第10話 舐められた
田中オムレツは今日も激烈に美味かった。非の打ちどころのない完璧なオムレツだ。俺はこのオムレツのために人生を捧げてもいい。と血迷ったことを思いがちな程度には美味しい。昨日食パンを買ってきておいたので、今朝はトーストだった。
「バター塗ります? あ、ジャムとかありますけど。いちごジャム」
「…いただきます…」
「いちごジャム、好きなんだ?」
「好きです。すいません」
「何も謝らなくても」
テーブルにトンと置かれたのは、どこでも見かけるアヲハタのいちごジャムだった。
「あ! レモンマーマレードもありますよ」
「レモン?」
「美味いですよ、食べてみてくださいよ」
もう一つ、トンと置かれたのは、やはりアヲハタのレモンマーマレードだった。初めて食べる。でもレモンだから、だいたい想像はつく。トーストに塗って、食べてみた。
「…美味い」
「でしょ? でしょ? これいけるんですよ!」
何だか物凄く俺の口に合ってしまって、ガツガツと食べてしまった。がっついているのは俺の方だ。主に「普通の」食べ物に。
レモンマーマレードの美味しさに感動してぼーっとしていたら、俺の口元に田中の手が伸びてきた。何かと思ったら、俺のほっぺたに付いたマーマレードを指で拭って取った。
「付いてますよ」
指先に付いたマーマレードをぺろりと舐める。あの、お願いですから、そういうお約束みたいなことするのやめてもらえません?
「…山本さん、かなり変な顔ですけど」
「この状況でかっこいい顔とかできませんし」
「俺は別に何もしてませんよ」
そうなのか? 何もしていないのか? 俺の方がおかしいのか? すっかり頭が混乱して、身体も固まって動けない。レモンマーマレードの味、どんなんだったっけ。
ぼんやりしていたら、田中の顔が目の前にあった。え? 何? なんの用?
「まぁ、何かしてもいいんですけどね、俺は」
小さな声が耳元でしたと思ったら、さっき指で拭われたところを、田中が舌で舐めた。え、舐めたの? 何それやめて。
「やっぱり美味しいですね、山本さんて」
俺はまた、座ったままざざざざと後ずさりした。後ずさりしたはいいけど、後ろはすぐ本棚があって、背中にどんとぶつかる。何ですか俺は今日ここでいきなり食われるんですか。突然のめくるめく嵐ですか。俺、どうすればいいのかわかりません。相手が狼男だけに、何されるかわからなくて結構怖い。
「怖がらないでください。何もしませんって」
「いや、してるし。なんか今、舐められたし」
「その程度、ゆるしてくださいよ。我慢してるんだから」
「我慢ってなに!」
「まあそれはまた今度。コーヒー冷めますよ」
「いや今度とかないし。今何かしましたよね、なんか俺舐められましたよね、ぬめっと」
「…そんなに特筆すべきことでもないんですがね」
する。俺はする。非常に気になる。普通、男が男のほっぺた舐めるか? 舐めないよな。俺は少なくともこれまでの人生で野郎のほっぺたなんか舐めたことない。ていうかその選択肢ないから。
「コーヒー、いらないの?」
「あ、すみません、飲みます」
田中はコーヒーの入ったカップを俺の方にずいっと押し出し、立ち上がってキッチンへ行った。狼男がそばから離れて少しほっとする。微妙にぬるくなったコーヒーを飲むと、ちょっと苦い。朝だからかな、濃過ぎるな。
「牛乳、ほしいでしょ。コーヒー苦かったですよね」
「なんでわかるの。なんでそう俺の思ってること全部わかるの」
「なんでって、俺が自分で飲んでそう思っただけですけど」
なんだ、それだけのことか。また心でも読まれたのかと思った。
「…じゃあいただきます」
「牛乳はやっぱり、おいしい牛乳が美味しいですよね」
「…俺も、おいしい牛乳買ってます…」
牛乳inでいよいよ生ぬるくなったコーヒー牛乳を飲みながら、俺は部屋の隅で小さくなっていた。もう帰りたい。でもちょっと待て。俺が着てるのはまた田中スウェットじゃないか。てことはこれを持って帰ってまた洗濯して田中に返却しなくちゃならない。結局このパターンを繰り返して、なし崩し的に半同棲生活に突入するの?
「もうこのスウェットちょうだい」
「は? そんなにそれが好きなんですか?」
「そうじゃないです、返すのが嫌なんです」
「…そんなに俺のことが好きなのか」
ちがーう。誰がそんなこと言った。勝手に自分の都合のいい解釈すんな。
「そのスウェット山本さん専用に置いときますから、心配しなくてもいいですよ。いつでも泊まりにきてください」
「お泊まり前提ですか」
「だってこの数日で二回泊まったじゃないですか。もうあとは百回泊まっても五万回泊まっても同じですよ」
「無駄にスケール大きくしないで」
なんか俺、マジで自分が嫌いになってきた。俺はどうして田中の言うこと素直に聞くんですか。どうして田中のペースに乗せられるんですか。どうして田中の言うことに逆らえないんですか。
「田中さん、他人を意のままに操れる術とか持ってるんでしょ」
「えっ、俺そんな力は持ってませんけど」
「嘘だ、持ってる」
「いやホントに持ってないです。そんな力あったらほしいくらいです」
「だって俺、田中さんの意のままに操られてるんですけど」
「ああ、それは山本さん自身の意思みたいだから。俺に流されるの気持ちいいんでしょ、きっと」
さらっと気持ち悪いこと言うな。俺の意思はどこにある。
「別にそんなこと気持ち良くありません」
「いやよいやよも好きのうち、とか言いますよね。それみたいなもん」
「好きじゃないし。俺、男に舐められたくないし」
「すぐに慣れますから、安心してください」
なんかもうどこにも逃げられない気がする。何この追い詰められ感。秋分の日の田中も無駄に爽やかな笑顔を振りまいていて、一人で鬱になっている自分がとても損な奴に感じた。あまり気付きたくなかったけれど、俺は以前にもこんな風に男に好かれたことがあった。学生時代のことだけど。もしかして俺は男から好かれるんですか。しかも今回、性別男だけど人間じゃないし。もうこの流されやすい性格直したい。でも今さら直りそうにない。
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