第16話 明日も仕事なのに

 残業の必要もなく、5時過ぎには会社を後にすることができた。午後はミスをしなかった。時刻が遅くなればなるほど、早く仕事終わらないかなとそわそわしていた。どうして。それは早く田中おでんが食べたいからだ。あくまでも、おでんが主体だ。俺はおでんが好きだ。決して田中に会いたいとか、そういうことじゃない。俺は俺自身にどこまでも抵抗する。抵抗やめちゃえば楽なのに。田中の「往生際悪いなあ」という声が、脳みその中に響く。やかましい。


 最寄り駅の自動改札を出ると、少し離れていつものスーパーの入口が見えてくる。やたらと明るいので、余計なものを見てしまった。あれは田中だ。


「ん? 一人じゃない?」


 スーパーの袋をぶら下げた田中は、何やらとっても綺麗な女の人と立ち話していた。俺は思わずそこにあった本屋の影に隠れてしまった。何故隠れる。もちろん何を言ってるのかは聞こえないが、とりあえず物凄く楽しそうだ。しかもホントに美人だ。田中も無駄にイケメンなので、妙にお似合いだ。もしかしてスーパーナンパじゃないだろうな。ていうか何でナンパしてんだよ。お前今ナンパする必要あんのかよ。ついこの前、俺のことナンパしたばかりじゃないのかよ。いつまで話してんだよそこの二人。あ、二人して同じ方向に歩き始めた。俺も思わず後を追う。こっちって俺らのアパートの方角じゃないか。どうしてこのカップル、仲良さそうに連れ立って歩いてるの。俺はビールを買う用事をすっかり忘れて、二人を尾行してしまった。当然ながら、うちのアパートの前まで来た。美人は会釈して、ちょっと手を振りながらさらにその先へ去って行った。田中もアパートの前で手を振っている。何あれ。俺、見たらいけないもの見ましたか。どうしよう。とりあえず電信柱がそばにあったので、その影に隠れてみた。田中はもう部屋に入ったか。


「山本さん、何やってんですか、そんなところで」

「わあ」

「今、俺のこと尾行してたでしょ。声かけてくれればいいのに、なんで隠れるの?」


 田中が俺の目の前に立っていた。確かに田中だ。今日のネクタイは黄色か。ピカチュウ色だ。こいつ結構オシャレだな、黄色いネクタイが似合う。


「お、お、女の人と歩いてたから、お邪魔かと思って」

「何どもってんの。別に邪魔じゃないし」

「楽しそうだったじゃないか」

「ああ、ナンパされたんですよ。一応愛想笑いくらいしとこうかと」


 なんだって。女からナンパされたのか。俺はそんなことされたことないぞ。


「ナンパされた、って。あんなところでいきなりナンパされるもんなのか」

「俺、イケメンらしいので。たまに女性からナンパされます」

「俺はされたことないぞ」

「俺がナンパしたじゃないですか。十分じゃないですか」


 十分じゃないですか。何か違う。違う気がする。一生に一度ナンパされたのが男からの俺は何か違う。


「そ、それで、ナンパされてどうしたんだよ」

「いや別に。帰り道の方角が一緒だっただけ。尾行してたなら見てたでしょ。あの人は帰りましたよ、もう」

「つ、次に会う約束とかしたわけ?」


 おどおどしている俺をじっと見て、田中は「まあ帰りましょう」と俺の腕を掴んで引っ張った。またかよ。俺はいつも田中に引っ張られて帰っていないか。


「離せって。スーツがシワになるだろ」

「ああ、すいません。まあとにかく入って。早く」


 と言われて、ここはもう田中の部屋の前だ。田中が鍵を開けて、ドアに手をかける。


「入って。ほら、早く」

「え、ここって田中さん家」

「だから早く。おでん食べるでしょ?」

「は、はい」


 この十日ほどで、一体何回この玄関から出入りしているのか俺は。やっぱりほとんど半同棲状態じゃないか。


 玄関先で、田中に中へ入るように急かされる。靴を脱いで上がる。田中がドアの鍵をかけた。チェーンはかけなかった。


「ほら、部屋行って」

「え、はい」

「あ、カーテン閉めてくれますか。そろそろ暗いし」

「は、はい」


 そこらへんにバッグを置いて、言われた通りに窓のカーテンを閉める。急に部屋の中が真っ暗になった。


「はい、こっち」

「え?」


 こっちと言われても、暗くてよくわからない。あ、田中の目が。目が光った。と思ったら、軽く突き飛ばされて俺はベッドに腰かける。


「嬉しいなあ、ヤキモチ焼いてもらった」


 何だと? 誰がヤキモチなんか焼いた。そんな覚えは俺にはない。反論しようとしたら、田中の手のひらが俺の口をふさいだ。


「山本さん、ホントわかりやすい人ですよね。何考えてるのか丸わかり」


 俺がもごもご言っても、田中は聞いてくれない。


「あなた俺のことが好きなんですよ、つまり。俺が知らない女と話してたから、不安になったんでしょ」


 そんなことはない。断じてない。


「俺、おでんよりも山本さんの方が食べたい。ちゃんと安心させてあげますから」

「やっやめましょう、まだ夕方」

「いやもうすぐ夜ですから。大丈夫大丈夫、俺は今、山本さん一筋だから」


 おい、勝手に服脱がせるな。勝手にネクタイ抜くな。


「やめましょう、明日も仕事だし」

「嫌です。やめません。俺をその気にさせるあなたが悪い」

「俺何もしてないのに」

「ホント無自覚で困った人だなあ。俺もう絶対山本さん離しませんからね。世界で一番好きです」


 …そして結局、俺はまた抵抗すらできずに田中の言いなりになった。困ったことに、痛みが少し軽減していた。それだけではなく、ちょっと気持ちよかった。どうしてですか。ケツの穴ってそういうものですか。何か変なドロッとしたものたくさん塗られるから、痛いのは少しだけで済むし、当たり所が悪いと(いや良いのか)超気持ちイイし、ちょっと意識飛ぶし、何もかもあり得ない。既に俺は一般的な人生のレールから遥か彼方に外れまくってもう何も見えない。ここはどこ。俺って誰。お願いもうやめて気持ちイイから。頭の中が真っ白。


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