第8話 乾杯

 そして結局、俺はまた田中の部屋にいた。返さねばならない田中スウェットだけは自分の部屋から持ってきた。彼はスウェットを受け取りながら、「今夜また山本さんがこれ着てたら笑えるんですけどね」と言ったが、微かに嫌な予感がしていた俺は聞かなかったことにした。断じて聞いていない。


 テレビでも見ていろと彼は言うが、それも悪いので俺はキッチンでうろうろしていた。何もすることがないのに、田中の背後でうろつくのは挙動不信かもしれない。


「あの、向こうで遊んでてくれていいんですけど」

「申し訳なくて。何の手伝いもしないの」

「手伝いとかいらないんで。マジでテレビとか見ててくれていいんですけど」


 最終的には「邪魔です」と言い渡され、すごすごと引き下がった。テレビをつけると、別に見たくもない総理大臣の顔が目に飛び込んでくる。ニュースを見る気分にもなれなくて、適当にザッピングしていたら、黄色いオムレツが登場した。


「あ、美味そう」


 どこかの町のグルメ番組か。オムレツの美味しい店か。俺は田中オムレツの美味さを思い出しながら、テレビ画面を眺めていた。この店のオムレツも美味いのかもしれないが、田中オムレツは多分ずっと負けない味だ。


「あ、そこのオムレツ、俺食ったことある」


 出来上がった晩飯兼つまみを手に、田中はテレビを見やった。俺の前にツナサラダと鶏のから揚げが置かれる。鶏のから揚げ。男子の胃袋を掴むのにぴったりだろう。ちょっとニンニクが効いていればなお良い。さらに枝豆とだし巻卵も追加された。


「これくらいあればいいでしょ。山本さん、好き嫌いないですもんね」

「どうしてそんなこと知ってるんだ」

「なんとなくですけど。あんまりうるさくなさそうだなと思って」

「はい…好き嫌いありません」


 缶ビールを開けてとりあえず乾杯する。何に乾杯するのだろう。俺は思わず聞いてしまった。


「俺と山本さんの付き合い始めを祝って」

「付き合い始めって」

「いいじゃないですか、別に何でも」


 そうだな、もう今さら何を言ってみても始まらない。俺は田中と普通に喋っているし、田中は俺の前でまるで普通の友だちみたいな顔をしている。こいつ人の心が読める狼男なのに。普通の人間じゃないのに。絶対普通の人じゃないのに。でも、田中の作った鶏のから揚げはちょうど良くニンニクが効いていて今まで食ったから揚げの中で一番美味かった。お母さん、ごめん。俺、田中の作るものの方が美味いと思う。


 どうせ俺とこいつ付き合ってるんだからと自暴自棄になって、金曜日の夜に聞いたはずだが覚えていない話を俺はもう一度聞くことにした。


「それで? 田中さん、狼男なの? この時期どうして食欲ないの?」

「あ、それ聞きます? 聞かないほうがいいかも」

「え、じゃあやめる」

「話してもいいんですけどね、どうせそのうちバレるから。ていうかバラすから」


 その微妙に積極的な態度が気になる。自然に明るみに出るんじゃなくて、自分から明るみに出しちゃうのか。


「ビール、もっと飲みます?」

「いや、一本だけでいいってさっき言いました」

「でも明日、休みですよ。あ、山本さん出勤?」

「休み」

「じゃあいいじゃないですか。飲めば」


 冷蔵庫から二本目が登場した。やっぱり俺こいつと付き合ってるんだとヤケになって二本目を開けた。


「明日、休みだったなんて忘れてた」

「二週続けて連休なんですよね」


 ビールを飲みながら、田中の作ったつまみを食べる。どれも美味い。何を食っても美味い。料理上手な男とか許し難い。やっぱりこいつ普通の人間じゃない。


「狼男は料理が上手なんだ…」

「それ、別に関係ないですから」

「あ、狼男は必ずしも料理が上手くないと…」

「まあそうですね」

「やっぱり狼男なのか!」

「そうですね」


 嫌だこの男。どこからどう見ても人間のくせに、やっぱり人間じゃないらしい。


「やっぱり狼男だったんだ…でも満月の日に変身してなかったじゃないですか」

「気が向かなければ変身しないので」

「そんな自由なもの?」

「自由です」


 枝豆の塩加減がばっちりだ。このスキル、どうやって身につけるのだろうか。


「ただ、食欲だけは月と関係あるので。ちょっと不便ですね」

「その食欲のことだけど、一体なに?」

「満月の頃はこういう普通の食べ物があまり入らなくなるんです。まあ食べますけど」


 確かに、さっきから田中は食べ物にあまり箸を付けない。ビールは飲んでいるが。


「普通でない食欲が出てくるんで、それを制御するのが大変なんですよ」

「…普通でないもので、何を食べたくなるんですか」

「平たく言っちゃえば人間なんですけど」


 いやそれ平た過ぎるから。俺、今すぐ帰るべき?


「本当にガツガツ食うわけじゃありませんよ。流血沙汰とか起きませんから」

「起きたら犯罪だから、それ」

「合意の上で、食わせてもらいます」

「合意の上で…って…」

「ま、この辺で終了しましょう」

「嫌ですよ。謎が謎を呼ぶ」

「もうあまり謎はないです。俺は気が向けば狼に変身できる。実際先月奥多摩行って一走りしてきました。あとは満月の頃に食欲がなくなって人間が食べたくなる。以上」

「一番気になるところが明かされてないですよ」

「あとは俺と付き合ってればそのうちにわかります」


 今後付き合い続けること前提なんだ。そうなんだ。俺、こいつとずっと付き合わなきゃいけないんだ。謎が解けるまで付き合ってなきゃいけないんだ。


「いや、謎が解けても付き合っててください」

「えっ?」

「あ、すみません。心読んじゃった」

「え、やめてください。気持ち悪いから」


 田中がビール三本目に突入した。あまり酔っぱらいたくないので、俺はこのへんでやめる。と思ったら、もっと飲めと勧められた。


「気持ち悪いとか言わないでください。傷付くから」

「すみません」


 明日が休みだと思ったら、あまり我慢することもない。つまみも美味いし、ビールは進む。それに目の前の男が狼男だというにわかには信じ難いことを聞くと、現実から逃避したくてまたまた酒が進む。きっと嘘だ。冗談だ。でも心を読むのは冗談ではなさそうだ。実際にさっきも田中は俺が考えていることがわかっていた。


 俺は、一つ気になっていることを聞いた。


「この前公園で俺に声をかけたのは、偶然ですかね?」

「偶然って?」

「例えば以前から俺に声をかけようと思って狙ってたとか」


 田中は少し笑った。ちょっとその笑い方やめろ。背中がぞわっとする。


「そうです。山本さんのことは前から知ってました」

「じゃあやっぱり、つけてたんだな?」

「まあね。ごめんなさい」


 前から狙われてたんだ俺は。あの中秋の明月の夜、散歩に出ていなくてもいつかは声がかかったんだ。いずれにしてもこうなる運命だったんだ。なんか凄く嫌だ。嫌だけど、諦めるしかないのか。


「そんな嫌そうな顔しなくても」

「…あまり嬉しいシチュエーションじゃないので」

「俺と付き合ってても死ぬわけじゃないですよ。未だかつて不自然に死んだ人いませんけど」

「いてたまるか」

「だから安心して普通に毎日過ごせばいいんです。日常の中に俺が一人加わっただけで」


 そんなに軽々しいものなのか。ある日突然狼男が現れて、日常の中に自然に加わってしまってもいいものなのか。


「でも、いつか俺は食われるんだな」

「死ぬわけじゃないですけどね」


 はは、と軽く笑われる。


「食われるって、どうやって食われるんだ…血とか吸われるのか」

「それ、吸血鬼と間違えてます」

「ある日突然、魂が抜かれるのかな」

「だから死なないって言ってるのに。心配症だなあ、山本さんて」

「普通不安になるでしょ、人間じゃない奴が隣にいるとか怖いでしょ、あり得ないでしょ」

「あり得てるじゃないですか、普通にこうして喋ってるし」

「いや、あり得ないし」


 俺の日常には、人間じゃない変なものが入ってくる余地は今までなかった。今後もない…と言いたいところだったが、いつの間にか入ってきていた。


「美味しいものならいくらでも作ってあげますから。俺と付き合いましょ?」

「もう付き合ってんじゃねえか」

「まあ今後ともよろしく」


 俺のビールに田中のビールがべこんとぶつけられた。何に乾杯してるんだ。


「俺、好きだったんですよ、山本さんのこと」


 俺は別に、こいつのことを好きじゃない。と思う。料理以外。

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