食べたり、野菜食べたり、味噌汁飲んだり。これ、物凄くあったかい晩飯だよな。田中がこれ、作ってくれたんだよな。全部田中の手で作ったんだよな。


「…ベタだけど、超愛情こもってるよな、この晩飯」

「そうですね、今日は特別にいろいろ入ってますから」

「いろいろって何?」

「目には見えないいろんなもの。言葉にもできない。まあ察して」


 察してって言われても、よくわからない。わからないけど、実は俺はさっきからまたワサビ現象が出ていた。鼻の奥がツンと痛い。特に味噌汁飲むと、ツンときてジワーとくる。


「だって、泣けるほど美味しいもの、ってのが山本さんからの注文だったでしょ」


 そうだった。俺が注文したんだった。LINE女が変なこと言うから、ついそれに引きずられて。でも、田中は全部わかってくれた。泣けるほど美味しいものが何か、わかっていた。俺にはわからないことが、こいつにはわかっていた。


「山本さん、ほら、ティッシュ。鼻水出てる」

「あ、ごめん」

「一番キテるのは味噌汁みたいですねえ」

「うん、味噌汁キテる。なんかもうあり得ない。俺、泣きそう」

「とっくの昔に泣いてるしね」


 俺、味噌味に弱いのかな。味噌で泣く男なのかな。よくわからないけど、鯖の味噌煮もかなり泣けた。生姜も効いてるし。卵焼きはオムレツとは全く違った味だった。同じ卵でも、和風と洋風って全然違う。小学生でもわかることを、今さら実感する。ただの生野菜ですら涙が出る。この和風ドレッシング美味しい。


「買ってきたドレッシングですみません。さすがにドレッシング作るの面倒だったから」


 サラダをもそもそ食べてる俺に向かって、田中は言った。


「田中さんて、ドレッシングとかジャムとかも美味いもの知ってるよね」

「食いしん坊ですから。自分の欲望に正直なだけ」


 え、今の言葉もう一度言ってください。


「今なんて言った? もう一度言って」

「え? 食いしん坊?」

「それじゃなくて。その後」

「自分の欲望に正直? ですか?」


 そうそう、それです。それ、俺もやりたい。それがうまくできない。欲望って言うと身も蓋もないけれど、要するに自分に正直にってことだよな。俺はご飯を食べて、卵焼きの最後の一口を食べて、きちんと噛んで飲み込んでから口を開いた。


「自分に正直になる秘訣、何か知ってる?」

「えー、突然そんなこと言われても。性格かもしれないですね」

「俺、うまくできないんだけど。正直になるのが」

「そうですね、素直じゃない山本さんは人生かなり損してますね」


 確かに損していると思う。損するのは悔しい。俺だって、人生得したい。同僚のLINE女なんかは人生勝ち組だろう。この田中も勝ち組だろう。今の時点で俺は負け組だ。このまま負け組で終了するのは何としても阻止したい。


「やっぱり人生損してるよな」

「ですね」

「俺、これ以上損したくない」

「だから今日、物凄くがんばって晩飯作ってあげたじゃないですか。泣ける晩飯だったでしょ? 素直に泣けばいいんですよ」


 言われなくても、俺はさっきからぼろぼろ泣いていた。鼻水が出る。ティッシュください。


「泣いてます」

「いや、足りないね。もっと泣いた方がいい」

「何で足りないってわかるんだ」

「俺が料理の中にバンバンいろんなもの入れたのに、まだ泣き方足りないなあ」

「料理の中に、一体何入れたんだよ。涙出るもの入れるってドラえもんかよ。どうやってそんなことするんだよ」


 俺、かっこ悪い。鼻水出る。涙出る。飯食いながら泣くなんて、生まれて初めて。でも、何故か泣ける。ただ美味しいから泣けるわけじゃない。本当にこの中に何か入ってる。


「ご飯、おかわりしますか?」

「いいです、結構食べた。腹が一杯っていうか、胸が一杯」


 またティッシュを失敬して、ぶーと鼻をかむ。向かいに座っていた田中が、俺の隣に来た。ぐすぐす言ってる俺の肩を抱いて、「もっと泣け、バーカ」と言った。どうせ俺はバカだ。素直じゃないし、正直でもない。思ったことは暗いところでやっと呟ける程度だし、非日常の吊り橋効果の中でしか言いたいことも言えない。


「山本さん、俺が狼男なのが、寂しいんだよね」


 田中の頭が俺の頭にごつんと当たる。別に痛くなかった。


「…寂しいです」

「だから、一生人間でいますってメールしたでしょうが」

「それでも寂しい。どうして?」

「うーん、それは仕方ない。俺と山本さん、同一人物じゃないから」


 よくわからない。どういう意味だろう。田中と俺が別の人物だってことくらいは、俺でもわかっている。


「結局さ、人間一人だからね。どんなに好きな人がいても、その人と同じ人にはなれないし。それで寂しくなることはあるかも」

「じゃあなに、俺は田中さんになりたくてもなれないから寂しくて泣いてるの?」

「ちょっと違うけど、それと似てるかもね」


 やっぱりよくわからない。これ、LINE女ならわかるのか? わからないのは俺だけなのか?


「そうか、山本さんって本当に恋したことなかったのか」

「え、そんなことありません」

「いや、そんなことある。絶対ある。初恋だから戸惑ってるんだ」

「ええええ、俺もう三十路になるんですけど」

「年なんか関係ないし。今の山本さん見てると、自分が激しく恋してるのについていけなくて戸惑ってる姿にしか見えない」


 俺、こいつに激しく恋してるんですか。まあ恋はしてると思うけど、激しくですか。これが初恋なんですか。幼稚園のたんぽぽ組の頃に好きになったエミちゃんが初恋だとばっかり思ってたのに、違ったんですか。エミちゃん、ごめん。


「エミちゃんが初恋だと思ってたのに」

「誰ですかエミちゃんって。どこの誰ですか。今すぐそいつを殴りに行こうかやあやあやあですよ」

「古い歌だな。幼稚園の頃に、初めて好きになった子。なんとかエミちゃん。顔も忘れた」

「山本さん、そんなのは初恋の数に入りませんから」


 何だかあり得ないほど胸が痛い。俺、どこか悪いんじゃないのか。息も苦しい。鼻詰まってるし。なんてことを経験するのは、別に初めてじゃない。田中に出会ってから、何度も何度もあった。そのたびに見ないふりをしてきた。そうだ、俺は見ないふりをしてきたんだ。初めてこいつの金色の目を見た時も、こいつが美人にナンパされたのを見た時も、こいつの目を舐めた時も、一緒にドライブに行った時も、鍾乳洞の中や川のほとりでも、そしてこいつが狼になった姿を見た時も、いつも俺は胸が痛くて息が苦しくて鼻の奥がツンとした。それが何を意味するのかは追及しなかった。怖くてできなかった。ちくしょう、涙が出てしょうがない。男のくせに、俺は泣き過ぎだ。でも、男だって涙が出てもおかしくない。泣くのは女の専売特許ってわけじゃない。あんまり涙が出るから、ついでにしゃっくりまで出てきた。田中が俺を抱きしめる。


「…素直じゃなくて、ごめん」

「ホント、素直じゃないよね、山本さんて」

「素直になる方法がわからない」

「その調子で大泣きしてれば、多分1時間後にはそこそこ素直かも」


 泣けばいいのか。大泣きすれば、人間素直になれるのか。俺は田中に抱きついて、大泣きに泣いた。田中のシャツに俺の涙とか鼻水が付いた。でも、田中は気にしなかった。そうだよ、俺は田中と出会って後悔なんかしていない。田中を好きになって嫌なことなんか何もなかった。こいつは俺を凄く好きでいてくれる。凄く安心できる。気を許せる。多分一緒に暮らしていても、何の違和感もないと思う。


「山本さん、今日泊まってく?」


 田中がぼそっと呟いた。俺は黙ってうなずいた。今さらうちに帰れるか。こんな大泣きの状態で一人で寝るとか残念過ぎる。付き合え、田中。全部お前が悪い。もう嫌だ。俺、明日、仕事休む。


「…田中さん、狼に変身してもいいです」

「えっ、せっかく一生人間でいますって宣言したのに。何それ」

「変身してもいいけど、一人で変身するの禁止」

「ああ、一緒に見に来るわけですね。いいですよ」

「今度いつ変身する予定?」


 田中は俺を抱きしめたままで笑った。胸を通って身体の振動が伝わってきた。


「別にいつでもいい。無理して変身しなくても、生きていけるから、俺」


 こいつの声って、結構低かったんだな。今、初めて気付いた。田中の微妙に低い声が、耳に心地よかった。


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