第19話 爛れた生活
今朝、俺は転落の一歩を踏み出した。
「すいません…ちょっと具合悪いんで、休ませてください…明後日は行けるようにします、はい…」
キッチンでは田中が相変わらずオムレツを作っている。おい、鼻歌やめろ。電話の向こうの上司に聞こえたらどうすんだ。
「はい、すいません、ありがとうございます…はい。じゃ、失礼しまーす…」
ああっ!! どうすればいいんだ、俺は有休を取ってしまったじゃないか。まだ火曜日だぞ。月曜日に仕事に行っただけだぞ。こんなことしていたら、本当に職あぶれてニートになるぞ。
「…一日くらい休んだって死にゃしませんよ。何をそんなに苦悩してるんですか?」
ピカチュウ色のオムレツが乗った皿を持って、田中は呆れた声を出す。
「お前、仕事サボるのに罪悪感ないんですか?」
「別に。繁忙期じゃないし。それより山本さんと爛れた生活する方が百万倍楽しい」
「爛れた生活とか言うな」
正直、田中の言っていることの方が正しい。とっくの昔に俺と田中は爛れてる。出会ったばかりなのに。愛し合うのに時間必要なさ過ぎだろ俺とこいつ。出会って何日? もしかしてたったの十日くらい? もう嫌だ俺の恥知らず。
「食べないんですか、オムレツ」
「…食べます。餌付けされてますから」
「山本さん、どんどん正直になってきていいですねえ」
「うるさい」
田中のオムレツ食べるの、これで何回目だろう。数えようと思えば数えられるけれど数えたくない。これから先、何度オムレツが食べられるだろう。え、俺たちいつか別れるの? あまり考えたくない。黄色いオムレツに箸をつける。
「美味しいですか?」
「美味しい…けど…」
「えっ、何か問題あります? 塩加減ダメだった?」
「いやいやいや美味しいです。美味しい美味しい超完璧」
「…どうかしたんですか? ホントにどっか痛いの?」
どこも痛くはない。多分。いや、どこか痛い気がする。どこですか。
「ああ、わかった。山本さん、それは恋煩い」
田中が箸で俺の顔を指差した。だからそういうことするな、礼儀知らず。
「なんだよ、恋煩いって」
「俺といつまで付き合えるかとか、後ろ向きなこと考えてません?」
「…心読んだの?」
「あ、当たりだったか」
心読んだわけじゃなくて、顔色を読んだのか。何でも読まれていてつまらない。俺は田中の心の中も顔色もうまく読めないのに。結局最初から、ダダ漏れなのは俺の方だけか。
「大丈夫ですよ、かなり長い時間かけて山本さんのこと狙ってたんで。俺も頑張ったんです」
「何を頑張ったんだ」
「いやあ、チャンスはいくらでもあったんですけど。なかなか声がかけられなくて」
意外だ。田中だったら、狙ったら一瞬で声かけそうだけど。
「そんなに時間かけなくても、俺なんかちょろいからあっという間だろ」
「そんなことないですよ。前の彼女と切れるまでずっと待ってたし」
「えっ、そんなに長いこと?」
オムレツの最後の一口を食べようとしたところで、かなりびっくりした。前の彼女って4年以上前じゃないか。俺ですらもう忘れかけてたのに。何だよもっと早く言ってくれよ。そしたらこの4年ずっと付き合えたのに。
「ま、その頃は俺も別の女の子と付き合ってましたけど。山本さんとアパートの入口ですれ違って、あ、もう女と別れようって思いました」
「何それ初めて聞いた」
「だって今初めて話してるんですから、当然です。オムレツ落ちますよ」
慌てて最後の一口を食べた。今日も安定の美味しさだ。この満足感、俺だけのものにしたい。
「俺の好みだったんですよね、山本さん。そのメガネが好きで」
え、メガネフェチですか。
「メガネかけてる男なら、腐るほどいると思うけど」
「メガネなら何でもいいってわけじゃないですよ、当たり前だけど」
「あ、そう。顔が好みだったのかな」
「うーん、バイオリズムみたいなもの?」
バイオリズム?…言われていることがよくわからない。
「何となく、呼吸が似てるんです。見ているものとか」
いよいよよくわからない。
「うーん、まあいいや。一目惚れです、つまり。ずっと隣に住んでたのか、損したなーって思いましたね、最初は」
「それを言うならこの4年ずっと損し続けてるでしょうが」
「まあね。でも狙った獲物は逃さないから、俺」
食器を一緒に片付けながら、俺はずっと田中の話を聞いていた。そんなに昔から一目惚れで惚れられていたと思うと、悪い気はしない。が、田中が同性であることを既に認めている俺は、やっぱり昨日で終了した。
「でも、変なところで声かけたら怪しまれるでしょ」
「公園であんな風に声かけられても怪しかったけど」
「どっちみち怪しいですよね。今回ばかりはホント賭けたな。うまくいって良かった」
俺は複雑な気分だ。なし崩し的にここまで来てしまった感じがして、俺の意思がどこにあるのかわからない。
「コーヒー、もう一杯飲みます?」
「あ、俺がいれます。インスタントだし」
「え、地味に傷付く、その言い方。コーヒーメーカー買いますか?」
「いいですよ、俺もゴールドブレンド好きだし。常備してるし」
「牛乳も同じ銘柄ですしね」
「バイオリズムってその辺とか?」
「いや、ちょっと違う」
なんだ、そういうことではないのか。やっぱりよくわからない。
「いいじゃないですか、難しいこと考えなくても。山本さんのことが好きなんですよ。それだけ」
「…俺なんかのどこがいいんだろう。わかんない」
「そうだな、俺に流されちゃって止まらないところとか?」
「そんなの長所じゃない」
「別に長所を好きになるわけじゃないでしょ。とにかく、この人俺に絶対流されてくれるって一目見てわかったんで」
つまり流されやすい奴が好きなんだろうか。それでどうして俺なんだろうか。
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