第15話 おでん

 月曜日の朝は、世界で一番憂鬱だ。これから5日間も続けて働かなくちゃいけないんだ。土曜日の休日出勤なんかあろうものなら、上司の前で涙を流してもいい。しないけど。この時期はあまり忙しくないので、残業も休日出勤もなくて助かる。最寄り駅のホームで電車待ちをしていたら、胸ポケットに入っているスマホが振動した。


『今日何時頃帰りますか? 季節先取りしておでん作ってますから来てくださいね。ていうかLINE入れて。不便だから』


 おでんか。もうおでんの季節か。そういえばセブンイレブンではもうおでんを売り出していた。セブンのおでんはやっぱり一番美味しいと思う。だが、本日只今俺の目の前にぶら下げられているのは、田中おでんだった。


『多分定時で上がると思います。おでん楽しみにしてます。ていうか俺はLINE入れたくない。メールでお願いします』


 何なんですか、この文通は。田中は俺の妻ですか。仕事で疲れて帰ってくる夫のために、かいがいしく晩飯作って待っててくれるんですか。そしてベッドの中では野獣ですか。文字通り狼ですか。俺の方がぶち込まれるんですか。何かおかしくないですか。あ、電車がホームに入ってきた。


 先週の金曜日の夜から土曜日の深夜にかけて、俺は一度死んだ。と言っても過言ではない。命日だと言ってもいい。この満員電車に乗っている男性サラリーマンの中で、一体何人がこんな体験したことあるのだろう。全く変化のない毎日を送っていたというのに、突然アパートの隣人からナンパかまされて、そしたらそいつが狼男で、おまけにホモで(バイか)、物凄く料理上手で餌付けされて、気付いたら俺は処女喪失だ。たったの一週間でこの展開だ。ケツがむずむずする。ボラギノール買ってきた方がいいかもしれない。


 そういえば、昨日新たな事実が判明した。聞いていなかった方がおかしいのだが。何と、田中と俺は名前が同じだった。苗字は違うが名前が同じだった。俺の名前は『一馬かずま』というのだが、田中の名前も『一馬』といった。いくら何でもネタだろうと怪しんだが、田中のパスポート(期限内)を見せてもらったら一目瞭然だった。狼男のくせに、パスポートなんか持ってやがる。俺なんか本州から外に出たのが北海道くらいの経験しかないのに、むかついた。フィンランドはいい国だとか言っていた。悔しい。俺も行きたい。沖縄のキラキラの海で泳ぐとか、小笠原でイルカと泳ぐとか、沖ノ鳥島に見学に行くとか、やってみたい。最後のやつは多分できない。そしていずれも日本国内だ。外国に行ってみたい。別に田中と行きたいと考えているわけではない。でも、頭に思い浮かぶのは何故か田中と二人で観光旅行している図だ。俺の頭は新婚旅行キャンペーンか。またスマホがぶーぶー言い出す。


『俺も多分定時で上がります。俺の方が遅かったらすみません。そこは適当に』

『了解。ビール買ってきます』


 なんてこった、もう余裕で夫婦じゃないか。苗字が一緒になったら、同姓同名になっちまうじゃないか。


 電車を降りて一駅だけ乗り換えて3分歩くともう会社だ。しみじみ便利な場所に住んでいる。今となっては、あのアパートを選んだことが良かったのか悪かったのか俺にはわからない。会社に着いてロッカーにバッグをしまってデスクに座り込むと、思わず溜め息が出た。月曜日から溜め息なんかつくなと、上司から軽く怒鳴られた。お前に俺の深い悩みなんかわかるわけない。もういい、俺はエクセルと電卓が友だちだ。ハゲた上司の世話なんか焼いてられるか。


 昼休みまで光の速さで仕事をしたが、二つミスした。ハゲに叱られた。物凄く不愉快だ。これというのも、そもそもは田中が悪い。俺はへこへこと頭を下げて、昼飯を買いに外へ出た。夜は田中おでんだから、昼はおでんじゃないものにしよう。と確かに考えていたのに、気付いたら俺はセブンでおでんを買っていた。デスクではんぺんをかじっていたら、同僚の女の子に「えっ、もうおでん? 流行に敏感だよね山本さん」と笑われた。俺がLINEやってないことをいつも笑うくせに、こいつ。つまらないので、セブンのおでんを田中に写メしてやった。俺のピースサイン付きで。想像した通り、すぐにメールが返ってきた。


『夜はおでんだって言ったじゃないですか、俺のこと怒らせてるんですか』


 そりゃそうだよな。怒るよな。


『田中おでんがあんまり楽しみなので、前菜にセブンおでん選んじゃいました』


 この大根、まだ味が染みてない。もっとぐずぐずになってるのはなかったのかな。


『俺のおでんの方が美味しいので。あと、あんまり俺のこと怒らせない方がいいです。超絶気持ちイイ目にあわせますよ』


 気持ちイイならいいじゃないか。もう痛くしないで。ホント痛かったから。実を言うと痛いだけじゃなかったけど。それはわざわざ言わなくてもいいと思う。


『ごめんなさい。田中おでん楽しみです』


 今セブンのおでんを食べても、田中おでんはきっと間違いなく美味だ。俺の舌は田中に餌付けされているので、多分何を食べても田中の作るものが一番美味しく感じるに違いない。


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