第27話 狼
その夜、俺は信じられないものを見た。田中に連れられて暗い山道を歩いて行って、「しばらくここで待ってて」と言われた場所で待っていたら、目の前に大きな犬が現れた。
『犬じゃないってば』
しかも喋った。日本語じゃないのに、何を言っているのかわかる。何ですか、この大きな犬。
『俺の話聞いてなかったんですか。狼男だって言ったでしょ』
「え、田中さんですか」
『田中です。今は狼モード』
信じられない。狼がこんな近くにいる。近付いてくる。俺の目の前で座った。
「…触っても怒らない?」
『なんで怒らなきゃいけないんですか。せっかく狼モード見せてあげてるのに』
しゃがんで、そっと狼の毛を触ってみた。ふわふわしているような、ごわごわしているような、不思議な感触だった。あ、目が光った。
「…ホントだ…田中さんですね…」
この目は、田中の目だ。金色に光る目。俺が愛してる目の色だ。舐めると物凄く甘い。ってことを知っているのは俺だけだ。
『いくらでも触っていいですよ。噛んだりしませんから』
「もし狼モードで人を噛んだらどうなるの?」
『軽く死にますね。噛まれた人が』
「じゃあ、噛んでみて。殺してみて」
『嫌ですよ。そしたら山本さんがいなくなっちゃうじゃないですか。俺どうすればいいの?』
「…そうだよな、それ困るよな」
凄く不思議だ。俺、狼と喋ってる。しかもこの狼、田中なんだ。こいつ、田中なんだ。田中って人間じゃなかったんだ、本当に。どっちがホントの田中なんだ。狼なのか、人間なのか。こいつ俺と同じ生き物じゃないんだ。
「…同じ生き物じゃないんだ…」
言葉にしたら、物凄く寂しくなってきた。また鼻の奥がツンとしてきた。俺、また泣くの?
狼の田中を、ぎゅっと抱きしめてみた。あったかい。でも、人間の身体じゃない。人間と同じようにあったかいけど、今の田中は人間じゃない。
『山本さん、泣かないで』
頭の中に、田中の声が響いてくる。喋ると言っても、人間の言葉じゃない。
「泣いてない。田中さん、ずっと狼のままじゃないよね?」
金色の目を見たら、凄く綺麗に輝いていた。狼の田中が、俺の顔をぺろりと舐めた。大きな舌。やっぱり人間じゃない。だけど、舐められる感触は田中のそれと同じだった。
『変身は自由だって言ったでしょ。してもしなくてもどっちでもいいんです』
「一生人間のままだったら、どうなるの?」
『時々は変身しないと、身体がなまっちゃいますね。それくらい』
「…人間に戻って」
狼の鼻が、フンフンと俺の鼻先で動いている。いい匂い。全然動物くさくない。俺は田中狼の鼻にキスをした。
「人間に戻ってよ」
『そうだなあ、その前にちょっと一走りしてきてもいいですか?』
え、ここからいなくなるんですか。真っ暗な山ん中に、俺一人残されるんですか。ちょっと怖い。
「…どれくらいの時間かかる?」
『そうだな、30分くらいかな』
「え、長い。もっと短く」
『ああ、わかりました。今日はやめときます』
なんだ。別に走りに行かなくてもいいのか。一人で取り残されるのは、余りにも心細い。空を見上げると、まだ満月には少し遠いけど、真っ白な月が出ていた。
「田中さん、人間に戻ってよ」
『はいはい。じゃあちょっと離して』
「嫌だ。このまま人間に戻ってください」
『え、それ無理。危険です。変身してる時は離れてください、お願い』
どんな変身の仕方するんだ。危険な変身の仕方ってなんだ。
『ちょっと火花とか煙とか出るんで。もしかしたら、怪我させちゃうかもしれないから』
「怪我してもいい。ここで人間に戻ってください」
『我が侭だなあ、山本さんて。気持ちはわからないでもないけど、危険なことはしたくないんです。お願いだから少し離れて』
仕方なく、俺は抱きしめていた田中狼を離した。が、離れ難くてまた抱きしめてしまった。
『もう、なんなんですか。戻ってほしいの? ほしくないの?』
「…人間に戻ってほしいです。でも離れるのが嫌だ」
『山本さん、今のあなた凶悪なほどに据え膳なんですが。狼のままだと殺しちゃうんで、人間に戻らせてください』
顔をべろべろと舐められる。犬より大きいから、力が結構強い。俺は思わず尻もちをついた。田中狼がじゃれついてきた。尻尾ふってる。犬みたい。
『いいですか、ここから動かないでくださいよ。動いたら探せなくなるかもしれないから』
「どういう意味?」
『人間に戻ると、狼の時より鼻が効かなくなるから。いいですか、絶対動かないこと』
「は、はい」
尻もちついてる俺を置いて、田中狼が走り去っていく。ちょっとどこまで行くの。ていうか、消えた? あれ? どこに行った? 俺は思わず立ち上がって少し歩いてしまった。いかん。動くなって言われてた。周囲は何の音も聞こえない。木々が風に吹かれる音だけだ。人もいないし、道路は遠い。もし田中が帰って来なかったらどうしよう。俺、迷子? 物凄く不安だ。田中、帰って来るよな。早く帰って来い、田中。
「おーい…まだですか…」
呟いてみるが、何の音もしない。足音も聞こえない。走りには行かないって言ったよな。だからもうすぐ帰って来るよな。もう嫌だ、早く帰って来て。俺、別に根性なしってわけじゃないけど、この状況はさすがに不安。
「田中さーん…」
何も聞こえない。
「田中のバーカ…」
試しに心にもないことを言ってみる。あいつのことバカだなんて思ったことないし。俺、寂しい。田中、早く帰って来てください。
「…山本さーん、ここここ、今行きます、ちょっと待って」
何だって。今の田中の声ですか。どこですか。どこ! 俺は物凄い勢いで周囲を見渡した。いた! 前方約15メートル! 俺は迷わず走った。つまずきそうになりながら走った。
「えっ、ちょっと待って危ない」
待たない。そこにいろ、田中。やっと会えた。
「…山本さん…超絶かわいいです」
「それ禁止って言ったぞ」
「いやでも他の表現が思い付かないし」
田中に抱きついたら、田中はしっかり人間に戻っていた。人間の肩だ。人間の腕だ。人間の首に人間の髪。目は金色のままだけど、耳も鼻も唇も人間のものに戻っている。俺は人間の田中の唇に噛み付いた。人間ですよね、お願いだから狼に戻らないでください。人間の腕で俺を抱きしめろ。
「うわーもうどうしよう。今すぐここで犯したい…」
「うるさい、黙ってろ、バカ」
痛いほど抱きしめられた。なんか嬉しい。
「さっきもバカって言いましたね、聞こえましたよ、田中のバーカって微かに」
「お前が帰って来ないからだ、バカ」
「置き去りにするわけないでしょ、レンタカー返さなきゃいけないし」
そうだった、今日の車はレンタカーだった。あの白い車。そう言えば今日はレンタカーで奥多摩の奥までドライブに来たんだった。今の田中狼出現で、今日一日のことは軽く忘れられる。
「もう、狼になんかならないでください、お願い」
「えー。せっかくサービスで見せてあげたのに。ウケなかったの?」
「ウケなかった。むしろ俺ショック」
鼻水が出そう。鼻の奥が痛い。鼻をすすったら、田中が俺の顔を覗き込んだ。
「泣いてんですか?」
「泣いてない」
「やだなあ、超泣いてるじゃないですか。顔びしょびしょ」
ええい、うるさい。俺は確かにびしょびしょになってる顔を手で拭った。もうこいつ嫌だ。どうして狼男なんだ。どうして普通の人間じゃないんだ。どうして俺とこいつは同じ種族の生き物じゃないんだ。寂しくて胸が痛い。
「あ、ごめんなさい」
田中がいきなり謝る。何ですか。
「心読んじゃいました。ごめんなさい。かえって不安にさせちゃいましたね、俺」
「心読むなってもう百回以上言った」
「だからごめんなさいって謝ってるじゃないですか。でも溢れまくってる時は聞こえちゃうんで、ホント許してくださいよ」
「いや、許せない。もう絶対に許さない」
「…じゃあ、何すれば許してくれますか?」
何すればって言われても。特に何か考えてるわけではない。今はとにかく田中が許せない。別に心を読んだから許せないわけじゃない。狼になるから、狼男だから、人間じゃないから、同じ種類の生き物じゃないから、どうして出会ってしまったのかわからないから、とにかく許せない。
「何すればいいかはわからないけど、もう家に帰りたい」
「そうですね、遅くなるから帰りましょう」
「帰ってもう寝る」
「えっ、一人でですか。俺、泣きますけど」
俺は何も言わなかった。一人がいいとはとてもじゃないけど言えなかった。だからと言って一緒にいたいとも言いにくかった。うまく言葉にできなかった。
帰りの車の中で、俺は無口になってしまった。これ、俺のキャラと違う。違うけど、何故か口が開かない。田中は無理に俺に話しかけることはなかった。多分、心も読んでない。読んでないけどどうせ俺の中身はダダ漏れなんだ。きっと何しても無駄。俺の考えてることなんか、こいつにはとっくにわかってる。
アパートに帰りついて、俺は自分の部屋に帰ろうか、しばし悩んだ。102号室と103号室の間で、しばらくうろうろしていた。何なんだ俺は、自分の家も忘れたのか。結局、102号室の田中の部屋に強引に連れ込まれた。田中は強引だったけれど、その夜はひどく優しかった。あり得ないくらい優しくて、俺はちょっと不安になった。
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