第21話 eメール
仕事している時間は結構長いのに爛れた時間は一瞬で過ぎるということを、俺は三十路を前にして初めて知った。そして本気出して爛れると、人間どこまでも爛れることができることも知った。そして爛れた生活には悪魔的魅力があることも、知ってしまった。これ多分、全部相手が田中だからだと思う。普通の女の子相手に、絶対こうはならない。普通レベルだったらせいぜいだらしなくなる程度だけど、田中相手だとヤバいくらいマジで爛れてしまう。もうトロトロのドロドロだ。もはや誰も助けてくれないところまで来た。自分の実家がどこにあるかわからない程度だ。ホント帰り道わかりません。俺もう両親の顔見られません。盆暮れ正月とかもう帰りたくありません。無理。絶対無理。どうしよう。頭が切り替わらない。どうやって昔の俺に戻ればいいの?
「山本さん、こぼしてるけど」
隣から何か聞こえる。何ですか。
「デスクの上にサンドイッチの汁がこぼれてるんだけど。もうすぐパソコンのキーボードに当たりそうなんだけど」
えっ、それは嫌だ。俺は慌てて自分のデスクの上を見ると、食べかけのサンドイッチからトマトの汁が滴り落ちていた。これヤバい。ティッシュで拭いた。
「…火曜日に休んでからなんか変じゃない? まだ具合悪いの?」
なんだ、俺がLINE入れてないってバカにする女か。心配するな、俺は絶対LINEやらない。
「具合は悪くないけど。今日金曜日だし。また週末よく休むから」
「だね。それにしても、ぼーっとしてるよね、休憩時間なんか」
「そうかな。うーん、なんだか食欲なくてさ」
「そりゃあ毎日コンビニランチじゃねぇ。彼女に美味しいものでも作ってもらったら?」
「作ってもらってるから、ご心配なく」
「えっ、山本さん、彼女いたの?」
正確には、彼氏だ。しかも人間じゃない。人間じゃないくせに、普通の会社に普通の顔して勤めてる。ていうか、何でそんなに驚くんだよ。そんなに彼女(彼氏)がいるのが意外かよ。
「まあそこらへんはぼやかしといて」
「あーわかった。聞かなかったことにしとく」
そんなこと言って、来週には同僚全員に噂が回ってるに違いない。もういい、俺は諦めてる。
「悪いけど、今日も定時で帰るから、俺」
「いいんじゃない? 今あんまり忙しくないから、みんな早く帰ってるよ」
残業なんかしてられるか。こんな状態で会社になんかいられるか。いや、残業あんまりないからナチュラルに帰るけど。俺は早く帰って田中に会いたい。とりあえず会いたいって思う時点で脇道に滑り落ちてる。まだ昼休み中かな。スマホを取り出して、頑固にもメールで話しかける。
『俺、今日定時で上がります。そっちは?』
すぐに返事がある。いいことだ。
『少しだけ残業あるかも。でも大したことないと思う。なるべく早く帰ります』
ああ、これはもう結婚してる。余裕で結婚してる。どっちの苗字かわからないが、俺とあいつは同姓同名だ。
『今夜、また泊まってっていい?』
こんなこと聞くかよ。メールに残すかよ、俺。
『当然ながら、金曜の夜から月曜の朝まで帰さない予定』
『マジレスすると爛れ切った生活に戸惑いを禁じ得ない』
『こういう時は我に返っちゃダメ』
そうか。そうだよな。我に返るのだけはやめておいた方がいい。
『じゃあ予定通り爛れた週末にする』
『心配しなくても俺の腕の中で俺以外何も見えなくさせてあげますから』
…あ、ダメだ。まだ昼間だっていうのに。午後の仕事が残ってるのに。田中との爛れに爛れ切った生活が頭の中をよぎっていく。記憶だけの快感で気が遠くなりそうだ。…そういえば、田中に言われてた。時々俺は無駄に色っぽいフェロモン出してるらしい。そんな時は何でもいいからトイレにでも駆け込んで落ち着くまでこもってろって言われた。今の俺、そうするべきですか。そうするべきですね。はい、トイレ行ってきます。用はないけど。
午後の仕事は長かった。たったの4時間程度なのに。たったの4時間。あっという間だろ。それがこんなに長く感じるなんて、俺はいい加減仕事を干されるんじゃないかと危機感が襲ってくる。大丈夫だよな、この4時間ちゃんと働いてたよな。5時を過ぎたのでパソコンの電源を落としてデスクの上片付けて、俺はさっさとタイムカードを押した。誰も俺に話しかけるな、特にハゲ。このまま帰宅させてください。
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